残り香


 



君だから触れたかった。
君だから笑ってほしかった。

君だから我儘を言ってほしかった。



蝶屋敷へ常備薬を貰いに行った時、定期検診で同じく訪れていたリュウに廊下で声をかけられた。どこか浮き足立ったように小走りでやってきたその表情が温かな色を灯しており、珍しいなと首を傾げる。


『お久しぶりです』

「うむ!リュウも息災だったか?」

『はい、杏さんも無事で安心しました。お話がしたくて探していたので逢えて良かったです』

「表情から察するに良い知らせのようだな!」

『私情で申し訳ないのですが…継子を取る事になりました』


弾む声色に、大きな目が爛々と輝き、口元が嬉しそうに弧を描く。突然の報告に驚いたが、その顔を見たら胸がじわりと温かくなり、俺までも嬉しくなった。

まるで春先の桜のようだ。風に揺れる様も、陽光を浴びて綻ぶ様も、雨に打たれて俯く様も、ずっと見ていたいと思う。


「そうか!それはめでたいな!どんな子だ!?」

『真っ直ぐ素直で忍耐強く、自分を持っている良い子です』

「頼もしい限りだ!リュウが認めたのなら心配はないな!」

『今度逢って頂けると嬉しいです』

「もちろんだ!3人でご飯でも食べに行こう!」

『楽しみにしてます!』


そう言ってまた楽しげに笑うから、つられて笑みが溢れる。初めて逢った時の全ての感情が削ぎ落とされ、人形のように失っていた頃が嘘のようだ。今は笑い、悲しみ、怒り、人間本来の美しさが戻っている。

人を避け、温かさを拒み続けていたリュウが、自ら大切なものを抱える日が来るとは。何とも誇らしいな。


どうかその笑顔を忘れないでほしい。
これから先、いかなることがあったとしても。
願わくば、ずっと傍に。


伸ばした手が指先から燃えていく。ジワジワと熱を持って、灰になり上へ上へと昇っていく様を見てた。

あともう少し、あと少し、あと一歩でその白い肌に触れられたはずだったな。








「で、お前どーすんの?」

「どうするとは?」

「好きだって言わねーの?」


宇髄からの突然の問い掛けに飲んでいたコーヒーで盛大にむせてしまった。幸いな事に昼休みの職員室は宇髄と冨岡、それに今し方昼食を買って戻ってきた不死川と伊黒のいつものメンバーしか居なく、他の教師達に聞かれていなくてホッとする。だが、心臓に悪いな。


「教師と生徒だ」

「まーたそれかよ。この間の威勢はどうした。アイツがよく告られてんの知ってるだろ?取られちまうぞ」

「彼女が選んだ相手なら仕方あるまい」

「お前が見合いを断ってるのはアイツを待ってたからじゃねーの?」


持っていたカップを置き、大きな溜息をつく。正直、図星だ。図星ではある、のだが。容易な事ではないだろう。簡単に言える事ならもう伝えている。それをしないのは引け目があるからだ。

リュウは記憶を取り戻したいと思うのだろうか。あの日々を思い出した時、どう思うのだろうか。それはリュウ自身が決める事かもしれない。

先日倒れたと聞いた時、その場に居合わせた冨岡に「思い出すのは時間の問題だ」と言われた。前世の繋がりがある者と接触するとその確率も格段に上がる。現に俺がそうだった。宇髄や冨岡と行動を共にするようになってから、まるでそれが必然だったかのように瞬く間に全てを思い出して現在に至る。


「地味にダンマリしてないで冨岡からも何か言ってやれよ」

「コイツにアドバイスが出来る訳ないだろォ」

「自分の事さえロクに言わないのだから他人の事など余計に無理だ」

「煉獄はリュウの事が好きだったのか」

「おいおいまじか、お前。鈍いにも程があんだろ」

「逆にどうやったら気付かないでいられんのか分かんねェ」


周りからの一斉攻撃に冨岡が心外!とでも言うかのような表情を浮かべる。他のみんなも呆れたように溜息をついていた。

…いや、まて。そこじゃない。


「気付いていたのか…?」

「むしろ気付いてないと何故思ったのか」

「いや、伊黒。お前もだからな?」

「うるさい。何の事か分からんな」

「伊黒も煉獄も顔に出やすいんだよォ」

「俺は知らなかった」

「お前はド派手に天然だからな」

「穴があったら入りたい!」


そんなに自分は分かりやすいのだろうか。宇髄と違って確かに隠し事が得意な方ではない。それでも押し込んでいた気でいたのだが、筒抜けだったのか?一体どこまで浸透しているのか考えただけで目眩がしそうだった。頭を抱える俺の肩を宇髄がポンっと叩く。


「見すぎなんだよ。お前にあんなに見られたらリュウは溶けちまうぞ」


昼の終わりを知らせるチャイムが校内に響き渡る。宇髄達がそれぞれ立ち上がって授業の準備をしている中、その反響する音を黙って聞いていた。

溶かせるものなら溶けてしまえばいい。そして誰の目にも映らなくなって、俺だけの傍に居ればいい。






ーーー放課後

別棟に行こうと一階の渡り廊下を歩いていると、中庭にリュウと男子生徒が二人きりで立っているのが見えた。声はここまで聞こえてこなかったが、雰囲気からして想いを告げている場面だろう。胸の中に燻っていた火種がまた音をたてて熱を帯びていく。生徒同士のやり取りに教師が首を突っ込むべきではない。


…昔も同じ事を思ったな。
師と弟子だと。
そう自分に言い聞かせていた、の間違いだ。本当はずっと弟子として見ていなかったというのに。

このままここに突っ立っていたところで何も出来ず、ただ醜い感情が募っていくだけだ。

そう思って立ち去ろうとしたが、男子生徒がリュウの手首を掴んだのを見て咄嗟に体が動いてしまい、二人の前に飛び出してしまう。


『は、離してっ』

「風雪、話を聞いてくれ!俺は!」

「無理強いは良くないぞ、少年!」


男子生徒は突然の訪問者に驚き、掴んでいた手をパッと離すとバツが悪そうな表情を浮かべた。リュウは目を白黒させながらも、僅かに俺の方へ歩み寄ってくる。


「ごめん、風雪…本当はちゃんと話したかっただけなんだ」

『…うん、大丈夫。わかってる』

「しっかり話せば相手に伝わる。強引な申し出はせっかくの気持ちも良くない印象になってしまうぞ」

「…はい、気をつけます」


そう言って少年はお辞儀をすると走って校舎に戻って行った。残された空間でどんな顔をして隣に居るリュウに話しかけようか躊躇ったが、それは杞憂だったようで。振り返ったリュウが俺を覗き込むように見上げた。


『助けて下さり、ありがとうございます』

「いや、勝手に割り込んでしまってすまなかった。本来なら教師が間に入らない方が良いのだが…」


歯切れの悪い俺に対してリュウは首を横に振った。反射で長い髪が揺れて、甘く優しい匂いが香る。校内でこの香りがするたび、心臓を鷲掴みされるような感覚がしていた。


『煉獄先生に声をかけてもらえて嬉しかったです』


黒目がちの大きな目と形の良い唇が柔らかく綻んでいた。雪解けのように澄んだ声が心地良い。傾きかけた陽光が透き通る肌に浸透して、頬が赤く染まっているように見える。この瞬間を切り取る事が出来れば良いのに、と思った。

同じ屋根の下で過ごした日々。
一緒の任務へ出向き、合間を縫って食事をした事。浅草でお祭りや花火を見た事。怪我をして熱を出したとき看病してくれた事。金平糖を宝物のように抱き締める幼き姿に、紅葉の色が俺の髪色に似てると大人びた顔で言った事。

初めて逢った頃は感情を表に出さず押し殺していた子だったが、一緒に過ごしていくうちに素直さと無邪気さを隠さず見せてくれるようになった。その一挙一動が新鮮で、たまらなく嬉しかった。特別な感情を抱き始めたのはいつからだっただろうか。

…きっと初めて逢った時から、俺はーーー



『先生はいつも一番に気付いてくれて、欲しい言葉を言ってくれる。ヒーローみたいですね』

「そんな出来た人間ではないぞ。自分で言うのもあれだが、熱くなると周りが見えなくなる事も多々あるからな!」

『それだけ熱中出来るものがあるのは幸せな事だと思います。楽しそうに話す人は周りの人を楽しくさせます。煉獄先生はそういう存在です』

「君は俺より考え方が大人だな!」

『大人というより、冷めているとよく言われますっ』

「それは違うぞ。周りを良く見ているのは君の方だ。本当は私欲をもっと全面に出して欲しいと思うが、風雪はいつも相手を優先するだろう」

『そんな事は…私、すっごく我儘で、独占欲が強くて欲張りなんです』

「そんな風にはまったく見えないが、何か独占したいものでもあるのだろうか?」

『それは…秘密です!』


まるで小さな子供のような無邪気な笑顔が胸の真ん中に深く突き刺さった。

今のリュウは前世より喜怒哀楽がしっかりと表に出ている。本来の姿はきっとこうだったのだろう。鬼が存在して居なければあの頃もこうして自由に心のままに生きていたはずだった。


『先生の授業、好きです。だから楽しみにしてますね』

『袴姿も似合ってて格好いいんだろうなぁ』

『煉獄先生に声をかけてもらえて嬉しかったです』



自分の発する言葉にどれほど大きな意味があるのか気付いているだろうか。言われた俺がどれほど嬉しく思い、惹かれている事を。

昼休み、教室の窓から見ていたのを知っている。視線を向けたら慌てて隠れた事も。

ああ、いいなと思った。

前世の姿も、今を生きる姿も尊く、たまらなく愛しい。


もし、俺が記憶を失くしてもまたお前を好きになるだろう。

何度も、何度でもだ。


今ここでその髪を撫でたらどんな顔をするだろうか。今ここで抱き寄せたらどんな事を言うだろうか。一度欲を孕んでしまった人間は満足するまで求め続けるようになる。傷つける事はしたくない。泣かせる事はしたくない。

無邪気に、ただこちらを見上げてくるリュウの姿に罪悪感が込み上げた。見られたくないな、こんな欲にまみれた俺の姿は。


「また何かあったら相談するように!」

『はい、そうします!』


宇髄の言う通りだ。俺はリュウに再び逢えると信じて、縁談を断り続けてた。例え出逢えなかったとしても他の誰かと生涯を共にする気にはならなかった。


『先生、さよなら』と言って遠ざかっていく小さな背中を眺めていた。今も昔もまた明日が当たり前にくる時代ではない。この光景が今日だけではなく、何度も見れたらいいと思う。お前が今を生きてくれているなら、それ以上を望むのは罰当たりかもしれないな。











 


『杏さん、』

「ん、どうした?」

『おかえりなさい』


ああ、俺はこの笑顔が見たくて、この言葉が聞きたくていつもここへ帰ってきてしまう。

幼い頃、父や母がそうやって迎えてくれた事を思い出す。今では千寿郎は笑って迎えてくれるが、父上はそれを許さない。帰りたい家に、気軽に帰る事は出来ない。

リュウが好きな香が部屋中を包んでいる。遠くから鈴菜の足音が近付いてくるのが聞こえる。

穏やかな空間だ。
何ものにも変え難いもの。
守りたくて仕方ないもの。
どんな手を使っても大切にしたいものだった。






「うまい!うまい!」

「煉獄さんの食べっぷりを見ているとお腹が空きますね、師範!」

『そうだね。作りがいがあります』

「こんなに上手いものをいつも食べられる鈴菜が羨ましいな!俺にも毎日作ってほしいものだ!」

『何だか昔の頃を思い出して懐かしいですね。杏さんにそう言ってもらえるならいくらでも作りますよ』


くすくすと静かに笑うリュウの横で鈴菜は俺の意図が伝わったのか、あわあわと顔を赤くして俺とリュウの顔を交互に見ながら戸惑っていた。

当の本人は気付いておらず、漬物を箸で取って一口、また一口と頬張っている。そんな姿も相変わらずだな、と笑みが溢れてしまう。いつかこの意味を理解して意識してくれれば良い。


その時はまた目を見て伝えるから、どうか聞いてくれないか。















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