戦国短編

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鞘を握る手の平から滴り落ちる紅い川。歩を進める度に追いかけてくる小石の擦れる音と、散らばる兵士が作り上げた屍の山。むせ返る血の臭いに吐き気が込み上げ、喉が張り付いて唾液さえ飲み込めずに唇が乾いて切れた。


砂埃舞う荒野に立っているのは私ただ一人。




ここはどこだ、

刑部は?


――……様は?



何をする訳でもなく、ただ導かれるように足が前へ前へと駆り立て、頬を伝う汗が胸をざわつかせた。



「…様!―……様ぁあ!」


(……なんだ?)



赤黒い地に響く嘆きの声にはっと我に変えると、その音を目指して重い足を引き摺った。頭蓋が割れそうに痛い耳鳴りがする。嫌な胸騒ぎしかしない。



「……〜様ぁあ!!」



次に目に入ったのは、焼け野原に横たわり動かなくなった主の手を握り、掠れた声で泣き叫ぶ自分の姿と、風のように逃げ去る黄色の装束だった。


胸をえぐる光景。
立ち尽くす事しか出来ない己の足。


冷たくて、肌を刺すような雨が灰色の雲を裂いて鉄の臭いが充満する土地へと情けをかける。

この雨を拭うすべを知らない。胸の中に生まれた憎悪は全身の血管を巡って己を漆黒の色に染め上げる。

もうこの心に光など届かない。もう二度と、まばゆい灯を見る事は出来ないだろう。


くぐもった息が生む気管が押し潰されそうな錯覚に目の前が霞んでいく。


私は、何の為に生きている。
護らねばならぬ者を護れず生き残る意味が私なんかにあるのだろうか。

声を聞かせて下さい、


  ―……秀吉さま、












―――――………



重い瞼を押し上げると、そこは見慣れた自室。必要最低限の物しか置かない部屋は殺風景で人が住んでいる気配さえ何一つ感じとれなかった。


冷たい、


部屋を漂う空気が肌を刺すように痛くて冷たい。
それは気温のせいでなく、きっと私の心がそうさせているのだ。

わかっている。
自分自身でも気付いている。

あの雨の日、私は死んだ。
秀吉様と共に死んだのだ。




重く鈍い音をたてる体へ鞭を打ち、ゆっくりと立ち上がって襖を開ける。見下ろすのは下弦の月。青白い光が静かに地上を照らして浮かんでる。


「三成くん、月ってね……―」

太陽よりも熱くて、冷たくて残酷なのだと、誰かから聞いた。それが誰だったのか確かめる手段は無い。全てを過去に置いてきてしまった。


願いは過去。
未来に微塵も興味はない。


そう言ったら刑部の顔が歪んだ。いつも刑部は私の代わりに感情を映し出そうとする。少なからずその行動に私は救われていたのかもしれない。最近ではそんな事を考えるようになった。




板張りの廊下へと足を運べば、ぎしりぎしりと悲痛な声が聞こえる。誰も寝静まった世界に自分一人だけが生きていると錯覚して何だか無性に頭が痛かった。


どこへ行く訳でもなく、ただ己が動く方向へと歩を進めていると、廊下の突き当たりにある柱に背をあずけて座るリュウの姿があった。


…静かだ。

庭先のある一点を見据えたまま動こうとしない。瞬きさえせず、ただ浅い呼吸を繰り返してばかりいる姿に自然と眉間に皺がよる。



「何をしている」

『……三成、』



突然声をかけたにもかかわらず、リュウは驚くそぶりを一つも見せずにこちらへと顔を向けた。青白い月に照らされた右目がスっと細められ、口元が小さく弧を描く。



『眠れないの?』

「いや、仮眠はとった。それだけで十分だ」

『刑部が心配する。あと一眠りでもしてくれば良いのに』

「いらん」



今寝ている暇など一切ない。
私には必要ない。
目を閉じれば浮かぶのだ。
あの雨の日が。
頬を伝うのが雨粒なのか涙なのか今だに分からずにいる。

希望が闇に染まった時から、私には何も残らなくなってしまった。青空とは何色だったか。花はどんな香りだったか。人は温かい物だったのか。



『見て、三成。蛍だ』

「蛍だと…?」



怨嗟の沼から引き戻されるように名前を呼ばれ、リュウの指差す方へ目を動かせば、手入れの行き届いた庭先の花の上に光る一粒の灯。月明かりに負けないよう必死に点滅してみせる小さな生物。

酷く、滑稽だ。



『ここで蛍を見たのは初めてだよ』

「…くだらん」

『三成は蛍が嫌い?』

「好くはずなどない。所詮、数日しか生きれない存在だ。戦う訳でもなく、ただ光る事しか頭にない輩にすぎない」



なのに、何故。
こうも目を奪われる。
慈しむように光っては消え、消えては光ってまた消える。

一連の流れを繰り返し命が尽きるまで己を満たしてくれる誰かを待ち続ける。それはただ一つの事に執着する私と同じはずなのに、どうしてこうも雅やかに光れるのだ。

それが恨めしくて仕方ない。



『もうすぐ戦が始まる。きっとこれが最後の争いになるんだろうね』

「いいか、リュウ。裏切りは許さない。絶対に、だ!」

『あたしが裏切った事あった?』

「ない、が。分からないだろう」



予想していなかった事が、この乱世では当たり前の如く起きる。

有り得ない事、か。


秀吉様が討たれるなんて思ってもみなかった。
群雄割拠の時代、大将の命は尊い儚さを表す。


本当は分かっていた、のかもしれない。
ただ、信じたくなかった。


貴方が私の元から去るなんて信じたくなかった。


そんな日が永遠に来なければいいと、何度も思った。




足元を見つめる私の顔に、ふと影がかかる。気がつけば先程まで座っていたリュウが目の前に立ち、こちらを覗き込んでいた。



「なんだ、」

『あたしからも三成に一つ』

「………?」

『“私を裏切るな”』

「な……っ」



紡がれた言葉にはっと息を飲む。
今まで裏切るな、と散々言ってきたが、言い返されたのはリュウが初めてだった。瞬きをせず、ジッとこちらの出方を伺っているリュウの目は、天高く見下ろす月より冷たく、だけど蛍のように柔らかい色を燈している。


触れたら、太陽よりも熱く焦がれるのだろうか。





「…当たり前だ。私は裏切らない。何があってもだ」

『本当?』

「何故疑う…!」

『だって三成はあたしを置いていくから』

「置いていく、だと?」

『三成はいつも一人で行っちゃうから』



眉を下げた困り顔で小さく溜め息をはき、雲に隠れ始めた月を静かに仰ぐその横顔。

コイツのこんな表情は初めて見る。

実に人らしく、戦で血を浴びても汚れない。


私と正反対の色。





『だから約束。一緒に隣を走らせて』



かちあった目と目が交わり、これから起きる戦場の情景が頭を過ぎった。

右には刑部。
左にはリュウ。


雨の日に全てを置いてきた私に残された二つの存在。

気付いたら、一人ではなかった。



『三成を裏切る奴は、あたしが斬首しよう』

「フン……好きにしろ、」



刑部と居ると怒り意外の感情を思い出す事が出来る。

リュウと居ると白黒だった世界が色鮮やかに見える。



もう失う訳にはいかない。
私には勝つ事以外なにも残されていない。




『三成の野望が達成した暁には、一緒に蛍を見ようよ』

「この庭でか?」

『ううん。もっといっぱい飛び交ってる所』



“全部、忘れられるよう”




痛みと憎悪と血で染まりきった思考を忘れ去る事など今後一切ないだろう。

それは許されぬ罪だ。


だが、





「それも、悪くない」



こうも穏やかになれるのは、リュウが私の代わりに笑うからだろうか。




今だ点滅を繰り返す蛍を脳に焼き付けようと、そっと目を閉じて崇拝してきた人物の名を呼んだ。

それは音にならない小さな叫び。




関ヶ原の戦いが起こる3日前の出来事だった。

















H220927 リュウ

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