▼2021/03/04 : 田村

 雨水を吸った車輪が軋み、重たくなった紐がしなる。砲身だけはお天道様の光を鈍く反射させているが、雨だれのような跡が茶色く残っている。昨晩の風雨を体いっぱいに受け止めた小型の石火矢。彼女を陽の当たる場所に連れ出すよう頼まれたのは、今日が初めてではなかった。
 車輪の音はゴロゴロと重々しく、時おり感じる生徒たちの視線がやりにくい。次第に背筋が稲穂のようにしだれてしまうのだけれど、彼なら――三木ヱ門なら、こんな心地になることもないのだろうか。


▼2021/03/04 : 浜

 は? と声に出たのは、最後の井戸水を汲み上げた時だった。桶の中の小さな水面が、翻るように波打つ。
「籠城中に、水路が断たれたらの話だよ」
「いやあ……それは、でも」
 情けない笑い声が出てしまうが、彼女の真剣な……けれどどこか虚ろな眼差しは、おれの目をまっすぐに見据えてくる。
 彼女は本気で訊ねているのだ。そう察したとたんに、おれの脳裏が黒く染まった。そして、その闇の渦から、廃墟となった城の光景が浮かび上がる。おれが身を潜めるここは、天守閣跡だろうか。城の外のどこかから、声なき気配が漂っている。まばたきのない視線。火薬のにおい。左には彼女がいた。
 この城は……以前に井戸を壊されたことで水路を断たれ、とうに籠城できない城となったはずだ。なのに、静かにおれの腕は絡め取られ、彼女のか細い力に縛り付けられる。「喉が渇いたの」と耳をくすぐる声がして、彼女を見やると、ひどく艶かしく、物欲しそうにこちらを見上げる彼女がいた。
 鼓動がはやり、はっと我に返る。張り詰めていた幻の気配が、軽い風に掻き消されていく。
 彼女は目の前にいた。前のめりになっておれを見上げて、改めて訊ねてくる。
「それで、どう?」
 その丸い瞳には、たった今幻に見たような妖艶さの面影はなかった。
「……わからないよ。もしもの話なんて、その時にならないと」
「うーん。そっか。訊き方がよくなかったかな」
 彼女は何食わぬ顔で首を傾げる。

 付き合い始めてからというもの、彼女はこうして妙な話題を口にすることが増えたように感じる。おれがその真意を訊ねても、暖簾に腕押し、今のようにはぐらかされるばかりだ。この話もまた、明日のお昼には忘れられてしまうのかもしれない。


▼2020/12/23 : 田村

「好きだ。お前のことが」
「え」

「え」
「二度も『え』って言うな」
「ええ……?」
「なんだよ、その顔。聞こえなかったならもう一度言ってやろうか」
「そ、それは結構です」
「ああそうか。……なら話の続きだが、私と付き合ってくれないか」
「ちょっと待ってください」
「いきなり敬語になるな」
「ちょっと待ってよ。あの、話が早すぎ! だから、その……急すぎて、ついていけてないの。三木ヱ門が、わたしを好き? 本当に、わたしのことを?」
「そうだ」
「そっか……」
「ずっと好きだった。他の誰にも渡したくない」
「そ、そう。全然気付けなくて、ごめんね……。あの、三木ヱ門はわたしのどういうところが好きなの……?」
「そういう言葉がすぐに出るところだな」
「うっ……。あっ今の『ごめん』っていうのは、断ってる意味じゃなくて」
「わかってるよ。いつからお前のこと知ってると思ってるんだ」
「ごめん……あ」
「いいよ。それで、そっちの気持ちはどうなんだ。ゆっくりで構わない」
「急かされているようにしか聞こえない……」
「………………」
「急に黙らないでよ! ええっと、その……わたしは、もちろん……はい、です」
「……うん」
「今、わたしが三木ヱ門を好きなのは本当……だと思う」
「……うん」
「これから、もっと夢中にさせてもらえますか」
「…………うん。もちろんだとも」


▼2020/10/05 : 田村

「今日は、どうしたの」
 闇の中の天井に声をかければ、静かに返ってくる声がある。「どうもしてない」と優しく降りかかるや否や、空を切る音もなく、その人の気配に、焦げた火薬の匂いに覆われる。「そう」と頷くと、刹那もなく唇を奪われ、肩口にてのひらの体温が這う。初めて触れた折より、少しばかり筋肉の隆起を感じるようになったかもしれない。暗がりで見えないけれど、わたしの腹を伝う彼の指先は、まだわたしの肌よりも白いのだろうか。


▼2020/08/19 : 田村

「壊れたものは仕方ない。また買えばいいだろう」
 わたしの手の中のそれを見て、彼は淡々とそう口にした。自分の顔が熱を失っていくことに気が付いた。口が、喉がまたたく間に渇いてしまう。わたしの手のひらには、可愛らしい装飾を施された兎の置物が乗っており、今はそれが、首からぱっくりと二つに割れてしまっている。
 ――そうじゃないの。わたしは、三木ヱ門がくれた、この子が――
 そんな言葉が口に出せないまま、目から生ぬるい雫となってこぼれ落ちる。衣擦れの音がして、目元を拭ってくれる指先に、頭が白く霞んでいく。「今度また店に行こう」とあたたかな声が耳に届いた。
 手に握った陶器の破片が痛い。痛いほど握りしめながら、わたしは頷くことしかできない。


▼2019/11/13 : 浜

 守一郎、意外とまつげ長いんだ。
 そう言うと、彼は目を瞬かせて「そう?」と呟き、自分のまぶたの先を指でつまみ始めた。
 『意外』は言わなくてよかったかもしれない……と口元を覆おうとした手に、熱が走った。硬い力に握られ、引き寄せられる。音もなかった。
「きみの方が長いと思うけど」
 否応なしに視界を塞ぐ丸々とした瞳には、わたしの間の抜けた顔だけが映り込んでいた。鼻先が触れそうなほどの息の気配に、胸から熱が噴き上がる。わたしは悲鳴もあげられず、脚の震えも虚しいままに、立ち尽くしてしまう。
「あれ、おい! ど、どうしたんだ……!?」
 両肩を小刻みに揺さぶってくる彼の指十本を感じながら、いよいよ顔が熱に酔ってしまった。まったくこの人のすることは、心臓に悪い。


▼2019/10/05 : 田村

※微助平注意

 薄っぺらい唇だ。そういった逃れ文句のひとつでも見つけなければ、唾液の甘いにおいに倒れてしまいそうだった。私の拳に縋る細い指を、わざと握り返さずにいる。この部屋に充満する微熱、暗闇。雰囲気作りなんて煩わしいばかり……と嘲笑したくなったが、それは思わぬ力に掠め取られた。ふわりと手首が浮くやいなや、彼女の長い髪が鞭のようにしなり、私の顔に襲いかかる。眼に激痛が走る。瞼をきつく閉ざしてしまい、背中に布団のやわらかな衝撃を受ける。異物に湧き出た涙をこらえることも叶わず、薄く瞼を押し上げると、私の手のひらは細い指に絡め取られていた。こいつ。
「隙あり」
「……あほか」
 彼女の前髪が、私の額に降り掛かってくすぐる。目の痛みに、涙はいまだこぼれ落ちてくる。私はきっと、情けない顔をしていることだろう。それはどれほどよい眺めなのだろう。彼女の笑う気配が、それまでとろけるように甘かった雰囲気を裂くように皮膚に伝わる。こんなに細い腕、やろうと思えば簡単にへし折れるはずだ。……なのに、それなのに彼女の肌が、裂かれたはずの暗闇を纏い始める。今はただ、この目尻に触れる薄っぺらい唇を、黙って受け入れるしかないというのか。


▼2019/07/29 : 田村

 恋仲になったところで、すぐさま日常が劇的に変化するということもなく。ただなんとなしに、この他に誰もいない木陰で、白い木漏れ日を浴びる三木ヱ門の左肩に頭を預ける。三木ヱ門の服に染み付いた、火薬の焦げ果てたような灰色のにおいが鼻先をくすぐった。それがとても心地よい。昨日までのわたしだったら、今頃は部屋で手持ち無沙汰に掃除でもしていただろうか。三木ヱ門はといえば、その膝の上に本を開いているはずなのだけれど、先程からしばらく次の頁をめくる様子がない。黒い墨に塗られた、獣の挿絵がその目印だった。
 指、長いなあ。本を持ったままの彼の手に、手の甲をあわせてみると、見慣れたはずの自分の手のひらが、すんと白くちっぽけに感じてしまう。彼の爪は細く切りそろえられており、ため息が漏れ出てしまう。

 静かだった。
 あれほど喜劇のような結ばれ方をしたのに。
 今までわたしが見てきた十年あまりなんて、まるで意味をなさないような、優しい衝撃。たくさんの感情の海に、ゆっくりと沈められていった。宙に散る宝石のような光さえ、わたしたちを祝福をしているかのように見えた。灰色の煙ごとたゆたいながら、闇にのまれる。ずっと大好きだったのだと、涙に溶けた声は彼に届いたのか、はたして。

 三木ヱ門の香りがする。服に染み付いた、火薬のにおい。緑の風に頬を撫でられ、意識が遠のきそうになる。このままずっと時が止まればいいのに。そう瞼を伏せたとき、彼の手にある本から、次の頁を開く音が聞こえた。


▼2019/07/27 : 三反田

 深い闇色の水面に、わたしと先輩の、どちらともつかない笑い声が波紋を広げる。駆け寄って辿り着いた、湖の上に浮かぶ小屋。ぎしりと軋む床板にふたり息が止まり、目を合わせ、やはり同時に吹き出してしまう。振り返れば、星屑のような翠の光たちがしんしんと舞いながらここまでの道を浮かび上がらせていた。苔の香りが濃くなっていたことに気付いて、ふと先輩の顔を見あげると、淡い翠色に穏やかな微笑みが照らし出される。わたしは、うまく笑い返せただろうか。
 満月が昇るこの夜、わたしは先輩と互いの長屋を抜けだして月見亭で落ち合う約束をしていた。わたしが何となしに口にした『蛍が見たい』という呟きに、先輩が快く提案してくれたのだ。真面目で頑固そうなひとだと思っていたのに、月見亭の蛍が綺麗なのだと胸を張って語る姿は、なんだかかわいらしく感じられるほど真っ直ぐで。つい笑ってしまう声を、わたしは悟られないようにごまかしていた。

「三反田先輩」
「うん……あ、そうそう」
「なあに?」
「かずま、でいいよ」

 そう囁く先輩の声が、見事に裏返っていた。いつも裏返った拍子に目を背けるのだから、全くごまかせていない。
 それはそうとして、彼はいま何と言っただろう。蛍の光が遠のき、先輩の目線も夜風に紛れていく。
 わたしは、深呼吸をしてから、先輩のその名前を口にした。わたしの声も、裏返っていたかわからない。散り散りになった蛍が、闇に消える。先輩の微笑む気配だけがして、今度ばかりは全く、きれいに笑い返せた気になれなかった。


▼2019/07/13 : 斉藤

 ――ねえ、内緒にしてね。
 そんなふうに年上の男の人にねだられてしまっては、不器用に頷くしかできなかった。示し合わせるようにその唇に宛てがわれた彼の指先が、赤くささくれ立っている。障子越しの光に照らされ、その微笑みは幾らばかりか血の色が良さそうに透ける。
「わたしと、タカ丸さんだけの秘密?」
「そう。秘密」
 耳元に唇の気配がした刹那、聞いたことが無いような低い声に、わたしは肩から震え上がった。その甘い仕草は、脅迫にも似ている。


▼2019/07/02 : 四年生

 深い闇にも似た夜空には、砂金のような星々が散りばめられている。煌々と星屑に囲まれながら照らし合うそれは、忍ぶ者には忌むべき月明かり。
 縁台に腰を下ろしたわたしは、静かな光の川を仰ぎ、その幻想的な光景にいつしか深いため息を漏らしていた。吐いた息が、かすかに白く立ち込める。そうか、こんなに澄んだ空気が、あの星空をますます鮮明に映し出しているのだ。
 こんな時、誰かと一緒に、この美しい景色を見上げられたら……。そんな乙女じみた心地にもなってしまうのだけれど。

「誰が美しいって?」
「お前じゃないだろ」
「こんなところで何してるの」
「月が大きくてキレイだな!」
「本当だねぇ」

 いや五人もいなくていい。
 どうしてタカ丸さんが月見団子を抱えているの。どうして喜八郎が既にそれを頬張っているの。滝夜叉丸と三木ヱ門はまた言い争いを始めた。守一郎は月の光を受けながら団子にむしゃぶりつき、花より団子どころか、どちらも満喫しているようだった。

 こうして星空に見た憧憬はたやすく崩れ去った。わたしも月見団子を口に運ぶ。月はあいも変わらず遠いけれど、彼らの賑やかな笑い声たちが、夜空にたちのぼってこだまする。


▼2019/05/27 : 綾部

 霧のような雨音に、土の烟る匂い。僕は縁台から灰色の空を見上げ、胸いっぱいにその匂いを吸い込んでみる。けれど、はあ、と大きな溜め息となって、口から吐き落とされただけだった。
「雨は嫌い」
 雨が上がったところで、またぬかるんだ地面を踏むことになるのだろう。そう考えるだけでもどうにも億劫で、眉間が力んでしまう。
「わたしは雨は好き」
 その声に振り向けば、彼女が目を細めて小首を傾げている。いつからいたのだろう。秘めやかな笑い声は、黒い雨音に流される。
「喜八郎のご機嫌ななめな顔を拝めるから」
 だから、嫌いなんだって。


▼2019/03/07 : 綾部

 ひやり土の壁。頭上に軋む床板。お風呂上がりの足音。この底まで響く、彼女の独り言。とりとめのない、無防備な言葉たち。
 ここで眠るようになって、まだ三日目くらい。時折、聞き慣れた男の気配がして、僕を探しに彼女をたずねてくるのだけれど、誰も知らない。誰も。
 ふと肩に降りた小さな生き物が、ちうちうと鳴きながら銀色の産毛を震わせる。昨晩彼女を驚かせた鼠だろうか。いけない奴だ。もう悪さをしないように、そっと僕の手のひらに閉じ込めておいた。
 ねえ、困ったらいつでもお呼びよ。僕はここにいるから。


▼2019/03/07 : 田村

「まさか本当に呑み込むとは思わなかった」
 けらけらと笑う声が、埃臭い倉庫に響いた。目を細める三木ヱ門、その腕に抱かれた火縄銃を、わたしは滲んだ視界の中、精一杯に見据える。
 そうだ。これだ。時おり発音が裏返る、彼がひときわ機嫌のいい時の、火器によく聞かせている猫なで声。それがわたしに向けられるよろこびに、今、辿り着けた。
 さすがに呑み込んではいない。わたしがひとつ芝居を打ったことに、彼は気付いただろうか。どちらにせよ、わたしの舌の上では血みたいな味の鉛玉が転がるばかりで、うれしくて、涙が止まらなかった。


▼2019/03/07 : 平(※人外パラレル)

 つまらぬ問いだ!
 私はそう鼻息で切り捨てた。折角の食事の味が台無しになったらどうするつもりなのだ。蒼白な顔で見上げる彼女を、私は睨めつけた。
 不老不死など、馬鹿げた話だ。今ここに在るが侭の私が、いつもいつまでも美しい。老いるも若やぐも、全てが通過点のひとつに過ぎない。何を怯れることがあるだろう。
 私よりも丸く柔なその顎を指先でなぞるが、彼女はまるでこの世ならざるものでも見たかのように、顔色を曇らせるばかりだ。
「……ほ、本当に、憶えてないの」
「何?」
 彼女の白い首筋に、鼠か何かに噛まれたような、青い傷跡を見つける。内出血を起こしているのか、紫色に腫れた素肌がなんとも無様だった。一体どんな不注意を働かせたというのだ。鈍臭い奴め。
 やり場のない溜息を飲み下すと同時に、舌に痛みが走った。どうやら犬歯の先にあたってしまったらしい。


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