髪結いの花嫁

※やや成長想定の恋仲、情事を仄めかす描写有り

***


夕暮れの朱色に染まる床板。そこに座り込むわたし。
連子窓から覗く晴れ間。
甘苦しい整髪料の匂い。
淡白に断つ鋏の音だけが、小気味良く居間に響く。

タカ丸さんが仕事をする姿を眺めるようになってから、どのくらい経つんだろう。
……かつてまだ未熟だった彼の練習台として訪れていた頃、わたしは途方もない夢心地に満たされていた。
髪の毛をばらばらにされて、それからへんてこに盛り上げられる。
失敗だ、ごめんね、そんな言葉を聞きながら、わたしはただ笑ってそこに座り続ける。
わたしはずっと、鼻先を包むタカ丸さんの匂いに酔いしれていた。
甘い汗の気配がたまらなくわたしを誘う。それに包まれるたび身震いするような恍惚を味わう。
愛しかった。この部屋でタカ丸さんのもたらす全てが。タカ丸さんの指がわたしの中に忍び込んで優しく心臓を撫でていくみたいで、癖になりそうなほど、とても心地よかった。

そしてあれは、初夏の頃だっただろうか。あの日、やはり甘く満ちた匂いの中。
わたしは見てしまった。タカ丸さんの首筋を伝う、一筋の汗の滴を。覗く胸元の先。濡れた肌の色。
それが幼かったわたしの目にどう映っていたのかは、記憶を閉ざしたかのように覚えていない。
ただ、気が付いた時には、幼いわたしはこう口走っていた。


大きくなったら、わたしをお嫁さんにしてください。――




……窓の外を見るたび、こうして記憶を繋ぎとめてしまう。焼け爛れた蜜のような雲は、今すぐにでも零れ落ちてきてしまいそうなほどに朱い。風の足音がする。

今、一人のお客さんが店を出て行った。わたしは、床上に敷いた足がすっかり痺れていたことに気付く。
タカ丸さんがお客さんを出入り口まで見送る。夕暮れの逆光で、その姿は黄金色に縁取られた。「ありがとうございました」と頭を下げると同時に、菊の花のような後ろ髪が揺れた。

「はあ。やっぱり父ちゃんがいないとお客さん少ないな」

気だるそうにこちらを振り向くタカ丸さん。土間に焦げるような影が伸びた。

「名前。ごめんね、こんな日にわざわざ手伝ってもらっちゃって」
「……そんな、とんでもないよ」

お父様、偉い人にご指名されたんでしょう。足の痺れをこらえながらわたしが言うと、タカ丸さんは照れ臭そうに頬をかいた。
幸隆さんが不在の今日、一人で店番を担うタカ丸さんとしては、思ったほど客入りがよくないという。
おれも頑張らなきゃ、と強がるように笑うタカ丸さん。

「タカ丸さんだって、一人前の髪結い師だよ」

幼かった頃とは、もう違う。
そんな言葉を、わたしはうまく呑み込んだ。
……タカ丸さんはというと、きょとんと小首を傾げて、こちらを見ている。
以前より伸びた髪。骨張った足首。忍術の鍛錬でいつしか引き締まっていた肉体とは裏腹に、薄紅色の着物の柄が優しく纏う。
この人の姿に、わたしの心はまた息づく。

何度もタカ丸さんに恋をして、そのたびに諦めていた。
この髪結い処に訪れる女性のお客さんは、老若問わず皆、看板息子のようなタカ丸さんをいたく気に入る。タカ丸さんもそれに笑顔で応じる。タカ丸さんの指が、わたしじゃない誰かの髪に触れる。
髪結い師としてのタカ丸さんを否定するようなことだけはしたくなかった。だからわたしは、他の誰が知るでもなく、この切なさに一人で喘ぐばかりで。……
でも、それが心地よかった。ずっとずっと満たされないまま、近くて遠い存在に憧れ続ける。

……いつかの唐突な告白も、忘れられてうやむやになってしまえばいい。そう胸にしまっていたのに。


ふと、タカ丸さんがこちらに歩み寄っていることに気付く。わたしの座る両脇に手をつくと、影が落ちる。足の痺れが消えない。少し身構えてしまった。けれどタカ丸さんは気にも留めず、体を伸ばしてくる。

不意に視界が覆い隠される。
短い口付けだった。

「……父ちゃんさ、今日もう帰ってこないんだ」
「タカ丸さん……」
「だから……ねえ、名前。おれ……」

再び顔が近付いたのは、わたしの首筋だった。
そして甘く刺さる感触に肩が跳ねた。わたしは声をあげてしまった。

「あっ、タカ丸、さ……っ」

心臓が波打つ。もどかしい予感がした。思わず押し返そうとしたら、逆に後ろへ押し倒される。
なんとか足の痺れが引いてきたのに、まるで身動きが取れない。
……やっと見上げたタカ丸さんの顔は、ひどく不安げに眉をひそめていた。
鼓動がはやる。

「……嫌?」
「…………い、いや……あ、そうじゃなくて……」
「いいよ、待つから。名前はおれのお嫁さんになるんだもんね」

一気に顔が熱くなった。
そう。タカ丸さんはわたしの告白を覚えていた。それを今になって持ち出してくるようになったのだ。もう何年も前のことなのに。
ふふ、と柔らかい吐息が聞こえる。わたしは肩を縮めることしかできず、何も言葉にできないでいる。
目が合うと、また顔が迫ってくる。
真剣な眼差し。
喉が震えた。

……が、しかし。

「おっと」

タカ丸さんが素早く体を離した。わたしも一寸遅れて気付く。人が来る気配だった。

「名前。お客さんだよ、座布団早く」
「あ、は、はいっ」

駆けるように取り繕う。心臓がうるさかった。

やがて、ぬっとのれんをくぐる四角い手が現れる。
肩より一回り大きな笈を背負った、苦み走る面立ちの男の人だった。無精髭が不思議と様になっている。
「いらっしゃいませ」タカ丸さんが笑顔を向けたので、わたしも慌ててそれに従う。

お客さんは入り口近くに笈を下ろすと、座布団に座り込むなり、タカ丸さんに注文を告げた。そこで待っている妻とこれから旅立つために、髪型を整えてほしいのだそうだ。ただし、女房が気に入っているという髭は剃るな、と付け加えて。

連子窓の空には、いつしか紅紫色の重たい雲が立ち込めていた。今にも夕立が来そうだ。
タカ丸さんが急ぎでなくてよいのか尋ねると、お客さんは、ひどく抑揚のない声で構わないとだけ呟いた。それから少し世間話をする。入り口の隅に、お客さんの笈が黒く佇んでいる。

「わたし、ゴミ出ししてきます」

少しでも店を小綺麗に保つのがわたしに手伝えることだった。短い毛を拾い集めた笊を手に、わたしは土間へ降りて板戸を開けた。屋根をくぐると、やはり風上から薄雲が漂ってきている。
降りそうだわ、と近所の女性の声が聞こえる。その手前を、二人の子供が駆けた。

……あのお客さんを待っているという女性らしき姿は見当たらなかった。

裏口から戻ると、既にお客さんとタカ丸さんの会話は途切れていた。鋏の短い音だけが淡々と続く。
わたしは囲炉裏を前に膝立ちでしゃがんだ。手持ち無沙汰に火吹き竹を取り、囲炉裏の薪を吹きかけた。埋れた灰が金色に輝く。淡い蜃気楼に灰が舞い、その向こうに仕事をするタカ丸さんの姿が見える。やがて低くとぐろを巻き始める紅い揺らぎを、わたしはただ、ぼうっと眺めていた。

何もない時間が流れ、タカ丸さんが「どうですか?」と鏡を見せる頃には、あたりは薄暗く影に満ちていた。窓から覗いた空が、一面を覆い隠す雲であるとわかる。
瞬く間に、地を打つ水音がほとばしる。

夕立だ。

のれん下から覗く街が、瞬く間に霧にぼやける。
勘定を済ませたお客さんにタカ丸さんが笠を貸そうとしていたが、お客さんは静かにかぶりを振った。

――これで永遠になれる。

お客さんはそう呟くと、雨の降りしきる外へ、笈だけを担いで店を出た。

夕立に土の匂いは深くなる。

「すごい雨……。あの人、本当に大丈夫かな……」
「ずいぶん重たそうな荷物だったね。……さてと」

タカ丸さんは窓に簾を掛けた。影が消えた空間から、光も消える。そして霧の中に消えたお客さんを見送るでもなく、タカ丸さんは大きなのれんを下ろすと、後ろ手に板戸を閉めた。同時に激しかった雨の音が隔てられる。

「あれ、タカ丸さん、もうお店閉めちゃうの?」

薄暗い部屋でタカ丸さんの顔が囲炉裏の火に浮かぶ。
タカ丸さんが壁にのれんを立てかけながら言う。

「どうせもう誰もこないよ。こんな雨じゃね」

その場でわたしはため息をついた。
ざらざらと雨は音をたてて流れる。

「……わたしも帰れない、かな……」

外界の全ての気配が雨音に掻き消される。するといつの間にかタカ丸さんはわたしの目の前に立ち、先ほどわたしが出した座布団を片手にぶら下げていた。

「帰らなくていい」
「……え」

空気と、布の擦れる音がした。
呼吸が止まる一瞬の、短い、口付け。
知らぬ間に背中に巻きついている腕。

「た、タカ丸さんっ……?」

整髪料のひどく甘い香りを鼻孔に押し込まれ、思わずむせ返りそうになる。

「帰っちゃだめ。許さないもん」

掠れた声。
言葉とは裏腹に、タカ丸さんの瞳は物欲しげに揺れていた。
声が出ない。目頭が痛くなった。

「だって、もう父ちゃんは帰ってこないんだし、それに」
「……それに?」

「あんなの、見ちゃったらさ」

わたしを抱き留めたまま、タカ丸さんの顔が土間の隅に向く。さっきまでお客さんの笈が置かれていた所だ。黒い雨水が這いよっている。

「……おれは、名前の幼なじみなんだ。変わっていくことなんて当たり前だった……だから、怖くなんかないよ。いつだって名前のことが好き」

それはまるで己に言い聞かすかのようで、わたしはついに応えることができなかった。……この人は、わたしがゴミ出しをするほんの隙に、お客さんから何を聞いたのだろう。
ただ、今は『好き』という言葉にのぼせてしまう。そのまま三度目の口付けを受け入れることに何の抵抗もなくて、わたしはタカ丸さんの背中に腕を回した。
何度も唇が触れ合う。タカ丸さんの甘い匂いが、目の奥にまで染み込んでくる。舌先が触れ合った刹那、声にならない息がせり上がった。全身が震える。絡み合う唾液の水音に、胸がざわつく。苦し紛れにタカ丸さんの名前を呼ぶと、ふっと微笑む気配がした。
優しく倒れていく身体が、じりじりと微熱に蝕まれる。


――大きくなったら、わたしを


声は騒がしい雨音へ紛れる。
硬い指先に掻き消されていく感情。
淡く熱い溝に落ちて

少しだけ、泣いた。





…………。

いつしか部屋は暗闇に包まれていた。雨の音は強かに打たれ続ける。
深い呼吸が止まない。未だ汗ばんでいる手のひらは、大きな手によって、蝶の標本のように縫い止められている。
わたしの身体はタカ丸さんの素肌に抱きしめられていた。絡まったままの素足。汗も、唾液も、呼吸も。全てが混ざり合った後。耳元で聞こえる呼吸が微かに粗い。わたしは身体ごと息を沈めていった。

「…………」

今こそ、幸せ、なんだと思う。
目を閉じて思い返す。少年だったタカ丸さんの姿。
わたしじゃない誰かがいる。遠くでその声がする。そうすると、タカ丸さんはすぐわたしのそばを離れていく。
『お客さんだから』わたしはタカ丸さんを真似てそう言う。
いつも満たされなかった。

雨の音が、銃声のように強くなる。
今は二人以外の声はない。タカ丸さんもわたしから離れたりしない。
だから、たぶんこれがきっと、わたしが最も待ち焦がれていた瞬間。


「…………、かいもの」

ふと、声が漏れた。「名前?」タカ丸さんが上体を起こす。手は握りしめたまま。

「買い物、行く」

起き上がって、乱れていた服を正そうとした。しかし、片手がタカ丸さんによって床に貼り付けられている。手を離すよう力を入れた。抜けなかった。
タカ丸さんの顔を睨もうと顔を上げた。
……刹那、ぞくりと背筋が震えた。
雷鳴が響く。
一瞬の閃光の中で、タカ丸さんがわたしを、疎ましそうに凄んだ眼で見据えていたのだ。

「……まだ雨降ってるよ。それに、何も買うものなんてないでしょ」

抑揚のない声。
わたしの身体から、体温の余韻がさっと消え失せた。
暗がりの中、タカ丸さんの顔が近付いてくる気配がする。震えたわたしの唇に、柔らかくも冷たいものが重なった。タカ丸さんの唇だ。さっきまであんなに熱かったのに。

「……んっ、う」

深く舌先が伸びてくる。たまに漏れるタカ丸さんの呼吸にまた身体の芯が息づく。息苦しいほどに、気が遠くなっていく。溺れそう。
でも、どうして。

「……名前。まだ分からない? さっきのお客さん」
「え……?」
「あの人の奥さんならいたよ。この店に、ずっと」

またぞくりと熱が引く。
タカ丸さんが顔を逸らしたのでその方向を見ると、暗闇に土間の壁が浮かんでいた。お客さんが笈を置いていたところだ。
まさか、と出そうとした声が出なかった。

タカ丸さんが言う。

「二人とも、たぶんもう生きてない」

あっさり言い放つタカ丸さんにわたしは言葉を失った。
見透かされている。タカ丸さんの濡れた瞳は、『許さない』とわたしに囁いている。

「おれは、いつだって名前のことが好きだよ。絶対に君を不幸になんてさせない」

さっきも、似た言葉を聞いたはずなのに。
どうしてかわたしの目には、とめどない涙が溢れていた。

「タカ丸さん……っ」

やさしく微笑む気配がした。
箍が外れたように嗚咽がとまらなくなり、そのままタカ丸さんの胸に崩れ落ちた。

「……タカ丸さん、タカ丸さん……ごめんなさい。わたし……わたし」
「よしよし。分かればいいの」

あやすように頭を撫でられる。わたしはまたタカ丸さんの着物を濡らした。
この人の声が、体温が、何度でも胸の中に満ちていく。痛みも苦しみもなく眠れるように。

甘い湿り気が漂う部屋。
雨は降り続いている。
板戸の下から、雨水が土間を侵し始めていた。



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映画『髪結いの亭主』(1990)のオマージュ