泣かない赤鬼

※病んでる

***


放課後。校庭の木の幹にもたれ、その木陰から、運動場を走りゆく生徒たちの姿を目で追う。目を伏せると、さあさあと木の葉が歌い出し、私の完璧に象られた髪を撫でる。空は高く、何も知らぬようにただ青い。

「……いい天気だな」

私は誰にともなく、一人呟いた。
眺める先には、自主練習に勤しむ生徒たち。

返事など、あるわけがない。
そう己をあざけ笑う昼も悪くはない。憂いたそがれる私もさぞ美しいだろう、なんて陶酔することすら、今は億劫に感じられる。

しかし、そんな私の思惑を裏切る人間が現れることとなる。

「ほんと。いい天気だね、滝夜叉丸」
「……名前」

聞き慣れた声の主の名を呼ぶ。気配に気付けなかったが、不思議と緩やかな気持ちに満たされた。
すると名前は一寸ばかり瞼をしばたかせ、私の顔をしげしげと見つめ始めた。私は首を傾げてしまう。

「なんだ、一体」
「滝夜叉丸……どうしたの?」
「何がだ?」
「その、なんだか元気なさそうだったから」

その言葉に、私は無意識に名前から顔をそむけてしまった。
彼女が特別人の心情の変化に敏感なわけではない。寧ろ疎い方だ。そんな名前にすら見抜かれるほど、私の態度のが単純すぎるのだろう。現にすれ違う生徒たちはみな、今の名前のような不思議そうな表情を浮かべて通り過ぎるのだ。
しかし今日、直接そう私に言い示したのは彼女が初めてだった。
……誰でも悟れるが、誰もが声を掛けないでいる。それが私という孤高の人間。


「……実は、悩みがあるのだ」
「やっぱり」
「聞きたいか?」

ちらりと名前の顔を見やる。日頃一年坊主たちに常識人だ良心だといわれる名前だが、この時ばかりはおかしな奴だと思いたくなった。悩んでいるのは自身ではないのに、まだどんな悩みかも聞いていないのに、その瞳はどうしてか、不安げに私の顔を映して揺れているのだから。
ふっと胸が浮く感覚を覚える。

「……わたしなんかが、聞いていいなら」

そう見上げてくる名前が、とても卑怯な人間に思えるのは、彼女が女忍者を志す者だからなのだろうか。




――喜んで共にいてくれるような、親しい友がいないのだ。――

ひどくゆっくりした口調になってしまう。

「――何が原因なのかは分かっている。この自惚れた性格と、そのためについ長くなってしまう数々の武勇伝……」

私が話す間、名前は一切笑いも呆れもせず、私を見つめたまま押し黙っていた。相槌すら打とうとしないその眼差しには些か緊張を覚えたが、彼女が真剣であることに変わりはあるまい。

「街へ誘っても、会話に入ろうとしても、みな小鳥のように飛んで逃げていく。危害を加えるつもりなどないというのに」

だんだんと独り言を呟くようになってくる。視界の隅で、ぼんやりと名前がそこにいることだけを確かめる。

「私は嫌われている。誰もが関わりたがらない。よくて無視される空気、といったところか……」

そう言うとわずかに名前の唇が開きかけた。しかしすぐに押し込められ、顔を逸らしてまごまごと繰り返しかたどる。かける言葉を選んでいるのだろうか。
私のために吟味してくれるのか、それとも素直な言葉では会話できない相手だというのか。そんな背反した気持ちが混ざって、見つめるか睨むかの間を彷徨っていると、やがて名前が口を開く。

「……人同士の気質って、合う人と合わない人とが必ずあるから……。滝夜叉丸はたまたま後者が多いだけだよ。でも、わたしはね、みんなに理解されない人ほど、本当に分かり合える誰かがどこかにいるはずだって思う」

名前は穏やかな声で語りながら、私の手を両手で包み見上げてくる。喉の奥が疼くように震えたのを感じた。名前の瞳だけを見ていると、力無くも確かな微笑みが返ってくる。

「少なくともわたしは滝夜叉丸が好きだよ。一緒にいるとすごく楽しい。それに何でもできるからとても憧れてる。何度同じ話をされたって、わたしは全然平気なの。自分に正直な滝夜叉丸が一番大好き。
 ……だからもし、滝夜叉丸が芝居をしてでもみんなに受け入れられる人間になろうとするなら、わたしは……滝夜叉丸のこと、嫌いになるかもしれない」

……それでもいいなら、何も言わないけど。
消え入るような声を境に、名前は唇を閉ざす。
そして包み込むような微笑。
名前が紡ぐ言葉に、私の胸の中で絡んだ糸のもつれが一つ一つ解れていく感覚を知った。まるで彼女の両手が握る私の手を伝って胸の内側を撫で上げるよう。くすぐったくて、あたたかい。そこから快楽にすら煮ている疼きが上り、息が苦しくなる。

「出過ぎてるかな……。でも本当だよ。私は滝夜叉丸が大好き」

こんなにも望みすぎた言葉をくれる彼女を、誰が、どうして見捨てられようか。

「名前――っ」

遠くに人がいるだとか、名前が驚くかもしれないだとか、そんなことを考えるより早く、私の腕は名前の体を抱き寄せていた。柔らかい肩口に首を乗せ、背中にしがみつく。
名前の後ろ髪が揺れ、甘い匂いが鼻をかすめる。

「た、滝夜叉丸……っ?」
「名前、すまない……。お前だけはこうして私を気遣ってくれるというのに、それに気付かず別の人間を望むなど……。私にとって、お前の存在が当たり前になりすぎていたのかもしれない」

零れ落ちるように言葉が溢れだす。
震えだした肩が、名前の細い腕に包まれた。そのなんと嫋やかなことか。捻れば容易く折れてしまいそうなその身体が、今は何よりも頼るべきものに感じられた。

「……私も、名前が好きなのだ」

腕を緩め真近で名前を見つめると、名前はそっと瞼を閉じた。震えながら、私はゆっくりとその唇を寄せた。
もしも人が見ているなら、見せつけてやればいい。
誰が拒もうとも、私たちはこの世の淵で結ばれる。

「わたし……みんなになんて言われたって、この世の全部に無視されたって、滝夜叉丸のことが好き――」

どうしてそうまでして私を喜ばせてくれるのか。
私だけを恋い慕うその色付いた頬に、ますます愛しさが溢れる。

しかし次に名前が告げたのは、私の想像の延長にもない一言だった。



「だからもっと嫌われてよ」



「なっ……、名前?」

抱き締めていた腕が浮く。
しかしそれを許すまいと、背中を、腰を、彼女の力とは思えない強さで縛りつけられた。

その娘は笑っている。
瞼を見開き、白い歯をゆがませる。

「わたしだけが滝夜叉丸を愛してる。みんなに嫌われている、ありのままの滝夜叉丸をね。あは……ははは、こんなに都合のいい幸せ、自分でも信じられない」

刹那、全ての音が遠くなった。
うなじに走る鋭い違和感。頭の中で、木の葉の群生が騒ぎ立てる。
あ、と出た声は既に遅い。しかし、私は彼女のしたことよりも、この自分が不意をつかれたことに驚いていた。
ぷつりと、糸が切れたからくり人形のように、膝が崩れ落ちる。倒れそうになった上体は、か細い腕に抱きとめられた。ぼやけた視界で、彼女が両膝を立てている。

「ぜったい、だれにも渡さない」

細められたその瞳の奥が、物欲しげに揺れる。

「う……名前、お前……」

意識を手放すまいと、必死に唇を噛んだ。いっそう力を込めた拍子に、鈍い痛みと生ぬるい味が口に広がる。
すると、ふいに頭を引き寄せられた。下唇の滴るところを吸い上げられる。危機だと全身が警鐘を鳴らしているというのに、私の意識は、その女の前に従っている事実。

私が望んだものとは一体。
おぼろげな口付けをきっかけに、大地が暗転した。




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