雨と廃城

「立派なお城……」

 灰色の空。崩れかけの門扉を潜るなり、名前は感嘆の言葉を漏らす。
 しかし果たして、その言葉が似合う光景だっただろうか。名前の目前には、悠々と聳えながら苔にまみれた城壁があった。
 七十年前に『バフン岳の戦い』で落城したと言われるマツホド城の支城、ホドホド城だ。
 見上げるほどに、首が仰け反る。くすんだ空の色によく似た、石の城壁。伸び散らした雑草だけが、青々と生い茂る。

 名前の背後で、守一郎は俯いていた。

「本当は一夜で落城するような城じゃなかったんだ。……あの日は、マツホド城の忍者が全員本城にいたから……」

 守一郎は握った拳を震わせる。その黒い瞳は、ひどく憂いに満ちていた。彼のその痛ましい眼差しに、名前も眉を吊り下げてしまう。

「連れてきてくれてありがとう。守一郎が一人で守ろうとした場所……見てみたかった」
「……そ、そうか?」
「うん。守一郎のこと、乱太郎たちからよく聞いてたから、ずっと気になってたんだよ」

 名前の言葉に、守一郎はわずかに目を丸くした。すぐに顔を背けたが、その頬はみるみる紅潮していく。そして真っ赤に茹で上がるが早いか、勢いよく声をあげた。

「……で、でも! そうだよ、今は忍術学園に縁ができて、名前にまた会えたから、おれ……!」
「うわ、お地蔵さんが逆さまだ」

 守一郎の叫びをよそに、名前はずけずけと城内へ踏み入るのだった。「だあー!」と派手に転げ落ちる声がする。
 そして、へろへろと起き上がる守一郎に、名前は何食わぬ顔で振り返る。

「どうしたの?」
「……なんでもないよ……。ただ、忍術学園に入れてよかったなって」
「ああ、なるほど。ねえ、学園生活はどう? 勉強、楽しい?」
「それはもちろん! 火薬についてはタカ丸さんと一緒に研究したりするんだ。クラスメイトも委員会も、とても新鮮だよ」
「そっか。わたしも、守一郎にまた会えてよかった」

 う、と声を詰まらせる守一郎。そして尻すぼみに「聞いてたんだ」と肩を竦める。
 名前もいたずらにはにかんで見せた。

 迂回しながら、曲がり角を覗き込む。足元を覆う雑草が波打つ眺めは、本来なら開けた平地だったのだろう。
 階段を登りながら、「一年は組のみんなが考えた合言葉が妙ちくりんでね」と守一郎は笑いかける。

「私も乱太郎達から聞いたかも。忍術学園の人なら誰でも分かるものだって」
「そう。だから、おれも今なら答えられるかな」

 守一郎は得意げに背筋を伸ばした。
 すると名前が小走りに階段の上へ回り込み、二人は向かい合って立ち止まる。名前は守一郎を見下ろし、挑戦的に笑った。

「なら、試してみよっか」
「……ああ。いいよ!」

 守一郎も拳を握って身構える。

「安藤先生のギャグは?」
「最高ーっ!」

 拳を振り上げて叫ばれた言葉に、名前は待っていたと言わんばかりに身を乗り出した。
 守一郎もハッと我に返る。

「残念、ハズレ! 正解は、『安藤先生のギャグは、親父ギャグ』でした。曲者め!」
「しまった! こうなっては仕方ない!」

 けらけらと笑いながら、守一郎は名前の脇へすり抜け、階段上へ駆け上がる。名前も後を追い、そのまま草むらで追いかけ合う。

 やがて名前の手が守一郎の腰に届き、二人して倒れ込む。
 生い茂った緑の中。二人はいつまでも笑い止まずにいた。
 荒れ果てた廃城に、うら若い男女の笑い声が響く。

 ――しかし、しばらくすると、不意に湿っぽい雑草が二人の頬を掠めた。
 見ればまだ昼間だというのに、分厚い雲が太陽を隠し、辺りが黒く染まり始めている。
 やっと呼吸を整えた二人の隙間を、生暖かい風が吹き抜けた。

「変な天気……大丈夫かな」
「うーん……。前にタソガレドキが備蓄してた兵糧は全部運び出されたんだよな。井戸は破壊されちゃったけど、雨水を溜められたら……」
「籠城する気満々だね」

 冗談だよ、と守一郎は笑った。
 そしてどちらからともなく二人は上体を起こし、僅かな間黙り込む。

「ねえ守一郎、その兵糧倉庫、見てもいい?」
「そうだな。あそこは頑丈に作られてるから、雨宿りもできるだろう。……しかし」
「しかし?」
「あそこに掘られた竪穴から水路を断たれて、この城は籠城できなくなってしまった……! また行くのはいいけど、やっぱり悔しい――!」

 守一郎は歯を噛み締めるなり、握り拳を天に突き出した。
 今度は名前が間の抜けた声とともに頽れる。

「そうさ! この城を守ろうとしたのに、一度は手を組んだタソガレドキに出し抜かれて……おれは」
「……守一郎」
「あ、……ごめん。名前に言っても、しょうがないよな」
「ううん。……ねえ、守一郎。わたしね……」

 その時、あとに続く言葉を名前は呑んだ。
 立ち込める雲の、ごろごろと唸る声。
 おもむろに立ち上がるなり、守一郎は前方の空へ目を細める。

「これは……降るな。急ごう」
「う、うん」

 二人は足早に倉庫へ向かう。
 そして未開の地を前に立ち止まったと思いきや、守一郎が操作した仕掛けによって茂みが掻き分けられ、道が開かれる。
 灰色の雲はますます分厚く重なり合う。音もなく、今にも垂れ落ちそうなほどだった。
 ふと、糸のような気配があった。
 頭上から、生温かい水滴が跳ねる。二人が目を見合わせるが早いか、雨音が次々に雑草を叩きつけ始めた。

「守一郎……!」
「名前、こっちだ!」

 肩を弾く雨粒に、守一郎は迷わず名前の手をとる。
 その腕を強く引き寄せ、倉庫の腐食していた戸を蹴破り、湿った土煙に絡まりながら、奥へとなだれ込むのだった。




 低い天井に、互いの乱れた息遣いが響く。外は雨だというのに、渇き果てた空気。倉庫と言っても、あるものは冷え切って重なった筵だけ。
 守一郎が口にしていた、ぽかりと隅に開けられた竪穴が、白々しく素知らぬふりをしているのだった。

 守一郎は髷を解くなり、濡れた髪を頭ごと振るった。針金のような毛束から、透明の雫が弾け飛ぶ。
 名前は筵の上にへたりこむ。
 蹴破った戸の向こうを仰げば、今までいた外の煙たい景色が切り抜かれている。瞬く間に、大粒の雨音はいよいよ勢いを増した。
 それでも今なお天井から雨漏りをする気配がないことは、守一郎の言うように、本来ここが強堅な城であったことを物語っている。

「うわあ……すごい雨」
「夕立っぽいけど、帰れなくなったら困るな」
「籠城もできないね」

 ……冗談めかして言った名前の言葉に返事はなく、どかりと腰を下ろす音がした。
 名前が見れば、守一郎は座り込んだまま、じっと俯いている。解けた髪が無造作に影を落とす。

 そのまま、わずかばかりの静寂に包まれた。

 雨音は遠く、それでも叩きつける勢いは変わらない。
 やがて、守一郎がぽつりと声をこぼした。

「……水の手を断たれるまでは、まだ城として生きてたと言えたんだけど」

 太い肩を縮こまらせる守一郎の姿に、名前は目を丸くしていた。

「なんか……ごめんな。落ち込むようなことばっか言って」
「そんな、そんなことないよ。……ここに来てみて初めて分かった。わたし達、本当に似てるんだね」

 名前は伏し目がちに呟いた。
 今度は守一郎がわずかばかり目を丸くさせる。
 そしてそれ以上は何も触れずに、そっと微笑んでみせた。
 

「……あのさ。さっき、何を言いかけたの?」

 名前は「え」と顔を上げ、眼を泳がせる。それを見兼ねて守一郎が「降り出す前」と付け加える。
 雨雲の唸り声に掻き消された言葉だ。名前も「ああ」と力なく笑った。

「なんか……恥ずかしいな」
「いいよ。笑わないから」

 穏やかな微笑に諭され、名前は背筋を伸ばす。
 ……そして、小さく口を開いた。

「……その。あのね。……守一郎は、マツホド忍者がいれば、この城は一夜で落城しなかったって言うけど」
「うん」
「その話も、守一郎にとっては、ご両親が生まれるよりももっと前のことでしょう」
「……うん」

「自分の家に誇りを持ってて、だからこの城を一人で守ろうとしたんだよね。……わたしには、それがなんだか、他人のように思えなくて」

 その言葉に、守一郎は目を瞬かせた。
 名前は話を続けた。わずかに唇が震えている。

「わたし……守一郎の力になりたい。そうすればわたしも……わたしの家族も、報われる気がするから」
「……名前」

 二人の間に、雨音が消える。
 名前は淡く熱を帯びた眼差しを細めて、にこりと肩を竦めて笑った。

「守一郎と一緒に、マツホド忍者の……。ううん、守一郎が忍者隊の組頭になって。わたしはその血を残したい。

 ……ねえ。やっぱり、こんなこと言うの、変だよね」


 再び、沈黙。
 しかし今度は、ぷすぷすと何かの焦げる音がしていた。
 見れば守一郎が火を炊いたかのように顔を真っ赤にさせ、その目を茹で上がった卵のごとくひん剥き、頭からは煙を立ちのぼらせていた。ぶるぶると口を戦慄かせ、しどろもどろに言葉を形成させようとしている。

「……あああ、あの、あのな、名前!」
「うん」
「そ、そんな風に言ってくれるの、すっごく、嬉しいから……! なんていうか……おれ、やっぱり名前のこと、好きだ!」
「……うん」

 ばさばさと厚い髪束が踊る。雨粒に負けない唾を飛ばして、守一郎は叫んだ。
 紅潮しきった頬に、血走った瞳。
 名前も今度ばかりは目を逸らし、折り畳んだ指先をもじもじと擦り合わせた。

 さあさあと、絹糸のような雨が流れる。
 倉庫内の空気が、ひんやりと手足にまとわりつき始め、湿った静寂に包まれる。

 守一郎が小さく息を吸って、口を開いた。

「なあ、名前……寒くないか?」
「…………少しだけ」

「……。……そっち、行っていいかな」

 消え入るような受け答えを交わす。
 名前も小さく頷くや否や、とうとう顔を上げることはなくなる。
 守一郎は唾を飲み下し、その手を地に這わせた。
 布の擦れる音。湿った筵が、柔らかくしなる。
 生暖かい冷気がとぐろを巻き、二人の鼻先を掠める。

 廃城の空を覆う雲はますます厚くなり、しばらく雨音が止むことはなかった。







 白々と晴れた空の下、濡れた草むらが風にそよいで波打つ。荒れ果てた廃城に、つがいの蝶がどこからともなく淡い羽をはためかせて飛び交っていた。
 城内の隅にある一棟の倉庫。
 崩れた扉の隙間から、守一郎は空を仰いだ。いまだ髪は解かれたまま、跳ね上がった毛先が揺れる。名前も追うように、顔を覗かせた。
 不意に名前の膝が崩れかけたが、守一郎がそのか細い腰を支える。

「……雨、あがったな」
「帰れそう?」
「足元悪いけど、なんとか」

 すっかり崩れ落ちた扉の跡をすり抜ける。ぼうぼうと伸びきった雑草が、晴れ間に反射してみずみずしく光る。
 二人は徐ろにこの廃城を見上げた。雨にさらされ、苔にまみれても尚その重鎮たる出で立ちを、呆然と眺めるのだった。

「なあ……また、来ようか」
「……うん」

 指と指とを絡め、二人はその肩を寄せ合わせる。
 ぬかるんだ道に踏み出し、雨に濡れてとろけきった泥を踏むこともいとわなかった。

 守一郎と名前は、それ以上言葉を交わさず、荒れ果てた城を後にする。
 銀色に鈍る晴れ間が開いていく。雨に濡れたままの城壁。そのところどころに埋め込まれた逆さまの地蔵が、乾ききらぬ瞳で二人の背中を見下ろしていた。


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