海に落とされた日

※成長かもしれない

***


暗闇に荒れる海岸。灰色の鋭い雨は、三郎次の体を容赦なく打ちつける。装束を脱ぐいとまもなかった。今にも岩場を呑まんとする荒波へ、三郎次は燦然としてその身を放り投げた。構えた腕へ固い空間に打たれる衝撃。厚い水面が全身を受け入れると同時に、全ての音が遠のき、荒々しかったはずの波音も遮断される。目を開ければ、とめどなく渦巻く青墨の視界。黒い屑が舞う中腕をかき首を回していると、そこにあるはずのない色を目にすることが叶う。秘めやかな薄紅色、忍装束の一片。三郎次は、口から息が溢れそうになったのをこらえた。そして迷わずそのゆらゆらと揺れる姿へと腕を伸ばす。刹那、急に強い水圧が押し寄せ、その手をかすめ取ろうとした。しかし再び手を突き出し、たゆたう細い指先へ手を絡ませ、触れて、握り締める。強く引き寄せた柔らかい肉体を抱き締め、両足を交互に水上へと向かった。

「――ぶはあっ!」

水面から頭を突き出し、空気を取り込めばまた黒い波が襲いかかる。海水を呑んでしまい思わず咳き込みそうになるが、更に喉へと殴り込む波が許さない。塩辛い雨。まとわりつく流れに足をとられそうになる。三郎次はもがくように波をかき分けた。……引き上げた一人の娘を抱えながら。

低い岩場に近付けば、足が届くようになる。濡れた肩を無数の針のような雨が打つ。三郎次は岩場へと、まず抱えていた娘を押し上げた。そうして自分も手をつけようとするが、その刹那、巨大な波が三郎次の背中を鷲掴みにするかのように襲った。三郎次は手を離さなかった。波が引いた瞬間。這い上がろうと腕に力を込めたが、海中で皮膚を切っていたのか、苦痛に顔が歪んだ。しかし構っているいとまは無い。
雨が降りしきる岩場に、三郎次はその体をずるりと押し上げた。息がもつれ、途端に意識が遠ざかりそうになったが、声を上げて振り切った。

「おいっ……名前、名前……!」

三郎次はそう何度も叫びながら、自分が海中から助け出した娘の細い肩をしきりに揺さぶった。
名前と呼び掛けられた娘の体は、雨に打たれるのみでぴくりともしない。三郎次は顔を歪め、吐き出すような舌打ちをした。
硬い岩肌の上に、素早く名前を寝かせる。そして脈を確かめようとしたが、やめた。三郎次の手は、大きく震えていた。
それでも迷わず、くいと顎を上げさせる。名前の胸が反ったのを見ると、三郎次は雨水まじりの息を吸い込み、彼女の咽喉へ、その口を伝って息を流し込んだ。

……こんな形で初めて名前の唇を奪うなんて。青ざめた唇が笑った。

それを何度繰り返したか、雨に串刺しにされる皮膚の感覚がなくなってきたころに、三郎次は目を見開いた。
見間違いなどではない。名前のまつげが羽のように震えたのだ。

「……名前……?」

その声に、彼女の目元がひくひくと痙攣しながら反応を示した。「あ……」と三郎次の頬に雨水が伝う。
そして跳ねるようにあたりを見回した。するとすぐに、岩陰に洞穴を目にすることができ、三郎次は己の幸運を知った。


ぴちゃぴちゃと、岩の地面に泥水が流れ落ちる。その洞穴の奥へと踏み入れば、雨の音は遠ざかり、ひやりと湿った冷気が肌を包む。
三郎次は抱えていた名前の体を横たわらせ、己の脱いだ着物を握り、木くずや砂の付いた体を丁寧にぬぐい取った。その着物を名前の下に敷き、三郎次は座り込んだ自身の膝に彼女の頭を乗せた。
そうして、名前の浅い呼吸を繰り返す喉元を眺める。見れば、既に薄く開いていた目が、三郎次を仰いでいた。

「ろ、……じ」
「……名前」
「……三郎次……?」
「名前っ……!」

消え入りそうな声を聞き、三郎次は名前の手を強く握った。手首をさすれば、小さな肩が震える。

「寒いか」
「う、ん……」

名前はその手を握られまま、おもむろに起き上がった。そして震えながら細い腕を伸ばし、名前は三郎次に巻き付くのだった。三郎次の胸に、柔らかい上体が押し当てられる。

「お、おい、名前」
「……あったかい……」

三郎次は狼狽えたが、名前は離れようとしない。微熱を孕んだ身体。生温かい空気がとぐろを巻き、三郎次の胸を震わせる。
そして微かに混ざり合う体温に、いつしか彼も両腕を回していた。白く冷たい体が、とくとくと鼓動を重ねる。
互いに皮膚も袴もボロボロだった。

「名前……ちょっと、悪い」
「うん?」

三郎次は名前の上着を脱がせようとした。しかし腰帯にしっかり巻かれたそれは引っ張られるだけだった。
それを見た名前は指を伸ばして三郎次の手を止め、自ら腰帯へ手をかけた。
袴が緩み、そこからするりと着物が引き抜かれるのを、三郎次は口を開けたまま見届けた。裂けた袴の隙間からは白い下着の腰巻が覗き、濡れて張り付いた名前の肉体が、素肌が、そこにあると告げる。
名前が濡れた装束を三郎次に手渡そうとすると、三郎次は慌てて目を逸らし、それを受け取った。気を紛らわすように強く絞れば、生ぬるい水が音を立ててなだれ落ちる。三郎次は羽音をたててそれを広げ、名前の肩へと覆い被せた。縮こまるように見上げる名前を、三郎次は再び抱き寄せる。

「……名前、その、さっき僕は名前に、いわゆる、人工呼吸を……した」
「…………。そっか」

名前は微笑んだ。三郎次の手は名前の肩を、被せた上着ごと撫で下ろす。

「……怖かった」
「え?」
「名前が、もしも息してなかったら、脈がなかったらって思うと、怖くて、それしかできなかった」
「三郎次……」

縋るように腕を絡め、身体を温め合うのみではないような抱擁を返してくる名前。視線が交わる。

「……ねえ」
「なんだ」

「好きだよ」

思わず三郎次はその肩を離した。

「……は、え? 名前?」
「うん」
「それは、どういう……」
「異性として」
「そ……そうか」

名前が俯く。

「……死ぬかと思ったから、すごく後悔した。これだけは言っておけばよかったって……だからね、こうして三郎次が助けに来てくれて、本当にうれしい……本当に……」

胸にすがりながら、か細い声で確かに紡ぐ言葉。

「名前……」

視線が重なる。
寒さとは違う震えが走った。
物欲しそうに目を細める名前。ぬかるんだ風が渦巻く。
三郎次は、ゆっくりと名前の頭を肩口へ引き寄せた。脚にあたる名前の内股が、甘やかな熱を滲ませる。
鼓動が小刻みに鳴っていた。
遠い、雨の音がする。三郎次は外界の灰色に流れる幕を眺めながら、絡めるように名前の手を握りしめた。




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