虫が好かない話

竹谷の片想いを見守る不破と鉢屋

***


僕は悟った。
三郎もきっと同じ気持ちだろう。

――近頃、八左ヱ門の様子がおかしいのだと。

とにかく毎日、心ここに在らずといった様子だった。
座学の授業中には、ぼんやりと窓の外を眺めていて、けれど寝不足なわけではないようで、先生に叱られて初めて、我に返ったように背筋を伸ばす。
さらに食堂でも、あの八左ヱ門とは思えないほど箸の手つきが覚束無くて、けれど食欲が無いわけではないようで……そのため午後の実戦の授業に遅刻してしまう。

普段のその名の通り、竹を割ったような性格の彼を知る人物なら、誰が見ても明らかに不自然だと分かる姿だった。
心配する僕の言葉にはもちろん、先生や食堂のおばちゃんにも生返事ばかり。三郎もあまり口にはしていないけれど、気がかりなはずだろう。

……けれど不思議なことに、生物委員会の一年生曰く、委員会の仕事だけは普段通り……否、もしかすると、それ以上に機敏にこなしているのかもしれないのだという。
それを聞いて、僕と三郎は眉を潜めて同じ顔を見合わせたのだった。


ある日の授業を終えた教室。
僕と三郎は、ついに八左ヱ門本人を呼び止めて問いただすことにした。
他に誰もいない教室に、男三人、向かい合って座る。
僕は真剣に八左ヱ門の目を見て話す。

――この頃様子がおかしいが、一体何があったのかと。悪い病気にかかってしまっていたら、とても心配なのだと。級友の僕には教えて欲しいのだと……。

すると八左ヱ門は、何やらもったいぶった様子で口ごもるばかり。
長い沈黙が続いた後、とうとう痺れを切らしたのは三郎だった。
「話したくないなら無理にとは言わない」――と、腰を上げたその時。

八左ヱ門が突然、饒舌に語り始めたのだ。

「――俺はさ。生物委員会で飼っているペットの餌のために、よく野菜くずを食堂へ貰いに行くんだ。
 ……で、そんとき会うんだよ。時々食堂のおばちゃんの手伝いをしてるくの一教室の、あの……」

…………。

なんでも近頃、八左ヱ門は食堂の厨房で会うくの一教室の名前に淡い想いを寄せるようになっていたのだという。
三郎はというと、彼のその答えに拍子抜けしたのか、崩れるように座り込んでしまった。……彼なりに安心したのだろう。

けれど、その名前が真面目なくの一であることは僕もそれとなく知っていた。厨房の手助けに熱心な姿を見て、嫌悪感を覚える者はいないだろう。ましてやあの、生き物を取り扱うという、責任感が無ければ務まらない委員会の委員長代理である八左ヱ門なら尚のことだ。
それは僕にも分かる。
……分かるんだけど。


「……――それで、なんか気が付いたらずっと名前のこと考えててさ。野菜くずを貰いに行くことばっかりが毎日の楽しみになってるんだよ。もちろん、居合わせないこともあるけど、その分会えた時の嬉しさが増すからさあ。『竹谷くん、今日の大根はちょっと辛いみたいだよ』なんて笑いかけてくれて、……ああ、いいなあ。『竹谷くん』がこんなにも照れくさい言葉だったなんて、俺、初めて知ったよ。なあ雷蔵、分かるか? だって、この間なんて……」


いい加減誰か止めてくれないか。

いつもは何かと生真面目な八左ヱ門だというのに、彼の武骨な風貌に似合わぬその話は、いつまで経っても止まらない。
始めはそこそこに相槌を打っていた三郎も、見ればとうに呆れて果てた顔で項垂れていた。

「……あー、だめだ。この手の話は虫が好かない」
「なんだよ三郎、聞いてきたのはお前だろ」
「まあまあ。八左ヱ門が名前を好きなのはもう分かったから……」

僕がこれ以上はご遠慮願いたいと両手で遮るのにも関わらず、八左ヱ門ときたら、仰いだ瞳をまだキラキラと揺らすのだ。

「ああ……そうか。そうだな雷蔵。俺は名前が好きなんだよ。あんなに優しくて真面目だから……。くの一教室でも、できることなら、生物委員会に入ってくれないかな……。名前ならきっと、いつもは人に懐かないあの毒虫も」
「やめろ。八左ヱ門。それだけはやめろ」

三郎が俯きながらかぶりを降って、しきりに八左ヱ門の肩を叩いた。
僕もさすがに、逸らした顔が引きつってしまうのを隠せない。

――しかし八左ヱ門は、そんな僕たちの呆れようには目もくれず。
三郎の手を振り払うや否や、大仰に物音をたてて立ち上がった。

「――よし、告白しよう!」

は? と僕たちの声が漏れるが早いか。
八左ヱ門は虎のように大股に跳び、廊下の向こうへと姿を消してしまった。

……それから物音一つなく、開かれたままの扉と同じように、僕たちは口をぽかんと開けていた。沈黙が流れる。
やがてどちらからともなく、長い溜め息をつく。

「……はあ、嵐みたいだった……。告白って……。八左ヱ門ってば、名前が今どこにいるのか分かるのかな」

「名前……名前か……。
 ――あっ!」

三郎が顔を上げた。
が、その額はひどく青ざめており、僕はすぐにそれが良からぬものであることを悟る。

「どうしたんだい?」
「思い出した、名前のこと。……私も名前と顔見知りではあるんだ。何故ならあいつは……あいつは最近よく、学級委員長委員会にやって来るから」
「それで……?」
「……それで、必ず最初に、こう訪ねてくるんだ」

三郎は両手をぱっと顔に潜らせ、得意の変装で名前そっくりに顔面を作り替える。
そしてその小さな口を開いた。

「――あの……尾浜くん、いますか?」

名前そっくりの声。
それを聞くなり、僕は「え」と声を漏らしてしまった。眉を顰めてしまったのがわかる。
目の前の名前……もとい三郎、の顔のわりに男のままの体格も恐ろしかったが、それ以上に途方もなく厄介な予感が襲い掛かる。

「ええと、それって、つまり……」
「……間違いない。名前が勘右衛門を呼ぶ時のあの目、いやでも分かる。来るようになった最近っていうのも、勘右衛門が学級委員長だったことが判明してからだ。当の勘右衛門も、気付いてないというか、満更でもなさそうというか……」

そう地声で言った三郎は、名前のままの顔を苦々しそうに歪め、あぐらをかいた膝に頬杖をつく。
……八左ヱ門がこの姿を見たら何と言うだろうか、という不安は抑えつつ……僕も天井を仰ぐ。

「……そういえば、僕も前にい組の教室で見たなあ。授業で使う資料を持って行ったら、なぜか名前が勘右衛門といて。その時は兵助もいたから特に気にしなかったけど」

僕たちは、互いにうーんと首を捻る。


すると、校庭の方から、つい先ほどまで聞いていた八左ヱ門の声が響き、僕はまさかと教室の窓へ駆けつけた。
同じく窓から身を乗り出した三郎の顔が、いつの間にやら僕のものに戻っている。

「名前ー! どこだ、名前やーい! 大事な話があるんだー!」

八左ヱ門が校庭を転々と練り歩き、茂みの裏や木の幹に向かって、名前の名を呼んでいる。
その探し方は、あたかも生物委員のペットが逃げ出した際のそれと同じようで……。周りの生徒も、八左ヱ門から距離を置きながら通り過ぎていくのが伺える。

「……あーあ。フラれるぞありゃ。そうでなくても名前を困らせること間違いなしだ」
「うわ……。あんな八左ヱ門、初めて見た……」

しかしそのまま外の様子を見ていると、……なんと、噂をすれば。ことの張本人、尾浜勘右衛門が向こう側から通りかかったのだ。
三郎が更に身を乗り出したのが分かる。
そして彼は、八左ヱ門に何やら声をかけていた。


彼らの話し声は僕たちのいる教室には届かない。ただ、勘右衛門が自分の元来た方向へ指を差すと、八左ヱ門はその先を見るなり、またも虎のように駆け出していった。
ありがとな、と叫ぶ朗らかな声だけは、この教室の高さからでも聞き取れた。

そして残った勘右衛門が、僕たちの気配に気付いたのか、背伸びをしながらこちらに手を振ってきたのだ。
……ついさっきまで共にいたくの一に、八左ヱ門がこれから何を告げに行くかも知らないであろう、朗らかな笑顔で。

僕はなんとか手を振り返してみせたけれど、三郎はすっかり憔悴しきっていたようで、薄い苦笑まじりに手首をひらひらと泳がせるだけだった。

「……だからどうも、この手の話は虫が好かないんだよなあ」

そう三郎の呟いた声は、僕にだけ聞こえたのだと思う。



'110705