終わりの始まり

※怖い

***


ここはどこだろう。闇の中だった。
まるで体の中身が全て抜き取られたかのように、軽い。わたしは眠っていたのだろうか。不思議と心地良かった。起きる必要の無い休日の朝を思い出す。すごく落ち着くあの感じ。どうせなら、このまま眠り続けるのもいいかもしれない。
しかし無情にも、誰かの声に意識が戻ってきてしまった。

「ねえ、起きて。名前」

どこか落ち着いている声色だった。
わたしはまだ寝ていたいのに。わざと嫌だとうめき声を上げて、身を縮こまらせる。

「……名前。昨日急に倒れたの、覚えてないの?」
「え?」

思わず起き上がってしまった。同時に夢心地から突き放される。
声の主を見やる。心配そうにわたしの顔を覗き込んでいたのは、喜八郎だった。この部屋が薄暗くてうっすらとしか見えないけれど、間近で伝わる気配や息遣いに、不意に胸が脈打つ。

「どこか痛んだり、苦しいところはない?」

そう言って喜八郎はわたしの頭を抱き寄せた。
寝ていたつもりだったのに、気絶していたなんて。どこで何をしたら突然意識を失うことがあるんだろう。

「お、覚えてない……」

なぜだか記憶を巡ろうとすればするほど、頭がズキズキと拒むかのように痛み始めてしまう。

「無理に思い出さなくていい」

喜八郎の低く優しい声が心身に染み渡っていった。すっと頭の痛みは引いていく。
あたたかい。もしかしたらわたしは本当はまだ眠っていて、心地いい夢を見ているのかもしれない。そんな錯覚にさえ陥った。
そのまま意識が遠のき始めた頃に、そっと頭を撫でられた。

「まだ辛いなら休んでて。僕は行かなくちゃいけないけど」

そう囁く声に、もの寂しくなる。
ぬくもりがするりと抜けて、体を横に寝かされる。
このままでは喜八郎が行ってしまう。わたしをここに置いていく。一人にされる。
かすんでいく視界の中で、不意にわたしは腕を伸ばそうとした。

しかし、その手は動かなかった。
単に力が入らなかったのか、違う、確かにわたしは腕を伸ばした。
妙な手応えを感じたのだ。

じゃらり……。
まるで豪華な宝石がかち合う音。
引き止められている? そうしたいのはわたしの方なのに。
そんなことを考えているうちにも尚、喜八郎の気配は遠退いていく。

い、いやだ。
待って、行かないで。一人にしないで。

耐えきれなくなったわたしは、ついに声に出してそう叫んでしまった。
それが届くことが叶ったのか、彼が、立ち止まる。
振り向いて、視線が重なるのがわかった。

ただ……それは、輝きが全く見えず、まるで濁った泥のような眼差しで。

「だいじょうぶだよ」

確かにそれは喜八郎の声だ。
けれど何かが淀み、ねじ曲がっていた。

急に体が震え上がったのは、その眼球がにたりと歪んだ時だった。
そしてやっと、わたしは腕を止めていた正体に気付く。重い鎖の音。鉄の冷たさ。
頭が痛む。針山にされたかのようにズキズキと絶えず苛んで、思わず頭を抱え込んだ。

……きっと、悪夢を見てるんだ。
わたしはこの夢から覚めることを夢見て、もう一度、喜八郎の顔を仰いだ。

「帰ってきたら、たくさん遊んであげるから」

そのとろけた眼差しを最後に、重い扉が閉められる音がした。




'120409