06

※病んでる 没ネタから抜粋したもの

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 真夜中にくの一教室の裏手で名前の告白を受けた時、おれはこの世の誰よりも幸福で恵まれた男だと思った。彼女の火照った頬、そらした目線、握り合う指先。何もかもが愛しくて、思わず抱き寄せたくなった。
 とても大切な女の子を、おれはやっと手に入れることができる。そんな泣き出しそうな衝動を必死にこらえていたら、よほどひどい顔をしていたのだろう。慌てて手拭いを差し出した名前の肩に、おれは言葉もなくしがみついた。


 ……だから。

 とろけそうな想いが、夕闇に溶けていく。これが恋だと気付いたのも、名前が打ち明けてくれたおかげかもしれない。名前の髪の匂いが鼻腔を満たして、初めて知るような、甘い甘い心地だった。
 こんなにも尊いものが、今までおれの知らないところでその価値も分からずに親しまれていたのだろうか。それは、それだけはどうか目を伏せたいような、口惜しい気持ちに駆られてしまう。

 おれはただ、おれと名前の知らないことを、距離を、穴を全て埋めたい。名前がおれのことを好きだと言ってくれた。これからのおれは、どこにいても名前を守る権利がある。

 ――くの一教室は男子禁制だから、見つかる前に帰ってね。
 そう言い残して眠った名前の頭を、おれは手放すことができずにいた。学園内でのそんな規則による弊害なんか、もう今のおれにはどうでもよかった。名前を抱き寄せながら眠れる。こんなに嬉しいことが他にあるだろうか。名前が朝起きて、眠ったままのおれの姿を見たら、どんな微笑みをたたえるのだろうか。



 …………。

 結局、名前のためを思って夜が明けるまでには立ち去るのだが。くの一教室側との境界線である塀を飛び越え、音を立てずに着地する。藍色の闇に包まれた校庭に人影は無く、おれはゆっくりと自分の長屋へ向かう。まだ沈みきらない月明かりに、振り向けば、檻のような塀が青白く光っていた。
 生あたたかい風。おれは歩きながら、己の手のひらを広げて眺めた。無骨なこの手に、名前のぬくもりが残っている気がした。甘くため息をついたら、その手のひらの匂いを吸い込まずにはいられなくなった。

 するとその時、どこからか人の気配がした。おれは思わず身構える。
 しかし向こうもこちらの存在に気付いたらしい。塀に影が伸びて、おれの視界を遮った。

「おやまぁ……、誰かと思ったら」
「……喜八郎か」

 この声はよく覚えている。おれがこの学園に入った時に、初めて出会った同学年の人物。喜八郎は踏鋤を肩に乗せたまま、泥まみれの髪を揺らしておれの顔を覗き込んだ。

「なにしてたの。こんな時間に」
「喜八郎こそ、それはこっちが訊きたいよ」
「僕? 僕は穴を掘ってただけ、だけど」

 見れば喜八郎のいた地面には、掘り返されたであろう土が山のように積まれている。積み上げられた……不自然なほど重なり合った土。何を思って地面に穴を開けているのだろう。

「おれは、ちょっと散歩してて」
「守一郎、学園には慣れた?」
「え?」
「塀の向こうから来たよね」
「そ、そうかな」
「あっちはくの一の長屋だけど」
「……喜八郎の会話は自由だなあ……」
「くの一に知り合いでもできた?」

 は、と間が空く。

 ……知り合い、どころか。
 喜八郎の言葉は支離滅裂なように見えて、何か探りたいことがあるらしい気配は伝わってきた。おれが答えられずにいると、彼は構わずに話を続ける。

「僕はここに罠を仕掛けるのが好きなんだ」
「へえ」
「くの一長屋から来る子がよく引っかかるから」
「おまえ、女の子にそんな悪さをするのか?」
「くの一だよ。ただの女の子じゃない。立派なくの一なら、ちゃんと目印を置いた罠には引っかからない」
「はあ?」
「僕もくの一教室には知り合いがいる。学級委員長のくせに、鈍くて頼りなくて怖がりで、とてもくの一とは思えない女の子」

 ……なるほど。そろそろ喜八郎の言わんとしていることが分かってきた。
 こいつは名前のことを話してるんだ。喜八郎は、あの名前に今までそんないたずらをしていたのか。おれも喜八郎の落とし穴に落とされたことはあるけど、怪我をするかもしれないし、身体中が汚れるし、女の子に――特にあんなに優しい彼女にするいたずらにしては、惨いものなのではないか。先程見届けたばかりの穏やかな笑顔を思い返す。そりゃあ名前もくの一としてこの学園で学業に励んでいるかもしれないけれど、……おれの知ってる名前は、山道の団子屋で静かに看板娘をする、ごく普通の一人の女の子だ。

「ひどいと思ってる?」
「……おれがそれを言ってどうするんだ」
「何度も引っかかる名前が悪いんだよ。面白くってしょうがない」

 含み笑いをしながら、喜八郎もやはりとうとう彼女の名前を口にした。
 おれはそれに気付いた途端、不意に泥水のような不快感が湧き上がり、腹の底でとぐろを巻き始める。

 ……だってこいつは、名前のあんなに無防備で穏やかな微笑みを、きっと見たことが無いんだろう。あの白い肌に泥を塗りつけることが、どんなに惨いことか知らないんだろう。彼女がくの一と呼べるほど狡猾な女でないことを、おれよりもずっと分かっているくせに。
 おれは己の拳が震えていることに気付いた。奥歯も食いしばっていた。こみ上げる感情があった。

「お前……そんなのでいいのかよ」
「なにが?」
「男なら、あんなに弱い女の子のこと、守りたいって思わないのかよ」

 ぎりぎりと、奥歯が軋む音。
 喜八郎はすっかり黙り込み、訝しげにおれを睨んでいるが、おれにはそれがますます気に入らない。

「おれは……名前を守りたくて仕方ないんだ。名前は普通の女の子なのに。お前みたいな奴がいるから、名前はこの学園で、いつもいつも危険な目に遭う」

「……名前はくの一だけど」
「そうだよ。頼りなくて優しい、くの一らしくない女の子だ」

 言いながら、おれは無意識に頭をかきむしっていた。

「そうだ……名前はおれを裏切ったんじゃない。打ち明けてくれたんだ。本当はこんな世界にいるって。……そしてここに味方はいないんだって。助けて欲しいって」

 そこでおれの言葉は途切れた。ぐしゃぐしゃになった頭に、ぽかりと軽い衝撃があったからだ。見れば喜八郎が頬を膨らませ、泥まみれの踏鋤を突き出している。先端で叩かれたのだ。

「痛っ……、何すんだよ」
「……べつに」

 それだけ言うと、喜八郎は長い髪を振り切って、おれに背を向けた。妙に大股で去っていく後ろ姿が、朝焼けの白い校庭に溶ける。

 ……少し熱くなりすぎてしまったかもしれない。

 おれは頭についた泥を払い落とし、そしてくの一長屋の方を眺めた。白々と明けていく夜明けが、ふくろうの鳴き声を誘う。
 甘くて奇怪な夜が終わる。

 名前は、どんな思いで眠っただろう。



'170414