田村委員長

※成長(六年生)

***


 真夜中の廊下を、わたしは音もなく歩く。静まり返った夜風が、しっとりと頬を撫でていく。
 両手に持ったお盆の上で、並々注いだお茶がぴくりとも揺れずに運ばれるのを見下ろし、我ながら慣れたものだと感心してしまう。とはいえ今宵は満月で、姿ばかりは月明かりの下に晒されてしまう。通り過ぎる部屋の中から、わたしの影はどう映っているだろう。

 ……自分たちが最上級生になった今、各委員会の活動風景も思い思いに変化したものだと顧みる。
 あれほどいけどんに泥臭かった体育委員会は、委員長の滝夜叉丸の出で立ちによって、まさに花形という言葉がよく似合う甘美な存在感を放つようになった。作法委員会は、委員長の喜八郎が「めんどくさい」の一言で行方を晦ましがちになり、用具委員会と火薬委員会は……雰囲気はあまり変わっていないか。

 わたしが気にかけるのは、会計委員会だった。

 その障子の前に立つ。薄い障子紙の向こうに、ぼんやりと灯りが揺れるのが見えた。……そしてそれを黒く切り取るように、堂々たる佇まいで座り込んでいる人影も。
 ぱちん、ぱちん、と小気味よく響き続けるのは、たいそう重たい算盤の数珠の音。

「名前か。入れ」

 間も置かずに、甘い男の声がした。
 思わず目眩がしたところを、ぐっとこらえ、床に両膝をついた。お盆を脇に置く。

「失礼します」

 引き手に左手を掛ける。すっと僅かに開かせるが、彼の動く気配はしない。
 音を立てずに、中ほどまで開けた。薄暗い中、燭台の灯りが揺れる。部屋の中心部を囲うように並べられた文机。しかしそこにいる人物は、一人だけ。
 彼――三木ヱ門は、毅然として手を休めずに、鉄製の算盤を弾き続けている。それでも、そのきつね色の長い前髪は、糸くずのように崩れかけていて……隈の濁る目元に、深い影を落としている。

 わたしはお盆を部屋に持ち込むと、音を立てずに障子を閉めた。

「お茶、お持ちしました」
「……悪いな」

 湯気の立ち上る湯呑みを、三木ヱ門の脇に差し出す。するとようやく三木ヱ門は算盤を弾く手を止め、ふうと深く息をついた。そして手早く頭巾を解き、髷も緩めて頭を振るう。きつね色の長い髪が、燭台の灯りに照らされる。彼が肩や首を回すと同時に、関節の鳴る音がする。軽快なようで、それは寒気が走るほど生々しい耳触りだった。

「……ねえ。少しは休憩したら?」
「今してるじゃないか」
「そうだけど……」

 ぼんやりとした灯りの中に、彼の血色の悪い表情はむしろよく際立って照らされる。

 ――三木ヱ門が会計委員長になってからというもの、彼は日が暮れるなり後輩達を先に帰らせてしまい、残業を一人で請け負うことを増やしてばかりだった。わたしが委員の人数分差し入れしたお茶が余った日には、二人で世間話をするうちに、気付けばその全員分をすべて飲み干していたこともあった。あの時はまだ、彼の顔色は崩れていなかったものだから……。

 三木ヱ門は、湯呑みを両手で包み込み、あたたかそうに鼻先を寄せている。
 わたしも湯呑みを手に取る。厳かな陶器から、指の腹にお茶の熱が伝わる。あたたかい、きっと同じぬくもりを感じる。

「心配してくれているのか」
「……うん。左吉もね、本当はもっと手伝いたい、会計委員の一員として仕事がしたいって、わたしに言うんだよ」
「ふーん」

 さも関心が無さそうに鼻を鳴らす音がした。後輩の言葉なのに、聞いてくれているのだろうか。

「名前こそ、あの人数分のお茶を淹れて運ぶのは大変だろう」
「……え。それは、頼まれてやってるわけじゃないから……。……まさか、そのために一人でいるわけじゃないよね」
「……まさか」

 そう言うなり、三木ヱ門は湯呑みを口にあてがい、ぐっと宙を仰いだ。首ごと顕になった喉仏に、汗で髪が張り付いている。まるで冷水のように一気に流し込むのだから驚いた。飲み上げた湯呑みを振り下ろすと同時に、荒く息を吐く。……すごい飲みっぷり。

「隈ができてますよ、アイドルさん」
「分かってる。すぐ仮眠を取れるようにって、そこに布団を用意してあるんだ」

 三木ヱ門は気だるそうに部屋の隅を指差した。その先に目をやると、たしかにぼんやりと存在感を放つ寝具の束がある。見たところ、シワもなく、綺麗に畳まれたままだ。

「仮眠、とったことあるの?」
「……それは、どうだったかな……」
「……やっぱり」

 思わず言い捨ててしまった。途端に喉が熱くなる。
 ……二つだけの湯呑み。いつもいつも、会いにくるほどに三木ヱ門は目に見えて憔悴しきっている。いくら最上級生といっても、かつての潮江先輩だって、委員会の仕事は三木ヱ門を含めた後輩たちと協力していたはずだ。……しかし皮肉なことに、あの無茶な鍛錬に耐え忍んできた三木ヱ門の体力さえ、今の仕事量には及ばないらしい。
 痛ましい。
 わたしが今の会計委員長を見て思うのは、ただそればかりだった。彼は自身の感情のみならず、仕事まで全て一人で抱え込まんとしているというのだろうか。

「こうして一人きりで仕事こなして、後輩が育たなくなったら三木ヱ門のせいだよ」
「そうかな。やること自体はもっぱら作業なんだ。あとは予算会議で学べばいい」
「そんなの……」

 わかってない、と投げかけそうになった言葉を、わたしはぐっと呑み込んだ。

「……三木ヱ門、無理しすぎだよ」
「この程度でそう見える?」

 突き放すような言葉とは裏腹に、その声色はとてもとても弱々しく掠れていた。ほつれた前髪と、開ききらない隈だらけの眼差し。とてもじゃないけれど健康的とは言えない面立ちに、尚更胸が痛む。
 わたしはとうとう、目を背けてしまった。すると不思議なことに、胸に痞えていた言葉たちが、次々と声に出て零れ落ちていく。

「…………だって、もし体を壊しちゃったら、委員会どころか、忍術の勉強も、就活も出来なくなるんだよ。ユリコ達だって、そんなのきっと望んでない。……わたし、嫌だよ。三木ヱ門がそうなっちゃうところ見るの、いやだ……」

 言いながら、不意に目頭が熱くなるのを感じた。俯いてしまった刹那、頬に不快な感覚が伝う。ぽたりと、床に何か落ちる音がする。
 はっとして袖で顔を拭った。いけない。無意識に、三木ヱ門の、彼の愉悦に満ちた表情を想像してしまう。煽られる。そんな錯覚さえ過ぎったけれど、――耳に届いたのは、とても静かにわたしの名前を呼ぶ声だった。

「……名前」

 恐る恐る顔を上げると、知らぬ間に三木ヱ門の顔が目前に迫っていた。思わず後ろ手をついてしまう。すると、飲み干された湯呑みがごとりと床に跳ねる。
 音もなく、忍び寄られた――そう気付いた時には、鼻の下……唇に、柔らかくてあたたかな感触が満ちていた。
 お茶は飲み終えたはずなのに、茶葉の香りが鼻孔をくすぐる。

 頭に熱が走ると同時に、背中に長い指が這わせられる。
 触れるだけの口付け。と思いきや、顔を離した三木ヱ門の頬は、蒸したように赤く火照っていた。乱れたくせっ毛の前髪が、真新しい金色に光る。潤んだ瞳は、今にも米飴のように目尻からこぼれ落ちそうだった。
 はあ、とわたしの眉間に熱い息がかかり、思わず背筋が震えそうになる。

「ごめんな、名前。心配かけて」

 まるで初めて耳にしたかのような声色に、何も言葉を発することができなかった。顔が近い。三木ヱ門は、顔色こそ悪いものの、頬には淡く血の気が戻っているように見えた。知らぬ間に重ねられていた手のひらから、生あたたかくも確かな体温が伝わる。

「私はな、ただ……」

 三木ヱ門は苦そうに歯を見せて、目を逸らしていた。そして言い淀むように、唾を飲む音がする。次の言葉を聞くまで、わたしはその不器用に上下する喉仏を眺めるしかできなかった。

「……このごろ、名前も何かと委員の用務や課題に追われているだろう」
「ま、まあ……」
「食堂のおばちゃんが心配してたぞ。おまえ、昼飯抜いてるだろ」

 げ……。知ってたんだ。
 そんな焦燥が顔に出ていたのか、「図星だな」と乾いた声がする。それは、わたしにとっては、やはりくの一に向いていないのだと、暗にそう言われているような不安に駆られてしまう。

 三木ヱ門はというと、やはりこちらの考えていることを見透かしているのか、「いや」とか、「私が言いたいのはそういうことじゃない」とか、ぶつぶつ呟きながら頭を振り乱していた。その仕草が荒いほど、少しだけ、わたしは胸の痞えが下りるような錯覚を覚える。

「違う。違うんだ名前。私は、ただ――」

 ようやく面を上げた彼は、澄んだ目でわたしを見据える。
 そして、ひどく重たそうな唇をゆっくりと開いた。

「――こんな時くらいしか、おまえと話すことができないから……」


 ……え。
 その意味が分かって、かっと頬に熱が走った。思わず顔を背けてしまった。
 すると、転がったままの湯呑みが目に入る。

 言葉を発せずにいるうちに、三木ヱ門はひとりでに「潮江先輩に知れたら大激怒だろうな」などとぼやいている。

「……言っておくが、名前のせいにするわけじゃないからな。仕事は完璧にやっている。絶対だ」
「う、うん……」

 ぶっきらぼうに言われたかと思うと、そっと人差し指を上唇に乗せられた。目を細めた三木ヱ門の顔が、すっかり紅く色づいて照らされている。
 わたしが力なく頷くと、口元から指は離され、すげ替えるようにまた唇を重ねられた。
 柔らかな熱に、甘い吐息に、呼吸も、時さえも止められてしまう気がして……。

「心配かけてすまなかった。次から残業は全員でやるから。……夜が明けないうちに部屋に戻れよ」

 不意に肩を押し返され、三木ヱ門との距離が開く。熱が離れる。切なげに眉を吊り下げる彼を呆然と見上げていたら、彼はその口元に自嘲気味な微笑みを湛えて言うのだった。

「もしかして、疑ってるだろ」
「う、いや、その……」

「…………。何もしないよ。そんな気力、今は無い。おまえも無理はするな。……それとも、なんだ。何か期待してたのか?」
「ま、まさか! わたしは、そんなつもりは……」

 青白い顔色のまま、布団を顎で指して煽る三木ヱ門に、わたしは必死でかぶりを振った。照れるどころではなかった。元はと言えば、彼に無理をしないよう説得しに来たのだから。

 そして三木ヱ門は、あまにりも弱々しい声色で、「そうだな」と呟く。

「おまえはそういう奴だもんな。分かってるよ。――」






 ……わたしが部屋を飛び出したのは、その言葉の最後を聞くが早いか、とにかくすぐのことだった。
 お盆を脇に抱え、二つの湯のみを指に挟み、壁にもたれるも、荒い呼吸が止まらない。
 廊下のひやりとした空気が、先程までいた室内とは別世界のように澄んで、わたしを煽る。

 ちらりと背中越しに盗み見たけれど、もうその障子が開かれる気配はない。薄い紙一枚越しに映る人影は、ゆらゆらと金色に照らされるだけ。そこに確かにいる彼は、どんな顔をしているのだろう。
 泣きたくなるほど顔中が火照り、息が苦しくなってしまう。
 胸の中で、その言葉を反芻する。


 ――だからずっと、嫌いになれなかった――のだと。
 そう、彼は確かに口にした。


 だって、あんなの……。三木ヱ門、見たこともない顔してた。
 わたしもずっと、どうにも嘘をつきがちな三木ヱ門のことを知っていたから……それが彼なりの精一杯の言葉なのだと、すぐに分かった。
 腰が砕けそうだった。未だ照明の灯るその部屋から更に少し離れて、廊下の床板にへたり込んでしまう。


 ……でも、よかった。これでやっと、会計委員長の彼に無理はしないようにお願いできたのだから。
 左吉や新入生たちは喜ぶだろうな。左門と団蔵も、きっと安心してくれるはず。

 次に三木ヱ門とまともに顔を合わせられるのは、いつになるだろう。……


 ずるずると、情けない音を引きずりながら廊下を進む。かの部屋から遠のくほど、明け方の白々とした闇に呑まれていくようだった。ぬくもりの余韻も放漫して、もう今のわたしは、自分が平熱でいるのかさえ分からない。静まり返った夜風だけが、素知らぬふりをして頬を撫でる。


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