わけあり物件

(後編)
***


暮六つを半刻ほど過ぎた頃。
夕焼けだと思っていた空は、とうに忍装束の滲む藍色に姿を変え、部屋の襖が闇に白く浮かび上がっていた。
からからと蜩の囁き声が響く。
火皿の蝋に火を点けると、ゆらりと朱色の光が怯えるように揺れた。今夜も嫌な風の音がする。
わたしは布団に正座したまま、夜着の裾を握り、……普段この部屋にはないはずの衝立に、声をかけた。

「……冗談だと思ってたのに」
「私が冗談であんなことを言う男に見えるか」

衝立の向こうの気配が、静かに喋る。

「肯定はしないけど、正直、否定もできないような……」
「何か言ったか?」
「い、いや、何も!」

なぜこうなってしまったんだろう。
とうに日も暮れて、昼間した会話など忘れかけていた頃に、滝夜叉丸は枕を抱えて、正面堂々、笑顔でこの部屋の前に現れたのだ。
わたしは頭を抱えそうになった……けれど、きっとわたしが拒めば、彼だって無理強いはしなかったと思う。
ただ、それができない理由は、多分……わたし自身がよく分かっている。

「名前」

不意に名を呼ばれ、びくりと肩が跳ねる。

「この衝立は必要か?」
「え……」

頭上からいやに穏やかな声がして、見上げれば、滝夜叉丸が衝立に両手を乗せながら、覗き込むようにこちらを見下ろしていた。髷のない下ろした髪の毛に、蝋燭の淡い灯りが漂う。わたしは思わず、身を縮こまらせてしまう。

「姿が見えないのでは、一人でいることと変わらないだろう」
「……そう?」
「言っておくが、手を出したりなどしない。この私が、そのような軽々しい男だと思われたくないのでな」
「ふうん……」


……その時覚えたものが、好奇心なのか、安らぎなのか、さては期待なのか、わたしには分からなかった。
ただわたしは、気付けば滝夜叉丸に言われた通りに衝立を片付け、部屋の隅に立て掛けていた。疑いの無い手つきで、なるべく音を立てないように。

振り返ると……滝夜叉丸は、まさか本当にわたしが衝立を片付けるとは思っていなかったらしい。すっかり座り込んで片膝に頬杖をついていた彼は、ぽかんと口を開けたまま、目を丸くさせていた。
わたしは、敷布団を隙間なく滝夜叉丸の方へ寄せ、改めて座り直す。

遠くから聞こえる蜩の鳴き声に、上級生の自主練習に励む声が重なって通り過ぎる。
……まだ、寝るには早い。

「滝夜叉丸」

今なら彼の長話も聞ける。頭に真綿を詰められたような、不安定とは違う、むしろ安らぐ心地だった。
わたしは、布団にぽすりと体を倒して、滝夜叉丸の顔を見上げた。
障子の向こう側から、虫たちの愛を求める静かな叫び声が響く。

「喜八郎には何て言ったの?」
「……ああ。一晩外出するから、万が一誰かが私を訪ねて来たら適当にごまかしてくれ、とだけな」

滝夜叉丸は膝に頬杖をついたまま、こちらを向いてはくれなかった。

「そっか。そういえばタカ丸さんの練習はどうだった?」
「ああ。タカ丸さんはいい人だな、どこかの三人組と違って熱心で、私としても教え甲斐がある。名前も戦輪で不安なことがあれば、是非私の元へ訊ねに来てくれたまえ。何と言ってもこの私、滝夜叉丸は教科も実技も学年トップで、ぐだぐだ……――」

そうして戦輪のことを語る滝夜叉丸の声は、どこか愉しげだった。
わたしは、彼の上体を支える手を眺める。そしてふと、その腕に細い髪の毛のようなものが見えて、わたしは無意識にそれを取り払おうとした。しかし、ざらついた触感に、それが毛などではないことに気付く。
切り傷だ。わたしは咄嗟に指を離す。

「なんだ?」
「あ、ご、ごめん。髪の毛ついてるのかと思って……」
「…………」

ようやく滝夜叉丸がこちらを向いてくれたが、ついにわたしが目を合わせられなくなってしまった。それを見兼ねてかは分からないけれど、滝夜叉丸は得意げに鼻で笑い、天井を仰いで語る。

「気にするな。タカ丸さんに本番用の戦輪を使わせてしまった私が悪いのだ。ふふん。この美しい肉体に傷を付けてしまったのは不覚だが、手負いのヒーローとなれば、乙女のハートを鷲掴みだろう。全く私は、どこまでも罪な男だな。もちろん何から何まで優秀なのだが、やはりこの造形美は生まれ持ったもの、いわば必然であってだな、ぐだぐだぐだぐだ…………――」

相変わらず、留まる処を知らない語り。わたしが触れたその手も、拒むことはなく。確かに彼がここにいることを感じられる。
……そのおかげなのか、今日はどうしてか、天井を走る物音がしない。
滝夜叉丸がここにいてくれるだけで、わたしは魔の手から守られているのかもしれない――そんな錯覚にさえ陥りそうになった。

怖かった。
陰惨な闇。湿った風。煽る物音。
一人きりで眠ることが、どれほど心細かったか。

「まあ、必然であることはもちろんだが、その上に日々の手入れを怠らぬところが、流石私と言うべきか――」

……わたしはそっと、今度は傷口に触れないように、滝夜叉丸の手を両手に包んだ。


「滝夜叉丸って、優しいよね」

「――は?」

不意に口をついて出た言葉だった。あれほど語り止まなかった滝夜叉丸の言葉が、はたりと途絶えた。
わたしは……握った滝夜叉丸の指を弄びながら、その言葉の先を続ける。

「今日一日だけでも、わたしのことを心配してくれて、タカ丸さんの練習にも付き合ってあげて。委員会では、あの七松先輩を支えながらみんなの面倒をよく見てるし、乱太郎たちにだってすごく親切。もしかして、以前三人に貸してた練習用の戦輪も、輪子や先輩のパペットみたいに手作りなのかな」
「名前……?」

滝夜叉丸の顔は見ない。なんだか、井戸の底で自分にしか聞こえない独り言を呟いているような、不思議な気分だった。

「……滝夜叉丸は、前にさ、自分は九割の……ううん、もしかしたら十割の才能を持った天才だって言ってたけど」

蜩の鳴き声に言葉を重ねるたび、喉の奥が絆されていくいく。
滝夜叉丸の返事は無い。顔も見えない。わたしは『独り言』を続ける。

「滝夜叉丸はね、誰にも真似できないくらいの努力の天才なんだよ。誰になんて言われたって、わたしはそう思う」

そこまで言って、わたしは滝夜叉丸の手に指を絡め、軽く自分の胸元へと引き寄せた。ほんの一回り大きな手。指先に力がこもる。頭が熱くなった。
今日、ずっと言いたかった言葉が喉まで押し寄せている。それを止める術も理由も、もはや見つかりはしなかった。

「ねえ、滝夜叉丸。お願い。わたしを――……」


がた。

その時、一斉に、虫の囀りが止んだ。

今、確かに物音がした。
滝夜叉丸も気付いたらしく、わたしの手が固く握り返される。そしてどちらからともなく、頭上の天井へ視線を狭めた。
生ぬるい気配に心臓を撫でられる。毎晩感じていた、あの気配。……いる。何かが。

ごとごと。

鼠にしては大きすぎる。
鼠でないとしたら。しかし、忍がこんなに無様な音を立てるだろうか。
じゃあ、これは、なに。
ぐっと上体を起こし、立ち上がろうとした瞬間だった。

「――ぐほあああっ!?」
「名前!?」

腹に直撃する衝撃。
派手な音を立てて、布団に四肢を叩き付けられる。あまりに突然のことに、体が息をするのも忘れて痙攣していた。

わたしは、空いている手を握り締めて正気を保とうとした。鈍痛を押し退けるかのようなつもりで、瞼を押し開ける。
すると、視界に大きな金色の花が咲いていた。
……いや、これは。

「あいたたた、ごめんね名前ちゃん……大丈夫?」

「たっ、タ、タタタタ……」

滝夜叉丸が、顔を真っ赤にして、わなわなと指差す腕を震わせる。

「タカ丸さんんんん――ッ!!?」





天井裏の気配と音は消え失せた。
蜩の鳴き声も、もう聞こえない。
敷き布団の上で、わたしたち三人は正座して向き合う。滝夜叉丸は間の抜けた表情で、タカ丸さんだけが照れくさそうに苦笑していた。それをわたしは、顔を覆う両手の指の隙間から覗く。

「いやあ、名前ちゃんの部屋に変な噂があるって聞いたものだから、てっきり本当におばけなのかと……。ほら、滝夜叉丸この間が教えてくれたよね、天井裏や床下からの侵入のコツ。名前ちゃんの部屋で練習してたんだけど……気配も物音も、ぜんぜん消せてなかったんだね……しかもついに落っこちちゃって……。ごめんね名前ちゃん、おれのせいで寝付けなくて、辛かったよね」
「まさかタカ丸さん、夕餉の時に、おばけたち『も』と言ったのは……」

滝夜叉丸が、今更そんなことで首を傾げる。
わたしはもう、開いた口が塞がらないままだった。

「は、ははは……わたしのことなら大丈夫です。むしろタカ丸さんだと分かって、安心できたから、はは……」

すっかり気が抜けてしまった。
今までこの部屋で夜に感じでいた気配や、聞こえていた物音は、すべてタカ丸さんの忍術の練習によるものだったのだ。そして当の本人には、全く自覚が無ければ、悪気も無かったという。
それがようやく理解できた途端、わたしの頭の中を縛り付けていた紐が緩み、緊張が雪崩のように崩れ落ちていった。
気が付いた時には、頭が枕の上にあった。
どちらかが掛けてくれたのか、柔らかな布団の温もりが、意識を遠くへ手招きする。久方振りのその感覚を、わたしは甘んじて受け入れてしまう。

「……おやすみ、名前」

優しい誰かの声が、闇に溶けていく。



――ねえ。滝夜叉丸。お願い。
わたしを、――守って。

先ほど途切れてしまったその言葉も、もう伝える必要が無くなった。
いいや、伝えきれなくてよかった。今日は充分なほどに、喋りすぎてしまったから……。
全身を包む甘いまどろみに、わたしは待ち焦がれたように身を委ねる。そしてそのまま、するりと意識を手放した。――






***


――。
冴えた風が、障子の戸を叩く。
名前がやっと眠りについた様子を見届けて、滝夜叉丸はその髪を撫でながら口を開いた。

「私が努力の天才、か……。名前の奴、そんなことを思っていたとはな」

その言葉を聞いたタカ丸の顔から、不意に表情が消える。
しかし滝夜叉丸が顔を上げた時には、タカ丸は人当たりの良い笑顔を湛えていた。

「ところでタカ丸さん、どうして名前の部屋で忍び込みの練習をしてたのですか」
「んー……ひみつ。でも悪気は無かったんだよ」
「……それは分かりますけど」
「でも、えらいね、滝夜叉丸。本当に名前ちゃんに手を出さなかったんだもん」

タカ丸は笑う。
しかしこの薄暗い部屋では、いやに不気味に浮かぶ笑顔だった。

「……タカ丸さんも、このことはもう、これきりにしてあげてくださいよ」
「分かってるよ。……分かったもん」

口を尖らせて言うタカ丸。そして目を背けた先で、名前の寝姿に視線を向ける。
風が止んでいる。
すっかり血の気の戻った彼女の寝顔に、二人はとうとう会話を失ってしまうのだった。



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