それはできない

「名前先輩、名前先輩!」

 虎若のけたたましくわたしを呼ぶ声を聞いたのは、昼下がりの校庭、木陰の下でのことだった。わたしが膝の上で読んでいた本を閉じると、虎若はまるで逃げ込んできたかのような足取りで、その小さな体を立ち止まらせ、肩で息を繰り返す。

「虎若。どうしたの」
「その、名前先輩に、お願いがあって来ました」

 荒い呼吸まじりにそう言うなり、虎若はくりくりとした瞳でわたしを見据え、さらに大きく息を吸った。……しかし、それに反して出てきた声は、ひどくか細いものだった。

「田村先輩のことなんですけど……」


 ――よもやその名前が出るとは思わず、わたしは無意識に背筋を伸ばしていた。田村三木ヱ門。同じ四年生の、友人と呼べるかは分からない、けれど友人以上によく知る名前だった。

 そして虎若がたどたどしく言うには、こういった話だった。
 先日、オーマガトキ領内でタソガレドキ城と板挟みになっていた園田村を、忍術学園総出で守り抜いたあの一件。園田村にて、タソガレドキ軍の鉄砲隊の銃撃に備え、三木ヱ門も火縄銃の薬込役としてその銃撃戦に躍り出たという。……けれど実際は、その時初めて出会ったプロの狙撃手である照星さんに、火縄銃の扱いについて多くの不注意を指摘され、こっぴどく叱られてしまったのだという。
 普段より、石火矢をはじめ火器など過激な武器を扱えばナンバーワンだと豪語していた彼のプライドも、すっかりなし崩しにされ、戦いが終わった今、彼はひどく落胆しているらしい。
 ……その落ち込みようは、虎若の慌てようからして、見ずとも分かる。確かにこの頃、三木ヱ門の姿をこの目にする機会が無かった。気配が消えた、と言う方が正しいだろうか。私が彼と出会うには、彼の方から声をかけてくることが多かったことにも気付く。その気配が無い今、どれほどアイドルの存在感が消え失せてしまっているのか、わたしの目には痛ましいほどよく浮かぶようだった。

「ああなってしまった田村先輩には、もうユリコたちの声も届かない……! お願いです。名前先輩からも励ましてあげられませんか。先輩だけが頼みの綱なんです!」

 ずいと身を乗り出した虎若の口から、そんな悲願めいた言葉が迸る。
 わたしは、後輩のその気迫に、背を反らしてたじろいでしまった。
 どうしてわたしなの、と訊ねたくなるも、その大きな瞳いっぱいにたたえられた涙の潤沢さに、言葉が尻込みしてしまう。
 だけど……。わたしはこの、落ち込んだ先輩を気遣う優しい一年生に、伝えなくちゃいけない気持ちがあることも確かだった。

「ごめんなさい……それは、わたしにはできない」

 言うと、「え……」と虎若の顔色が白んでいく。わたしはそれを見ていることができなくなって、ついに俯いてしまった。

「わたしにできることは……そっとしておくことだけだよ。三木ヱ門は、多分……わたしに何を言われても、余計に苦しむだけだと思う」
「そ、そうなんですか……」

 ああ、言えた。自分でも言いたくなかったことを、認めたくなかったことを、やっと口にできた。せっかく頼み込みに来てくれた虎若には悪いけれど、わたしはこれで、淡くもたしかな安堵感を覚えていた。
 三木ヱ門は、わたしに会おうとしていない。それはきっと、彼にしてみれば、今はわたしに何も話す必要が無いからだろう。むしろ、故意に避けられている可能性さえあるのかもしれない。それなら尚更、わたしから彼を追うことなんかできなくて。

「名前先輩は、臆病すぎますよ」
「臆病…………そっか。そうかもね」
「……田村先輩だって、本当はきっと、名前先輩に会いたがってる気がするんです」

 そう言う虎若の声は、尻すぼみに消えかけている。
 そればかりは、わたしは頷くことはできなかった。言葉を見失ったまま、宙を仰ぐ。
 ……もしも本当に虎若の言う通りなら、わたしにとってどれほどいいだろう。三木ヱ門に間近で見つめられている自分の姿を、どこか他人のような気持ちで想像してしまう。
 想像に過ぎないんだ。
 あの三木ヱ門がわたしのことをどう思っているかなんて、きっと、誰にも……ひょっとしたら、彼自身にさえ、分かりやしないのだから。

「会うだけなら大丈夫だよ。でも、三木ヱ門がわたしに話してくれない以上は、その件については触れられない」

 たしかに、臆病なだけかもしれないけれど。でも、ここまで伝えられたのは、虎若が勇気を出してわたしに話してくれたおかげだと思う。そう腹に収めて、彼の顔を見据えた矢先。虎若はぴんと背筋を伸ばし、素早く敬礼を決めた。

「じゃ、じゃあ、会うだけでも! ぼく、田村先輩を呼んできます!」
「え、今!?」

 言うが早いか、猛然と走り去った虎若の背中に、立ち上がったわたしの声は虚しく響いた。
 わたし一人きりに戻った木陰を、短い風がすり抜ける。……

 真剣だった後輩の手前、この場を離れるわけにもいかず、わたしはただ立ち尽くしてしまった。
 会うだけなら大丈夫――それはただ、もしものつもりで言っただけなのに……。


「何してるんだ、名前」
「ひいっ!?」

 隣から気配もなく聞こえた声に、肩が飛び跳ねる。木刀で胸を突かれたかのような衝撃だった。
 ひどく聞き慣れた、けれど耳にするには些か久しいその声。振り返れば、思った通り。尋ね人だったはずの張本人様が、氷のように透けた赤い瞳を携えて、わたしを見据えていた。

「三木ヱ門……」
「…………」
「あれ? 虎若は?」
「知らないな」
「……聞いてたの?」
「何をだ」
「う、ううん。分からないならいいの」
「…………」

 言葉少なに続いた会話。三木ヱ門は、淡々と答えながらも、わたしから目を背けないでいてくれた。なのにわたしはまだ、彼にかけられる言葉を探せないでいる。
 沈黙に包まれる中、やがて三木ヱ門が徐ろに口を開く。

「……名前。前から思っていたんだが」

 淡い木漏れ日が、三木ヱ門の髪を金色に照らす。彼は睫毛の長い目を細めて、その先を口にした。

「お前って、本当に臆病者だな」
「…………ご、ごめん……」
「すぐ謝る癖」
「ごめんっ。――あ」
「そんなだから、ヘボくの一なんだって」
「…………」

 ごめん。
 また口をついて出そうになった声を、今度ばかりは喉に押し戻す。
 三木ヱ門に見つめられたまま、沈黙が流れる。
 彼とこれほど目を合わせていることが、やけに久しく、懐かしい心地をふつふつと蘇らせる。……いつからか、三木ヱ門がわたしの目を見て話してくれなくなったことを思い返して、わたしは少しだけ、その氷のような眼差しに恐れさえ感じてしまった。
 それでも、いや、だからこそわたしは彼の瞳から目を逸らさずにいた。

 彼は、やはりわたしを見ていない。
 わたしの目の奥に映る、今わたしが見ている景色を、ただ静かに眺めている。まるでわたしの目を、銅鏡にしているかのように。……
 そして誰にともなく、呟く声がする。


「本当に……本当に、臆病なやつ」


 ひどく自虐めいた言葉が、光る木漏れ日に溶ける。
 尚もわたしを見据える彼の瞳には、わたしはとうに映っていないようだった。


'180519