仮眠の練習

驚いた。
何に驚いたかって。
いつも通りの、授業が終わったお昼過ぎ。いつも通りに、わたしは部屋に戻った。
そしたら、一人部屋のその床になぜか既に布団が敷かれていて、なぜかそこに綾部喜八郎が横たわっていて、なぜかすやすやと穏やかな寝息を立てていたのだから。ちなみに忍装束を纏ったままで、頭巾と髷は解いているらしい。黒い地下足袋が、わたしの机のそばに投げ捨てられていた。

どうして喜八郎がわたしの部屋にいるのか、どうして昼間から眠っているのか、それがどうしてわたしの布団なのか、まさか穴掘りしたままの汚れた状態で眠っているのではないか。訊きたいことがたくさん頭に浮かんだり消えたりを繰り返すけれど、まずはそっと近寄って、様子を伺ってみるほかなかった。

「喜八郎……えっと、何してるの?」

尋ねてみる。
返事はない。
波打つ長い髪を無造作に投げ出し、紫色の袴から素足を突き出したその寝相は、他人の布団でやるにはとても褒められたものではない。そもそも、他人の布団で寝ているこの状況自体がおかしいとはいえ。
わたしは屈むように両膝を立てて、尚も目を覚まさない喜八郎のそばに座り込んだ。
くうくうと、小さな寝息に浮き沈みする体。
……こんなふうに彼の寝顔を見たのは初めてかもしれない。ただ、喜八郎はいつもマイペースで気まぐれで、掴みどころのないような表情ばかりしているものだから、瞼を伏せて寝息を立てるその寝顔は、とりわけ珍しいものには感じなかった。
ただ、敷布団をはみ出して床板にまで放り出された、夜の海みたいな髪の波。淡くひかるように流れるそれは、不思議と目を離せなくさせるものがあった。

……ひとまず観察してみて、汚れたまま寝転んでいるというようなことは無さそうで、わたしは胸を撫で下ろした。

喜八郎は眠っている。
狸寝入りでわたしをからかおうとしている可能性もあるけれど、その寝息は不規則で、芝居ではなさそうな自然なものだった。……どちらにせよ、そっとしておいた方が良いだろう。
とりあえず、乱れていた掛け布団だけは整えてあげておく。そしてわたしは、膝を立てたまま、のそのそと文机へ向かった。本を開いて、筆をとる。一日の宿題は早めに終わらせたいんです。




「……――以下の忍術を使う場面として、相応しくないものを選べ。また、その理由を述べよ……か」

どれも授業で聞いたことだから、大体の解答は容易く書き込める。
そう、解答だけならの話。いくら正答を書けても、これらは全て、実戦で活かせるセンスを持っていなければ、まったく意味のない知識ばかりだ。

「…………はあ」

そう。まったく意味がない。
わたしは筆を置いて、ごろんと背中を投げ出した。部屋の中に、わずかに西陽が差し込み、壁が朱色に染まりかけている。
そしてふと、思い出したかのように、わたしは例の布団の上に目を向けた。

喜八郎は……まだ眠っている。よほど深い眠りなのか、寝返りを打った気配も無い。
結局この人は、どうして昼間からわたしの部屋で眠り続けているのだろう。
空寝の訓練なのか。でもやはり不自然な寝息には感じない。これが本当に空寝ならば大したものだ。

「……きはちろう」

再び呼んでみても、相変わらず変化はない。

「…………」

ごろりと、わたしは喜八郎の隣まで体を転がせた。

無防備な寝姿。
夕焼けに浮かぶ、きめ細かな頬や額。その上を流れる髪の毛は、まるで星の輝く夜のとばりみたいだ。わたしはいつしか、その長い髪をいたずらに指先で絡め取っていた。

「天才とらぱーの、穴掘り小僧……綾部喜八郎くん」

落とし穴をはじめ、まるで蜘蛛の巣みたいに多種多様な罠を編み出す仕掛け人。そのアイデアと実力は、呼び名の通り天才というべきほどのもの。
けれど不思議なことに、彼の成績そのものは決して秀でたものではないと聞く。変なの。わたしの実戦では全く役に立たない成績を、少しでも分け与えられたらいいのに。そう喜八郎の頬に手を乗せた時。

「ん、ふぁー……名前……?」

全く開かんとしていた瞼が、ようやく綻びを見せていた。薄く開かれた目尻には、寝起きの涙が浮かんでいる。わたしは喜八郎の袖を引く。

「……喜八郎。もう日が暮れるよ」

喜八郎はぼーっと半開きの目でわたしの方を向いていた。そしてふと、何かを思い出したかのように上体を起こす。……改めて見ると、髪を下ろした忍装束なんて、珍しい格好だ。ぼさぼさと無造作に髪をかく喜八郎。しかし夕焼け色に染まっていた障子を見るなり、彼は再びぼすりと布団に身を投げた。

「ああー……失敗だあ」
「し、失敗?」

人の部屋で思う存分寝て、目が覚めたら『失敗』だなんて。他に何か言うことがあるんじゃないか。でなきゃわけがわからない。わたしは起き上がって、喜八郎の前に正座した。
すると、喜八郎もまた体を起こして目元をこする。そしてあくび混じりに、意外にもわたしの期待に応えてくれた。

「えーっとねえ、名前。僕がどうして名前の部屋で寝てたのかってことだけどさ」
「うんうん」
「仮眠の練習……だったんだよ」

むにゃむにゃと朧げな口調だったが、なんとか聞き取れた。

「仮眠の、練習……というと?」

聞き返すと、喜八郎は今度はおおきなあくびを噛んだのちに、頭をゆらゆら揺らし始めた。

「そのー。僕、ゆうべ穴掘りしてたらそのまま今日の授業の時間になってて、眠くて眠くて。まあこれは慣れてることなんだけれども」
「ほほう」

趣味に没頭してるだけとはいえ、本当に無自覚な努力家だ。また、教室で居眠りをする彼の姿が浮かび、彼の不相応な成績にはそんな裏があるのだと分かった気がする。
喜八郎は寝起きの頭で話を整理しようとしてるのか、あー、とか、えーと、とか、唸りを繰り返している。わたしは適当に相槌を打ちながら、身を乗り出していた。

「仮眠をとるときにねえ、ついつい寝過ぎちゃうんだよね。この時代に目覚まし時計なんて無いわけだし」
「……なにそれ?」
「うん。それでまあ、寝慣れた自分の布団だから、安心しちゃうのかと思ってさ。なら他の人の布団で寝てみようと」

したんだよ。

という言葉尻を聞く前に、わたしの頭はがくりと項垂れてしまった。ようやく彼がわたしの部屋で寝ていた経緯が分かった。

「そんなことだったのか……」
「名前。理解が早いのはいいけど、話はまだ終わってないよ」
「ええ、そうなの」
「そうなの。それでこっそり早めにお風呂行って、なんとなぁく名前の部屋で寝よーって思って、名前が帰ってくるまでに起きて戻れば問題ないし、布団を借りて寝たはいいんだけど」

呆れる、というより、喜八郎らしいといえばらしいのか。やすやすとくの一教室の長屋に忍び込めるあたりは、やはり彼は只者ではない。しかしなんて図太いのだろう……などとまるで他人事のように考えてしまう。

しかし喜八郎の続けた更なる言葉に、わたしはしばし耳を疑ってしまった。

「名前の布団、すっごくいい匂いがするから、気持ち良くていつも以上に寝ちゃってた」

だらしない猫撫で声だった。
えへ、と長い後ろ髪を揺らして笑う喜八郎。
……わたしは、自分の顔の筋肉が硬直していたことに気付く。

「えーと。もしかして、わたしが戻った時、起こしてあげた方が良かった?」

わたしは前の言葉を聞かなかったことにして、そう尋ねた。すると喜八郎はそれが気に入らなかったのか、ぷくりと頬を膨らませたかと思うと、突然わたしの方へ両腕が伸ばされた。のしかかる衝撃に、背中から倒れ込む。

「う、うわっ!?」
「いいにおーい」

飛び付かれるなり、肩口に鼻を掠められる。同時に喜八郎の髪がわたしの肩にも降りかかった。くすぐったい。

「あったかーい」
「き、喜八郎っ、離れてよ」

抗ってはみるものの、包み込むような硬い肉体と柔らかな髪に、わたしの手は依然動けないでいる。

「名前……いいにおい……、…………」

喜八郎はわたしの胸に頭をもたれさせていた。尻窄みになる譫言。……嫌な予感がする。

「……あのう、喜八郎さん?」

小声で呼びかけてみた。
しかし返ってきたのは、先ほどと同じ寝息と、静かに浮き沈みする背中だけだった。

どうしよう。寝ちゃったよこの人。
しかも、倒れたわたしの胸にのしかかったまま。重たい。
そして否が応でも漂う……喜八郎の匂い。
石鹸だろうか。まろやかで尖りのない匂いが、すっきりと鼻を通る。すごく心地良い香り。お風呂上がりだったからだ。きっといつもなら泥と土くれまみれなのだろう。

「ねえー、喜八郎。今寝ちゃったら、また夜寝れなくなって、明日の授業も眠たくなるよ」

わたしは押し潰されながら、頭を撫でるみたいにその髪の隙間をすかして呟いてみる。
すると、反応はあった。喜八郎がのそりと顔を上げたのだ。

「そしたらまた……名前の部屋、くるから」
「ええ? そんな、それじゃあ……」

喜八郎の仮眠作戦は、結局失敗に終わったのだ。
となると。

「意味ないじゃん! 今すぐ部屋に戻ってよ!」
「やーだー」

起き上がろうとしても胴体が押し潰されたままで、両肘で体を支えるだけで精一杯だ。この状態で眠られたら、窒息するんじゃないかとすら思える。

「ああもう。分かった、分かったから。わたしの部屋で寝ていいから。とにかく、どいてよ……重たい……」
「やったぁー」

許してしまった途端、喜八郎はあっさりわたしの上からごろりと寝返った。布団で横になったまま、心地よさそうに口元を緩めている。機嫌のいい猫みたいな表情。
どうにも喜八郎には調子を狂わされるのに、不思議と憎むことができない。すっかり背中を丸めた彼に布団を掛け直してやると、また心地いい石鹸の匂いに包まれる。
……もし、わたしも喜八郎の布団で寝たら、心地よすぎて眠ってしまうのかな。そんなことを思わせるくらいには、しんと胸へ滲む匂いだった。
わたしは仕方なく、予備の布団を敷いて、そこに寝転がることにする。……

そして、波に似た夜の帳が下りる頃までには、わたしもまた、誘うような睡魔に迎えられるのは時間の問題だった。
少し風が吹いて、机の上から紙が滑り落ちる。
それが明日までの宿題だと気付かぬままに。




'111003