薔薇柄の小袖

※女装

***


 雲ひとつ無い空に、遠景の山々が青く透ける。憎らしいほどに青い。賑やかだった街道から遠ざかり、わたし達は人気の無い道を歩く。草木と風に踊る、花びらの鮮やかな香り。
 憎らしいほどに、逢引日和なのだ。

「何を拗ねているのだ」

 隣を歩く人物が、素知らぬ顔でわたしにそう声をかける。わたしより一回り背丈のある彼は、たしかに男の声を持つのだが、その精悍な顔立ちには、淡く白雪のような米の粉があしらわれ、その無骨な肩幅には、薔薇柄の鮮やかな小袖を纏っているのだった。唇に塗られた紅から漂うつんとした香りに、頭がくらくらしそうになる。

「……だって、滝夜叉丸が」
「滝子と呼べ」
「…………滝子ちゃんが」

 わたしと変わらない長さに結われた髪を眺めて、深いため息が漏れてしまった。この男、過去に壁新聞の『忍術学園のサラサラストレートヘアは誰ランキング』で二位の座についた人間だ。一位は立花仙蔵先輩。つまり、わたしとは比べるまでもないことで。

「滝子ちゃんが、モブにモテるから」
「モブとは何だ?」
「わからなくていいです」

 つい突っぱねたことを口走ってしまうが、モブの意味はわたしもよく知らない。



 ――自分の女装がどこまで通用するか試してみたい。そう滝夜叉丸が唐突に言い出したのは、わたしがこれから出掛けようという正門の前でのことだった。彼曰く、女装そのものに興味があるわけではないのだが、下級生の頃は授業で行うたびにやはり周囲から一目を置かれていたもので、その後月日の流れる中で己の体つきや声が変わり始めたことから、果たして自分の女装が今も尚完璧でいられるか気になり始めたというのだ。忍としての腕試しなのか、滝夜叉丸本人としての挑戦なのか。
 それは素晴らしいことだね、がんばって。……などと陰ながら応援することもやはり叶わず。「更に相対的な効果を知るため、本物の女性を連れて行きたい」……その役にご指名されたのがわたしだった。

『……それって、わたしを引き合いに出すってことでしょう?』
『なんなら、名前はおの子の格好をしてくれても構わんぞ』
『それは今回はやめておきます』
『ふん。まあ、お前ならそう言うだろうと思っていた』

 鼻で笑い、腕を組んで反り返る、このふてぶてしさ。どちらが頼み込まれている場面なのか、わたしにはいよいよ分からなくなっていた。

 そんなおなごの仮装芝居が少しでも自然に見えるよう、わたしもいつか母から譲り受けたまま使わずじまいだった化粧品などを掘り起こして、気休め程度に顔に施してみた。

 そうして正門前で滝夜叉丸――滝子ちゃんと落ち合った時。彼女は目も合わせずに「私より目立とうとするなど百年早いわ」と言い捨てた。
 頬紅が鼻先まで塗られているように見えた。なんて不器用なお化粧だろう。完璧を豪語する彼でも、やはり本来生まれ持った性差を越えることばかりは一筋縄ではいかないのだろうか――などと考えていたら、「何を笑っている」と脇腹を小突かれる。

 それからしばらくして、やはり男装までしなくて正解だったと思い知ることとなる。
 街を繋ぐ小川の橋を渡る途中、滝子ちゃんが橋の手すりに腰を預けたかと思うと、じっと黙りながらわたしにも顎で促した。人通りの多いこの橋の上で、男に茶に誘われる機会を待つというのだ。そんなはしたないこと、と口走りかけたわたしを、滝子ちゃんは蔑むでも嘲笑うでもなく、「私はここで待っている」と静かに、それこそたおやかな少女のように呟くのだった。わたしは自分の言葉がなにも思いつかず、その隣に寄り添うしかなかった。

『回想が長いぞ』
『回想って?』
『私もよくは知らない』

 そんな華もない会話を交わしていると、近付いてくる健脚の気配があった。

『ちょいとそこなお嬢さん』
『暇ならお茶でも……』

 二人組の男だ。中肉中背。似たような背丈、平べったい目つきと、こめかみに弱々しく漂う白髪。申し訳程度に生えた髭が浮ついて見える、いかにも凡庸な風貌だった。

『聞いたか、今の言葉』
『う、うん』
『うふふ。私はもう満足だ。さあ、帰るとしましょうか』
『えっ。でも、この人たちは?』

 華やかな袖を翻し、踵を返す滝子ちゃん。
 無視するのか! とつんざく男の声がしたかと思うと、それを遮るように、鋭く風を切る音がした。
 銀色の影が飛ぶ。戦輪だ。
 男達の間の抜けた悲鳴。
 かと思えば、周囲から甲高い嬌声があがる。
 辺りを見回し、わたしは目を疑った。
 町娘に、おばちゃんに、行商人に……通りすがる女性達がみな足を止め、目をハート型に瞬かせていた。
 滝子ちゃんの、長い髪を翻し、戦輪をおさめる所作に、いっそう歓声がわき上がる。

 彼女が主役だと言わんばかりの舞台。男二人は、もはや聞き取れない小言を言い捨てながら、土煙をあげてその舞台袖へと走り去ってしまった。
 わたしが呆気にとられていると、不意に手を取られた。我に返って、顔を上げる。
 滝子ちゃんが、得意げな笑みを浮かべていて……握られた手ごと、わたしは引き寄せられた。

『名前。怪我はなかったか?』
『……あ、あの。怪我どころか、何もされてないよ』
『もう少し喜んでくれたらどうだ』
『だってふっかけたのは滝夜叉……』
『滝子と呼べ』
『はい』

 遠巻きに、ひそひそ囁き合う声がする。
「滝子さんというの」「素敵」「隣の子、代わってほしい」といった言葉が、いやでも耳に入る。
 ……彼女たちは、この滝子ちゃんを女の子だと思っているのか、はてさて、男の女装と分かった上で憧憬の眼差しを向けているのか。考えようにも、不快な頭痛が走るばかりだった。声とか喋り方とかでバレバレだとは思うんだけど……。
 とにかくその時は彼女たちの羨望の眼差しが胸に痛くて、滝子ちゃんに頼み込み、さっさと引き上げることにしてもらった。
 なにより、既に滝子ちゃんの本来の目的は果たせていたのだ。――




 そして長かった回想は明ける。
 私の気を知ってか知らずか、滝子ちゃんは得意げに腕を組み、鼻の穴を膨らませて笑う。しかしその口から出た言葉は、わたしには心当たりのない話だった。

「なるほどなるほど。つまり名前は、この私に嫉妬していると」
「……はい?」
「だから、つまるところ名前は。街で注目を集めたこの私を、僻んでいる。妬んでいる。羨んでいる。ジェラシーを感じている。違うか?」
「嫉妬って。わたしは別に目立ちたいわけじゃないから……」
「では一体何が気に食わないというのだ」
「だから、滝子ちゃんがモブにモテるのが」
「皆に混ざって応援したかったと?」

 ……そ、それも違う。
 口をついて出そうになった言葉を押し込もうとしたら、喉から唾が溢れたように、むせてしまった。「おいおい」と、背中に大きな手が添えられたらしい。

 この男、どうしてこういう時にだけ、得意の自惚れが発動しないのだろう。


 わたしが落ち着くなり、滝子ちゃんはそっと手を離してくれた。
 そして彼は、自らの小袖の裾を持ち上げ、硬そうな脛を晒しながら、誰にともなく呟く。

「……そうだな。私の女装の実力は分かったのだし、この格好も嫌いではないのだが。名前を連れて私が注目を浴びるには、やはり普段の装いでいる方が気分が良い」

 ……彼女の口からは、言いながら、何か言葉を探しているような、歯切れの悪さを感じる。
 不意に沈黙に包まれたかと思うと、ぽつりと名前を呼ばれた。

「……名前」
「なあに?」
「滝子と遊ぶのは楽しかったか?」
「な、なに、突然」
「おなごの格好をした私と歩いて楽しかったか、と聞いている」
「それは、ううん……ええ、どうしてそんなこと聞くの……。だから言ってるのに、滝子ちゃんがモブにモテるのが嫌なんだって」

 問いかけに問い返した上に、また同じ気持ちを吐露してしまった。なんてかわいくないのだろう、そう自分でも思うほど。
 だめだ、こんなの。滝子ちゃんと遊ぶの、きっと今はまだ、あまり好きじゃない。

 けれど当の本人はというと、わたしの曖昧な態度に機嫌を損ねるでもなく、それどころかむしろ、自分と同じ女の姿をしていることを忘れさせるほど、口角を吊り上げ、低い含み笑いを漏らしているのだった。

「ふふん。いや、なに、それを聞いて私も安心した」

 街中でのおなごらしい立ち振る舞いはどこへやら。
 けれど内心わたしは、自分の不機嫌を繰り返し曝け出しても彼の怒る様子がなかったことに、胸を撫で下ろし、そして不思議に思う。滝子ちゃんは、やはり元の格好が良いなどと言いながら、今、見ての通り胸を張り、大股でわたしの一歩先を歩いているのだ。それが何よりも不可解だった。

 ……薄紅色の雲がかかり始めた空に、遠景の山々が朱く透ける。わたしと滝子ちゃんの小袖の柄を、塗り替えてしまいそうなほどに朱い。賑やかだった街道から遠ざかり、わたし達は人気の無い道を歩く。草木と風にそよぐ、花びらの穏やかな気配。

 それから学園へ帰り着くまでは、いつも通りの彼の自慢話なり、他愛のない世間話などを繰り返す。滝子ちゃんの、紅を塗られた唇から漂う甘い香りに、わたしはついぼんやりと黙ってしまう。
 もしも誰かが横切ったならば、わたし達ははたして女友達に見えるのだろうか。

 不可思議なほどに、逢引日和なのだった。


‘180812