小さな患者

巻き終えた包帯を並べ、左近はふうと息をついた。開け放たれた障子の向こうで、緑の茂みが風に揺れる。

二年生の授業が早めに終わるこの日、彼は保健委員の当番だった。一人でだ。夕方になれば委員長の善法寺伊作が帰ってくるが、それまでもし病人が運ばれたら一人で処置しなければならない。まだ十一歳の左近には、些か荷が重いものがあった。
――しかし実際には、怠けたいがために保健室に来る者を撃退することが主な仕事となっていたのだった。彼らは休み時間になると、しょうもない理由や下手な仮病を携えてやってくる。

「頭が痛いんスけどぉ」
「ならどうして腹を抱えてるんだ」

「方向が分からなくてな!」
「ここは迷子センターじゃありません」

「昼寝がしたくてのォ」
「……以前みたく追い出しますよ」

「山田先生の女装の授業に出たくないんです!」
「帰れ」

なんだかんだで、それらは授業の始まりの鐘が鳴った途端に嵐のように過ぎ去って行くのだが。
やれやれ、とため息をつく左近。
まともな患者がいないことは望ましいかもしれない。このご時世、怪我をする機会ならどこにでも潜んでいる。実習に出た上級生が大怪我をして、教室より先に保健室へ帰ってくることも珍しくないのだ。もし今そんな怪我人が運ばれてきたら、左近はそれを一人で対処しきれる用意が無くてはならない。
平穏でいてくれ、と左近は昼間の青空に呟く。

……しかし、そんな思惑を裏切るかのように、突如それは倒れ込んできた。どたん、と音を立てて、横たわる人影。娘だ。しかもそれは、左近にとって顔を見ずとも分かる人物だった。

「名前、名前か!」
「あの……さこん、わたし、頭が……」

息も絶え絶えに、名前は寝転がったまま両手で顎を持ち上げた。駆け寄った左近がそばに座り込む。名前は赤らんだ顔で情けない笑顔を浮かべていた。

「頭がね、すっごく重くなっちゃったんだよ」
「はあ? おまえ、何言って……」

持ってみる? と名前は左近に顎を差し出す。左近は頬を引きつらせた。しかし手を延ばしてその汗ばんだ首筋に触れる。途端に、左近の顔が青くなった。

「おまえっ、すごい熱出てるじゃないか!」
「ねつ……」
「いいから、こっち来い」

また頭を持ち上げようとした名前の手を掠め取り、左近はそれを保健室の奥へと引きずり込んだ。先程並べた包帯が次々に倒れるが、構わず上げ畳を敷く。ぐったりと横たわる名前を抱え上げ、その身体を畳の上に寝かせた。布団を被せると、僅かばかり名前の呼吸が静かになる。

「左近、熱って……」
「風邪引いたんだよ、おまえは。わかったら黙って寝てろよな」
「でも授業に戻らないと」

もぞもぞと名前が布団の下から這い出ようとしていた。「ま、待て!」左近は慌ててその体を捕らえた。ぐえ、と蛙のような呻き声が漏れる。

「あのな、患者をみすみすほったらかしたりしたら、恥をかくのはぼくなんだから!」
「患者……そっか、わたし患者さんなんだ」
「そうだよ。おまえを看病するのがぼくの仕事だ。余計なことするなよな」
「……ごめん」

虚ろな口から出たその一言に、左近は不意に口を噤んだ。名前は身動きせずに目を細める。

「わかったなら、いいんだよ……まったく」

言いながら、左近は掛け布団の端を伸ばしてやる。名前の荒い呼吸に、布団は小さく浮き沈みを繰り返す。左近が名前の額に手のひらを乗せると、やはり確かな熱を孕んでいるのか、左近は手を戻した。そして、名前に問い掛ける。

「……薬、飲むか?」
「ううん……いらない」
「辛いなら無理しなくていいんだぞ」
「自力で治さないと強くなれないって、前に左近が言ってた」
「……う。そ、そうか。じゃあ、水、持ってくるから」
「うん……」

保健室を出るとき、左近はそれまで開け放っていた障子を閉めて行った。布団に横たわる名前の姿が、障子の向こうに隠された。

しかし、桶を手に左近が井戸から戻ってきた時、その障子の隙間が僅かに開いていた。
最後まで閉めたはずだ。誰かが来ているのだろうか。左近は障子を開く。
敷かれた畳の上には、相変わらず名前の体が横たわっている。先程と変わらず他には誰もいない。包帯も散らばったままだ。
名前に近付くと、呼吸が聞こえる。目を閉じているが、眠ってはいないらしい。眉間を潜めて苦痛に耐えているようだった。

「名前、ほら。起きて飲め」

桶の水を杓子で汲んで呼びかけると、名前はうっすらと瞼を開けた。そしておもむろに起き上がり、左近の手から杓子を受け取る。何度か口にしてから一呼吸おく。まだ顔が赤らんでいた。

「……左近。さっきね、上級生の人が来たよ」
「えっ……ほんと?」
「わたしを見たらすぐにどっか行っちゃった。左近がいたらよかったのにね」
「ああ……それはあれだ。サボりに来た奴だから、気にするな」
「そうなの?」
「前から多くて困ってるんだよ。保健室は寝にくる場所じゃないのにさ」
「ふーん……」
「でも名前がいたから、本当の患者の前でサボることはできなかったんだろうな」
「大変なんだね。保健委員って」
「ま、これも仕事のうちだ」

名前は倒れていない包帯のそばに杓子を置くと、のそりと布団の中へ戻った。顔まですっぽりと潜り込む。
そして小さな声で呟く。

「こんなわたしでも、左近の役に立てたのかな」
「……え」

左近は思わず、その膨らんだ布団を見た。布団は名前の呼吸に合わせて穏やかに浮き沈みする。しかしいくら待っても名前が言い直す気配はない。

盛り上がった布団を見つめる左近。そして不意に顔を逸らし、口を開く。

「……くせ者とかじゃなくてよかった。おまえを一人にしたもんだから」

布団はぴくりとも動かない。ただ浮き沈みを繰り返す。
左近はゆっくりと立ち上がり、室内に散らばった包帯を集める。開け放たれた障子の向こうで、風はとうに止んでいた。





陽が暮れ始め、辺りが橙色に焼ける頃。善法寺伊作は学園に戻ってすぐ、『保健室に入れない』と同級生から声を掛けられた。どう入れないのか尋ねてもうやむやな様子で、伊作自ら確かめに行くこととなる。元々保健室に寄るつもりだったのだ、大した用事ではない。
保健室の前まで来ると、障子はすっかり閉め切られていた。伊作はなるだけ音をたてないように、その障子を開く。

「……おやおや」

思わず気の抜けた感嘆が零れた。橙色に暮れた保健室で伊作が目にしたのは、畳で眠る小さな患者と、どちらから重ねたのか、その手を両手に包んで眠る後輩の保健委員の姿だった。


'120820