「わ」
ぼくの部屋に来るなり、名前が膨らんだ声を上げた。
理由は言われずとも分かる。ぼくの膝に擦り寄る、一匹の猫だろう。
なんてことはない、ただの三毛猫だ。
白い紙に、墨と砂をかけたみたいな色。顔が少し痩せていて、後ろ足にはさっきぼくが手当てした包帯が巻かれている。ぼくにはすっかり懐いてしまったのか、小さな体を伸ばして顔にすがろうとしてくる。
その丸っこい姿に、名前は落ち着きを無くしている。
「どうしたの、どうしたの左近、その猫」
名前が三毛猫に近寄る。すると三毛猫はするりとぼくの後ろへ回った。名前に怯えているのか。ぼくは三毛猫を軽く抱え上げ、自分の膝に戻す。わりと素直だ。
「……怪我してたとこをさ、手当てしてやったんだ」
「へー。やっぱり左近は優しいんだね」
「ばっ……」
思わず否定しようとしたが、名前は既に三毛猫に夢中で、ぼくに構う素振りなんかない。諦めた。
名前が、ぼくの……三毛猫の前にしゃがむ。三毛猫は名前の差し伸べた手に、首を引っ込める。
「こわくないよ」
なんだ、名前のこの微笑みは。少なくとも、ぼくは見たことがない。
三毛猫は、恐る恐るといった様子で、名前の指先を嗅ぐ。すると、にぃ、と声を上げて、ぼくの膝から降りた。包帯に固定された足をなんとか立たせながら、名前の元へ歩み寄る。名前がそっとその背中を撫でた。心地よさそうな猫撫で声がする。心地よさそうな、名前の腕の中。
「……いいよな、猫って」
「なにが?」
「そうやって平気で人に甘えられるんだ」
三毛猫が起き上がる。名前がその背中に触れる。優しく撫でる名前の手。三毛猫の柔らかい毛並みが揺れる。
にぃ、と笑われたような気がした。
「左近……どうしたの?」
顔色が、という名前の声がする。
気付けば顔を覗き込まれていた。嫌でも視線が重なってしまう。不安げに首を傾げ見上げてくる名前。その瞳に、ぼくの間抜けな表情が映り込んでいる。
こいつはなんで、こういう時だけ、母親みたいな顔をするんだろう。
「……平気だよ。名前なんかに心配されたらぼくはおしまいだ」
「な、なにそれ。どういう意味なの」
むっと睨みつけてくる姿さえ、ぼくは横目に見ていた。
三毛猫が名前の腕の中で大きく伸びをする。ぼくも、つられて喉から大きなあくびが出た。
「お前に心配かけるほど、ぼくは情けない男じゃないから」
まぶたを伏せると、名前の視線を感じる。
ぼくはふらりと床に横たわる。猫の足音がする。胸にそのふさふさしたぬくもりが戻ってきた。
烟るように漂う眠気を受け入れながら、ぼくはゆっくりと息を吐く。
「……左近」
床の上で目を閉じ続ける。わけもなく眠りたかった。三毛猫も、ぼくの腕の中ですうすうと寝息をたてている。
名前のことだ。これなら「つまらない」と言って出て行ってくれるだろう。
だから、近付いてくる気配なんて気のせいだ。
ほっとくんだ。殺気はないから。
錯覚に、皮膚がざわつく。
甘い匂いがして、額に柔らかい感触がしたのも、きっと気のせいなんだ。
'120618