快晴の空に、半鐘台の鐘が響く。
学園内は放課後になり、たちまに教室棟からは色とりどりの制服を着た生徒たちが飛び出した。澄んだ空に土煙が立ち上っていく。
名前は校庭から、その散り散りになる彼らを眺めていた。
しかし紫色の制服の中から、目的の人物を見つけられずにいる。しばらくしたのち、名前はため息をついて、その場を後にした。――
茂みの奥から、ひょっこりと顔を出し、その廊下に誰も通っていないことを確認する。草が頬をかするのも厭わずに近付く。そこは男子の長屋だった。
心なしか、くの一長屋より土の匂いが強い。名前は足音を立てないよう、つま先からその廊下へと登った。
そしてある部屋の前で、柱に掛けられている札の名前を確認する。他の部屋の名札に比べて、札の木肌は真新しく、書かれたばかりの墨の字だ。
これまた音を立てぬようにと、指先で障子をずらす。僅かばかりに開いた隙間から、温かな気配がする。
切り取られた部屋の中に、その人物はいた。鼻筋の通った横顔。真剣な眼差しで、文机に向かって本を開いている。時折、頁を捲る乾いた音が小気味よい。
名前はとうとう、通行人を警戒することも忘れ、頬を緩めた。そして隙間風のように障子をすり抜け、閉め切るなり、その人物の背後へと距離を詰めるのだった。
「名前、言っとくけど、バレバレだからな!」
「あれま」
突然投げかけられた声に、こてり、と名前はずっこけた。
するとようやく、彼はこちらに顔を向けてくれた。逆立った前髪、松の実型の大きな目、凛々しさを漂わせる眉間には、今は珍妙そうにしわが寄っている。
「守一郎、いつから気付いて……」
「障子を開ける前かな。誰かいるとは思ってたけど」
その言葉に、名前は力なく肩を落とした。さすが守一郎、と声に出しながら。
「本当は待ち伏せしてたんだよ、すぐ部屋に戻ったの?」
「まあね。教科書を読み込もうと思って」
頭をかいて笑う守一郎。彼が先程から熱心に開いていた本は、それこそ名前にとっては見慣れた教科書だった。
「……というか、おれを待ち伏せしてたの?」
守一郎は訝しげに目を細め、口を尖らせて問う。
その頬がやや紅潮しているのだが、名前はそれを知ってか知らずか、ばつが悪そうに首をすくめた。
「遊ぼうと思ったんだけど、勉強してると思わなくて……ごめん」
「ああ、謝ることじゃないから! なんなら、校庭行こうか!」
叩きつけるように、教科書が閉じられる。
名前は縮こまったまま、守一郎を上目に口を開いた。
「校庭で?」
「うん」
「今、『肯定』した!」
沈黙が流れた。
しかしそれも束の間。はっと守一郎が目を見開くなり、けたたましい笑い声が響いた。
「ぶっひゃひゃひゃ! こ、こうてい!」
震える肩を揺さぶり、守一郎は笑い続ける。やがて呼吸を整えるものの、すっかり顔は真っ赤に腫れ上がり、目には涙が浮かんでいる。
「このままでいいよ。守一郎が教科書読んでるの見てるから」
「そ、それは……集中できないような」
「教科書で強化しよう!」
ぶぶー、と鼻の奥からざらついた声が噴き出た。息も絶え絶えに、守一郎は笑い続ける。
「ひい……名前のギャグ、最高……。安藤先生といい勝負かも」
「えー、安藤先生のハイセンスには勝てないよ。敗戦する、から!」
は、という間。そして守一郎はついに大口を開け、仰け反って腹から突き抜ける悲鳴をあげた。嗚咽にも似た笑い声が天井まで響く。
まだ長屋に人が戻っていないようで、近くに気配はない。
唾と涙を飛ばしながら床を叩き続ける守一郎に、名前は更に追い討ちをかける。
「タカ丸さんが、高まる!」
「うひゃひゃひゃ」
「乱太郎は、知らんたろう!」
「うひ、ひ、ひいーっ」
「土井先生が、ちくわであっち行くわ!」
「ぶっほへひゃ、げほ、おえっ」
「好きだよ、守一郎」
「ぶひょ、……、?」
その瞬間、突如として笑い声が止み、部屋が沈黙に包まれた。
外からさあさあと風の音がしたかと思うと、太陽が雲に隠れたのか、室内はするりと薄暗くなる。
「え……今の、ギャグ?」
守一郎が、ようやく口を開いた。少し震えた唇を歪ませ、不自然に笑う。
「ううん、本気。笑ってもいいけど」
「う……」
今しがたまで崩れきっていた守一郎の顔が、みるみる原型を取り戻す。頬を染めて眉を潜めることで、まるで別人のように静かになるのだった。
「いきなりそういうの、やめろよなぁ……」
「ふふ。ごめんね」
言葉とは裏腹に悪びれる様子のない名前に、守一郎は目をそらして唇を尖らせた。かと思いきや、すぐに頬を綻ばせ、だらしない顔つきへと溶ける。
「へへ……。笑ってやんないから」
「本当?」
「おれも、名前が大好きだよ」
にこりと微笑む守一郎に、名前もその言葉を待っていたかのように、大きく腕を広げた。すると守一郎は手に持っていた教科書を投げ出し、名前の胸へと飛び込むのだった。軽やかな笑い声が混じり合う。
名前が守一郎の背に腕を回すと、守一郎は更に口元を緩めて名前に頬をすり寄せた。
「柔らかいなぁ」
「守一郎が硬いんだよ」
「そう? ……そうかな」
「うん。鍛えてるんでしょ」
「……まあね。そうだ。おれ、この間、腕相撲で喜八郎に勝てたんだ」
「へえ、あの喜八郎に。すごいね」
「先生にもね、編入したばかりなのに知識が豊富だって」
感心する名前に、守一郎は気を良くして話を続ける。
「なんか、嬉しいな……。おれ、今までマツホド忍者の末裔だからって、一族の人達なんか、どの城に行っても追い返されてきたから……」
この学園に来てよかった、と名前を抱き寄せて呟く。
名前は守一郎の髪を撫で、その肩口に頭をうずめた。
「大丈夫だよ。守一郎がいつも頑張ってること、わたしが知ってるから」
名前のその言葉に、守一郎はとうとう黙り込んでしまった。ぎゅう、と名前の腰に腕を巻き付け、だらしない笑い声をこぼす。
「ありがとな、名前」
そう言って名前の背をぽんぽんと撫でる守一郎。だが彼に投げ出された教科書は、床に転がったまま拾い上げられることはついに無かった。
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