いぬいぬいぬ

※けもみみしっぽ化

***


こんなことくらいしか、犬に心当たりは無かった。
ついこの間、道端で怪我をしている犬がいた。ヘムヘムより大きいけど、厘賃賃ほどはない、白く丸っこい毛並みの犬だ。傷ついてるわりには落ち着いていて、近寄っても警戒しない、不思議な犬だった。
怪我をしているのをほっとくわけにはいかない。わたしは左近に貰っていた傷薬と包帯を使って、白い犬の怪我を手当てした。あとで振り返ると、白い犬はぱたぱたとしっぽを振っていて、わたしに何かを告げているようだった。



そして、話はわたしが廊下を歩いていた時に戻る。
わたしは、目の前の人間の姿に言葉を失っていた。

「なにみてんだよ、名前」

ふてくされる三郎次。その頭には、頭巾の下からふわりと布のようなものが……大きな獣の耳が、立っていた。
犬の耳、だと思う。黒い毛並みは短く、猫のようにも見える。

「三郎次……あの、頭、どうしたの?」

恐る恐る指をさし、訊いてみた。すると三郎次は「はあ?」と頭を掻く。その手に、犬の耳が触れている。
三郎次は言う。

「なんともないけど。何か付いてるのか?」

うそだ。今その耳に触れてたのに。
わたしは思いきって、三郎次の頭に両手を延ばした。

「お、おいっ」

戸惑ってる三郎次に構わず、しかとその両耳を掴む。柔らかい毛が指に触れる。
……耳だ。犬の、耳だ。間違いなく。

「うわっ、さ、さわるな!」

手が振り払われた。
三郎次が、顔を真っ赤にさせて両手で耳を押さえている。……頭巾に隠れている、人間の耳の方を。

「耳たぶ摘まみたいなら自分のでやってろよ、バカ!」

顔を赤くさせたまま、三郎次は走り去ってしまった。背を向けられたときに初めて、彼のそのお尻から、ふさふさしとたしっぽが伸びていることに気付いた。




三郎次はおかしいから、真面目な久作に遊んでもらおう。わたしは図書室に向かった。
挨拶って私語に入るのかな、そんなことを考えながら、戸を引く。すると目の前に、ぬっと人影が現れた。

「わっ!」

正面から衝撃を受ける。互いに驚いて尻もちをついた。ばさばさ、と音がする。本を落として、散らばってしまったのだろう。……しかし、目の前の光景に、本のことなど構っていられなくなってしまった。

「……久作……?」

謝ることも忘れて、わたしは自分の目を疑う。
いてて、と苦い声を漏らしながら頭を抑えるのは、今わたしとぶつかった人間、久作だ。
人間、なんだろうか。
久作のその頭には、焦げ茶色のふさふさした三角形が、二つ立っていた。

「なんだ?」

むっと睨まれたので、慌てて「ごめん」と謝る。
ともかく、久作が本を拾うのを手伝う。
その時、久作のお尻から太いもふもふしたものが垂れ下がっているのが嫌でも見えてしまった。
どう見ても尻尾。久作にも犬の耳と尻尾が生えていた。わたしは眩暈を覚えた。

「あ」

目を回していたら、本を拾おうとした手が触れ合った。止まっていたわたしの手に、久作の手が乗っている。

「わ、悪い」

手を離す久作。すると、そのお尻でもふもふ尻尾が宙を回りだす様子が見えた。ぱたぱたぱた、床を叩きつけるほどにぱたぱたぱたぱた。久作の顔は赤くなってる。
はて、犬が尻尾を振るのはどういう時だったか。思い出す間もなく、落ちた本は全て再び久作の腕に収まった。




保健室の前に来た。
男の子に犬の耳としっぽが生えて見える病気はありますか。そう予めセリフを用意して、襖の前で数度、深呼吸を繰り返す。

「あのー……」

失礼します、と襖を開ける。顔を上げて目が合ったのは、左近だった。しかしわたしはその姿を見た途端、今しがた用意したばかりのセリフを忘れる。

「なんだ、名前か。どうしたんだ?」

白い三角形が二つ、頭の左右から垂れている。腰からは、丸まったしっぽがちらちらと覗いていた。
……また、犬だ。
気が遠くなるような、めまいのような、足元が不安定に揺れて、わたしはついにへたりこんでしまった。

「ちょっと、大丈夫か?」

左近がこっちに駆け寄ってくる。その白い耳は、ぴんと天井を向いていた。

「さ、さこん……」

いくらまばたきをしても、左近に生えた犬の耳は無くならない。三郎次も、久作も、きっとそうだ。
途端に、強い眠気に襲われた。何か声を掛けてくれる左近の声。なんだか犬が吠えているかのように思いながら、わたしは抵抗もできず、意識が遠のくのを待った。――




ここはどこだろう。朝方のカラフルな空の中にいるような、夢心地な空間。
白い犬が、ぬっと目の前に現れる。あの時わたしが手当てした犬だ。
けれどどうにも体が動かないので、わたしはきっと横たわったまま、その犬に尋ねようとした。

(男の子に犬の耳としっぽがついて見えるの。元に戻して)

声が出なかった。でも伝わってはいるらしい。白い犬は首を傾げてから、少し俯いて耳を垂らした。

(ごめんね、ありがとう)

そう伝わったかどうか。
白い犬は、視界を横切る薄墨のもやの中に、ゆらゆらと消えてしまった。




――ぼんやりと、橙色の光が瞼の裏に差し、ゆっくりと目を開く。保健室の天井。わたしは布団に横たわったまま、小さく深呼吸をした。

「お。起きたか?」

顔を覗き込んだのは、左近だった。薬草のザルを抱えたまま、……頭巾からは何も飛び出していない。
はあ、とわたしは思わず安堵する。

「ここに来るなり急に倒れて、びっくりしたんだからな。心配はしてないけど」

付け足した一言がわざとらしい。
体調はもうどこも悪くない。わたしはゆっくりと体を起こした。

「そーいえば、さっきここに白い犬がやってきてたんだけど。追い出そうにも、いやにどっしりとした犬で……。静かに名前の周りをうろついてたんだ。……何か心当たりはあるか?」

言いながら左近はわたしの隣に座り込み、薬草の種わけを始める。

「……きっと、神様か何かだよ」

言うなり頭痛が走る。瞬きの間にやはり羽のような尻尾の軌跡が見えて、また気が遠くなる錯覚がした。


'131220