片結び

※夢主が保健委員会所属

***



どうしてか、田村三木ヱ門に会いたくない。
それが今一番の悩みだった。
わたしは三木ヱ門のことを嫌いだなんて思ったことは一度も無い。いい友達だし、大好きだと思う。そして、あのひたむきな熱意や積極性には、尊敬を覚えるくらいなのに。

……三木ヱ門といると、気分が悪くなる。

まず、お腹の底が渦巻くように熱をもって、たちまち喉にまで這い上がってくる。息苦しくなるほど肺に紫色の煙が立ち込めると、強い眩暈に襲われる。
三木ヱ門にはなんの罪も無い。わたしにしたって、何が原因なのか分からない。単に嫌いなだけの人間ならいざ知らず、わたしにはそれがいっとう理解に苦しんだ。


……なんて、現状から目を背けるのはよすべきか。
開け放した障子の側にもたれこんだまま、屋根の下から白い満月を見上げる。縮みかけてもまだ痛みを訴える頭のこぶに、わたしは濡らした手拭いをあて続けていた。

振り向けばきっとそこは、不運の連続に散りに散らかりごった返した保健室。
いつぞやの、伏木蔵の薬棚転倒に始まる連鎖以来の不運ぶりだった。

まず、伊作先輩が誤って転げ落としてしまった包帯に、不運にも乱太郎が足を滑らせ、転ぶ乱太郎が、不運にも薬研を使っていた数馬にぶつかり、手を滑らせた数馬の薬研の車輪が、不運にも委員会日誌を付けていたわたしの後頭部に追突し、一緒に翻ったわたしの硯の墨が、不運にも伏木蔵の顔を覆い隠さんとしたのだ。

「……すごいスリルー……」
「ふ、伏木蔵! 墨が口に入っ……うわああっ」

伏木蔵が真っ黒けの顔から白い歯を覗かせて笑い、慌てて止めようとした伊作先輩が日誌の筆にひっくり返ったところで、ようやくその連鎖は断ち切られた。
ばらけた包帯の上にしぶく墨やら飛び散った粉々の薬草やらが、その過ぎ去った不運を物語っていた。
不幸中の幸いは、唯一左近だけが夜食を作りに食堂へ席を外していて全滅は免れたことだった。食堂ではご飯が余っていたらしく、おにぎりを作りすぎて時間が掛かっていたのだとか。それを乗せたお盆を持って保健室へ戻ってきた左近は、戸を開ききるや否や、顔を青ざめさせて言った。

「……またですか」


頭なんて大変なところをぶつけたのがわたし一人でよかった。けれど、そのせいで片付けに加わらなくていいと伊作先輩に言われてしまい、なんだか目を背けていてもそわそわする。ここにいるとしきりに数馬が不安げな顔で声を掛けてくれるので、何だか申し訳ない。数馬は悪くない。悪いのは不運なんだ。
乱太郎も落ち着いた造作で優しく手拭いを変えてくれる。一年生なのに、わたしよりずっと保健委員らしい姿だった。

わたしはのろのろ立ち上がって、包帯の束を巻き直している伊作先輩に尋ねた。

「あのう、伊作先輩。だいぶ痛みも引いてきたので、何か手伝えませんか?」
「うーん……ほんとにもう大丈夫? じゃあ、そうだなあ」

見れば、顔を洗ってきた伏木蔵が、伊作先輩の腰にひっついてわたしを見上げていた。
恐らく先輩としては、わたしにはまだ安静にしていて欲しいのだと思うけど、早く委員会を終わらせて寝たいという気持ちは多かれ少なかれみな同じのようだった。伊作先輩は、他の眠たそうな後輩たちを見渡した。
……しかし、伊作先輩の提案は、わたしの想像の道筋から外れたものだった。

「――よし。会計委員がまだ委員会をしてるはずだ」

嫌な予感がした。

「名前、さっきの左近のおにぎりを半分ほど持っていってやれないか? 僕たちでは食べきれないだろうから」

伊作先輩が指差した先には、左近が作りすぎたというおにぎりが十数個ほど連なっていた。包む海苔が香りを放つ。
わたしの頬が引きつっていることに気付く。

……会計委員には、田村三木ヱ門が。

「先輩、ぼくからもお願いします」

左近が苦笑しながら両手を合わせて背を縮めた。

だめだ。
頼まれると、断れない。




慎重に歩くたび、学園の廊下は低い呻き声をあげて軋む。生暖かい空気が頬に付き纏う。わたしは出来る限り、ゆっくりと会計委員会室へ向かっていた。
それにしても、今日が満月で助かった。わたしの両手はおにぎりが五つほど乗ったお盆で塞がれ、手燭など持てないでいたのだから。
部屋にたどり着くと、薄い障子からろうそくの灯りがうっすらと揺れているのが見えた。

……食べさせたらすぐ戻ろう。
一つ深呼吸して、息を呑んで、声を出す。

「すみませーん、保健委員の名前です。夜食のおにぎりが余ったので、よかったら頂いてもらえませんか?」

人が動く気配がして、目の前の障子がそっと開かれた。そしてわたしを見下ろすのは会計委員長、潮江先輩だ。

「おう、ちょうど小休止するところだったんだ。まあ入れ」
「失礼します」

潮江先輩の歓迎を受け、その部屋に足を踏み入れる。
そしてわたしが目にしたものは、地獄の会計委員会の名に相応しいそれは凄惨な光景だった。
はじめ白い敷物かと思ったのは、敷物などではなく、全て散らばった半紙の海だった。硯か筆を落としたのか、ところどころで墨が飛び散り、足の踏み場を探すことも困難だ。更に山積みにされた帳簿が、広いはずのこの部屋を圧迫している。
そしてわたしが目を見張るのは、その中に佇む会計委員会の面々。
鼻ちょうちん(魂かもしれない)を揺らしながら涎を垂らす団蔵と左吉はまだ可愛いもので、眼球を瞼に隠しきれないまま「ぼくはねていない」と繰り返す左門は、まるで巷で噂される化け物の戯画のようだった。

……三木ヱ門は、さすが上級生というべきか(わたしも一応そうなんだけど)、ちゃんと起きているようだ。伏し目がちといえど、筆の下の整った文字には端然としたものがある。
しかしふと目が合ってしまうと、緩やかな微笑みが返ってきた。
……う。
足がすくみかけた。

「おいお前ら、目を覚ませ。休憩だぞ」

潮江先輩だけが、日中と全く変わらない様子で目は見開いている。わたしが両膝をついて、机の中央におにぎりを乗せたお盆を置くと、潮江先輩は早速その一つを手に取り、むしゃむしゃと頬張り始めた。そして両手に一つずつ取ったかと思うと、今度は団蔵と左吉の半開きの口に「食え食え」とぐいぐい押し込んだ。微睡みとうめき声の入り混じった悲鳴が聞こえる。
うわー、逞しいなほんと。

「名前」

ふがふがもがく一年生を眺めていたら、不意に三木ヱ門の声に呼ばれ、心臓が虚を跳ねた。見ると、朧気な灯りの漂う微笑が視界を阻む。いつの間に、こんな近くに……。

「な、何?」
「いま墨で手が汚れてるから、名前の手で食べさせてくれないか?」
「ええっ! ででで、でも……」
「でもじゃない。腹が減ってたんだ。早くしてくれ」

掠れた小声で耳打ちされて、変な声が漏れ出た。身体が熱くなって、気を抜いたら涙が出そうな気さえする。
しぶしぶ、わたしはおにぎりを取って三木ヱ門の口に運んだ。
三木ヱ門はわたしの手を取って(汚れた手のまま!)、おにぎりに鳥みたいにぱくつきながら、塩加減がいいだとか、さすが名前だとか言っている。それ作ったの、左近なんだけどな……。
しかしおにぎりが小さくなるにつれ、わたしの指先と唇の距離が縮まっていく問題に気付く。赤い舌が、手のひらに近付く。それなのに、三木ヱ門は気に留めていないように愉しげで……――わたしは思わず、とっさに手を引き、残りを自分の口に詰め込んでしまった。
一瞬だけ眉をひそめた三木ヱ門に、「なんだよ、食い意地張って」と呆れたように拗ねられた。
胸が騒いでやかましい。わたしは三木ヱ門から顔を逸らした。
早く帰りたい……。

「伊作にもよろしく伝えておいてくれ。ありがとな、名前」
「ど、どうも。こちらこそ、会計委員にはお世話になってますから」

保健委員の予算案は、他とは比較的通りやすいから本当に。……あくまで比較的に、でしかないけど。
潮江先輩は苦笑していた。

「名前先輩、ごちそうさまでしたー……」
「おいしかったです……って、おい団蔵! こっちに字はみ出すなよ!」

うっすらと開いた眼でわたしを見上げる団蔵の腕を、左吉が叩く。
あと食べていないのは、左門だけだ。
相変わらず大口を開けて白目をむいているが、譫言が無くなり、どうやら本格的に眠ってしまっているらしい。

「左門ー、ご飯だよ、起きて。……だめだ」
「口に投げ込めば勝手に食べ始めるよ。たぶん」

生き返る気配のない肩を揺すっていると、三木ヱ門がとんでもないことを言う。しかし潮江先輩も否定しないでいるところを見ると、恐るべきことに、その通りにすることが確実なのかもしれない。わたしは残り少ないおにぎりを右手に取り、左門の口の動きを見極めようと、じっと、目を凝らした。
さすがに投げ込むなんてできないから、さっと中に乗せよう。
そーっと近づけて、狙いを決める。
上下の歯が大きく開いた。
今だ!

――しかし。

「い……っ、ぎゃあああっ!」

手の甲に走る痛み。
とっさにおにぎりを放した手を抱え込む。
視線が集まるのを感じる。

「お、おい、どうしたんだ名前」

三木ヱ門に手首をとられて、ようやく気付く。わたしの手に、途切れ途切れの傷が曲線を描いていた。間合いが悪くて左門に噛まれたんだ。血こそ出ていないものの、紫色の破線はじんじんと疼く。

「あーあ。だから投げ込めって言ったんだ」
「大したことないよ……洗いに行かなきゃ。では潮江先輩、お盆はまた今度取りにきます」
「大丈夫か? 気を付けてな」
「……ぼくはえへいはい……もぐもぐ」
「うわ、すごいや神崎先輩……」
「目開けて寝ながら食べてる」



わたしは歯形がついた右手を抱えながらも、ようやくその一室を後にすることができた。灯りを持てないので、つくづく満月に助けられる今日である。
歩きながら、左門のあの食べ方を思い出す。まさか寝てる時の意識まで方向音痴だったとは……。わたしは零れる笑みを抑えきれなかった。
そして一番近い井戸に着く。水を桶に移し替えると、わたしはさっと負傷した右手を広げ入れた。夜の空気より冷たい水が、神経ごと手首を包んで、痛みが引く錯覚がする。
もしかしなくても、左門の唾液も手についてただろうな。わたしは苦笑した。

しかし突然、そんな頬の緩みが消えた。
今、確かに草むらの騒ぐ音がしたからだ。
人の気配。
直感で分かる。誰かいる。
まずいかもしれない。わたしは今、右手を負傷している。

「誰……?」

わたしは振り向かずに呟いた。


「……名前、私だ」

……その声は、わたしの警戒を解くにはあまりにも無力だった。
ひやりと心臓が凍える。
恐る恐る振り向こうとすると、「そんなに驚くことないだろ」と、声の主がその手を腰にあてていた。

「み、三木ヱ門、いつの間に……委員会は?」
「終わらせた」
「う……嘘だ」
「ばれたか。でも名前が心配だったんだ。傷は平気なのか? ……全く、左門のやつ……」

そう吐き捨てるように呟く三木ヱ門の眉間は歪んでいた。わたしの手を睨んでいたようにも見える。

「それは……ところで、じりじりと間合いを詰められているように感じるのは気のせいでしょうか……」
「んー?」

気のせいじゃない。さっきからやけに三木ヱ門が近付いてきている。その証拠に、わたしの肺にどんどんあの、気持ち悪い紫色が充満していた。
いよいよ、井桁に手がつく。背後で低く深く響く水音と、孔内から背筋に上り詰めてくる冷気。後がない。

「ね……ねえ! 早く委員会に戻ろうよ。わたしも保健室に帰らないと――」

いけないし、そう続けようとした寸前。
ぎり、と月光のように鋭い瞳に射止められた。
目が逸らせない。
しびれ薬のついた矢に射抜かれたみたいに、わたしは身を固めて、三木ヱ門の口が開くのを待つしかなかった。

「……なあ名前。正直に教えてくれよ。私が何か、お前の気に障ることをしたのか?」

「え……」

そう訴えるように問う三木ヱ門の目頭は、今にも泣き出さんとばかりに痛々しくひしゃげていた。

気に障る、ことなんて。
そう真っ先に否定しようとした言葉は声にならず、口元をいたずらにぱくぱくと開閉させるだけに終わった。

「今日や昨日に限った話じゃない。わけもわからず避けられて、気にならないわけないだろ。嫌な思いをさせたなら、話してくれ。……名前、僕は……。……私は、お前には嫌われたくないんだ」

三木ヱ門の辛そうな瞳は、尚もわたしを仰ぐ。
泣きそうなのは三木ヱ門の方のはずなのに、いつしかわたしの喉奥も震え出していた。

「ち、違う……違うよ、三木ヱ門。それは違う……」

わたしは頭を抱えて井戸を背にしゃがみこんだ。追って三木ヱ門が片膝をつく。
真正面から、顔を覗き込まれる。
……三木ヱ門のことは、いい友達だと思ってる。人しれず尊敬だってしてる。なのにどうして、この胸は彼の気配に反応してざわめくのか。どうしてこの足は、彼を恐れ遠ざけようとするのか。

「……わからない……」
「……何がだ?」

低く響くように聞き返してくれる声が、ますます胸を締め付ける。

「三木ヱ門といると、すごく怖いんだよ……。急に気持ち悪くなって、目が眩んで、逃げたくなって……。もちろん三木ヱ門は何も悪くないよ。わたしにだって、わけが分からない……。だから本当に、不気味で怖い」

認識が及ばないから恐怖を覚える。
わたしには、三木ヱ門に覚えるこの感覚そのものが、恐怖と似ている気すらしていた。

三木ヱ門は、しばし沈黙に伏した。
わたしは自分が三木ヱ門を避けていたつもりはなかったから、本当のことを話せて良かったと思う……けれど、この恐怖を払拭できる予感はしなかった。現にまだ、わたしの胸はどろどろと、何かにとぐろを巻かれている。
どうして三木ヱ門なの。
小生意気で、ちょっと物騒で……でも本当は、とてもひたむきで、優しい男の子を。


「名前」
「……なあに」
「私のことが嫌いってことではない、んだよな、つまり」
「うん……」

その誤解を解くだけで充分に思えた。
わたしはきっと何かの病気なんだ。三木ヱ門といる時だけ発症するような、おかしな話だけれど、そう思い切るしかない。
すると、三木ヱ門が砂利みたいな音を立てて頭を掻いた。何かぶつぶつ言ってる。
「これじゃただの滝夜叉丸みたいだ」そう聞こえたけど、意味が分からなかった。

「名前!」
「は、はいっ!」

急に声が大きくなってびっくりした。三木ヱ門の真剣な眼差しが光る。

「その、気持ち悪いとか、怖いとかってのは……あれだ、お前がそう思い込んでるだけだ! だからだな、ああー……すまない、これだけは言わせてくれ」

歯切れの悪い声。三木ヱ門は、わたしの見たことのないような、眉を寄せた笑顔を浮かべていた。

「……お前ってほんと、鈍感だよ」

満月に照らし出される、黄金色の前髪。慈しむ眼差しが、背に浮かぶ星くずの一つみたいに物悲しくひかる。鈍感などと言われたはずが、何も言い返す気にさせなかった。

「三木ヱ門……?」
「……でも、待ってるから」
「え、な、何が? どこで待つの?」
「さあな。だがまた、会計委員……いや、私のために、夜食を作ってくれないか?」

そう囁く三木ヱ門の目元は、この宵闇でもはっきり分かるほど、色濃くなっていた。
けれど、わたしが今の言葉にある指摘をしようとした、その刹那。

「――おい、田村三木ヱ門! 何してんだこのバカタレ!!」

怒声が響いた。

「し、潮江先輩……っ!?」

三木ヱ門とわたしは、声を揃えて互いに飛び退いてしまった。
廊下で潮江先輩が、両脇に団蔵と左吉を抱えながら目を黒く血走らせて叫ぶ。

「名前もだ! 左門のやつ、起きたと思ったら『名前先輩に謝りたい』だとか言って部屋を出て行きやがった! しかもなんだ、三木ヱ門まで厠に行くと言ったはずがこんな所で、恥知らずな……!あーっ! 全くお前ら、たるんどるんだよ! 左門探しのついでに、全員ランニングだ――!!」
「えええええーっ!?」

遠くで「名前先輩はどこだー!」などという声が、夜風を裂いて響いてくる。先輩の脇の下で、ごめんなさいと喚き続ける団蔵と左吉。かまわず潮江先輩はギンギンと雄叫びを上げながら運動場へ向かっていってしまった。

「そ、そんなあ……」

一気に押し寄せたのは、途方もない披露感だった。
これも一種の不運の連鎖だろうか。伊作先輩の不運が同室の食満先輩にうつるのも無理はないと同じことを目の当たりにする。

「わたしがおにぎりを持って来なければ、こんなことには……」
「まあそんなこと言うなよ。名前のおにぎり、美味しいんだからさ」
「あ、それ、そう言ってくれるのは嬉しいけど……おにぎり、作ったのは左近だよ。わたしじゃなくて」
「え?」

三木ヱ門は目を丸く小さくさせてわたしを見た。次に風船が如く顔を腫れ上がらせ、たらたらと逆流しそうな汗をこぼす。
あ、まずい。
なんだか分からないけど、すごく面白い。

「う……っ、嘘だああああ――っ!!」

背を向けて駆け出す三木ヱ門に、お腹からわき出る笑い声が止まらなくなった。
やっぱりわたし、三木ヱ門が大好き。
そう胸に秘めたわたしは、夢中でその後を追いかけた。



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