白い溜息

 夕刻の訪れが早い季節だと、肌で感じる頃。
 廊下の床板が、氷のように冷え切っていることを足裏に感じながら、わたしは久々知先輩の困った顔を見上げていた。

 俺や土井先生は手が離せなくて……という久々知先輩の言葉を受けて、わたしは無意識のまま頷いていた。
 ……「タカ丸さんが一人で焔硝蔵の掃除当番をしている」「それをサポートしてほしい」「また甘酒などを持ち込んでいないかも見てくれ」「本来くの一教室の君に頼むことではないけれど」「下級生も、この寒さで体調を崩していて」「火薬委員会は人手が足りないから」……。
 まるで消極的に、弁解するかのような口ぶりで、そう頼み込まれる。普段は凛々しく見える久々知先輩の眉が、情けなく吊り下がっていく様が見るに耐えなくなってきて、ついにわたしは「任せてください」と一礼した。そして久々知先輩から鍵を預かり、焔硝蔵へと向かった。

 久々知先輩がわたしに声をかけるとき、その理由は大抵タカ丸さんに纏わることだった。わたしから見ても真面目で優しい久々知先輩だけれど、タカ丸さんという歳上の後輩には、もしかしたらわたしの想像以上に手を焼いているのかもしれない。

 冷気の中をくぐり抜けるように、焔硝蔵にたどり着く。扉はわずかに空いていて、暗闇へ誘うかのように、その奥は静まり返っていた。
「失礼します」と声をかけて、扉を開く。
 日も暮れて、わずかな金色に照らされたのは、紅い豹柄の半纏を纏った、地面にうずくまる小さな背中だった。

「タカ丸さん。掃除、手伝いに来たよ」

 扉をきちんと締め切り、薄闇の中、声をかける。するとその背中はぴくりと反応を見せ、やがて徐ろに腰を上げる。
 タカ丸さんは、わたしの顔を見るなり、小さく鼻を吸い、にへらと弱々しい笑顔を携えた。

「あ、名前……。ありがとう……寒くてもう、だめかもって思ってたよ」
「大丈夫?」
「うん……でも、どうして名前がここに?」

 たしかに頬を刺すような寒さに包まれる。
 タカ丸さん、こんなに冷え込んだ暗い場所に、ずっといたんだ。厚手の半纏をまとっているとはいえ、その吐息は白く烟っていく。
 わたしは歩み寄りながら、久々知先輩に言われていたことを伝える。

「久々知先輩がタカ丸さんのこと心配してたんだよ。でも火薬委員の誰も手が離せないから、わたしにって」
「へえ……」
「伊助と三郎次が風邪って本当?」
「うん……」
「早く掃除終わらせようよ。このままだとタカ丸さんも風邪引いちゃうよ」
「ううん……」

 タカ丸さんは、わたしの言葉に生返事を零すものの、その手を動かそうとしない。
 短い沈黙が流れる。
 わたし一人が喋ることで、この焔硝蔵が暖まるはずなどなく。痺れを切らしたわたしは、タカ丸さんの肩を掴んだ。

「ねえ、タカ丸さ……」

 声をかけた刹那。強い力に引っ張られ、視界が、背中が、柔らかな圧力に包まれた。
 うそ、と口に出そうだった。
 タカ丸さんの肩を掴んだはずの手が、宙をもがいている。
 その両腕に抱かれているのだと気付いた時、あれほど冷えていた体が、皮膚の奥から熱くなるのを感じた。

「びっくりしたなぁ……」
「あ、あの……びっくりしたのはわたしの方だよ」
「……だって。寒くて寒くて、名前のことを考えてたら、名前が来てくれたんだもん」

 か細い声が、抱きしめられた骨まで響くようだった。
 わたしは、宥めるつもりでタカ丸さんの背中に腕を回す。両手で包みきれない広さ。先ほど見たはずの小さな背中が、嘘のようだった。
 耳にかかる、冷えた溜め息。少し目眩を覚える。
 久々知先輩に頼まれて、そうでなくても心配だからこうして来たのだと伝えると、タカ丸さんは安堵したかのように、また白い息を漏らした。

「掃除ならもう終わってるんだ。とっくに」
「う、うそ。ならどうして……」
「少しね……考えごとしてて」
「どうしたの……?」
「…………。聞いてくれる?」

 引き寄せられていた腕の束縛が少しばかり緩まり、見上げるようにねだられる。額にかかる前髪がいじらしい。とてもじゃないけれど、歳上らしからぬその仕草に、嫌だとは言えることも無く……。わたしはタカ丸さんの前髪を撫でてみるなどして、短く頷いた。

「おれ、ちょっと不安だったんだよ」
「なにが?」
「……久々知くんのこと」
「久々知先輩を? どうして」
「よくきみに話しかけてるから」

 これまでわたしが繰り返し口にしていたはずの人の名前が、タカ丸さんの口から出た途端に、突如として禁句だったように感じられてしまった。
 どうしたら良いのかわからなくなって、つい黙り込んでしまう。するとタカ丸さんはそれを見兼ねてか、ゆっくりと口を開く。

「……わからない? 久々知くん、名前に気があるんじゃないかと思って」

 そんなこと、と口走りそうになった声が、唇ごと塞ぎ込まれたのは一瞬の出来事だった。
 冷えた吐息を呑み込んでしまう。それが自分のものなのか、タカ丸さんのものなのかもわからない、有耶無耶なままで。
 唇が解放された時、タカ丸さんの愛おしそうな笑みに面食らう。

「でも、もしそうなら、こうして……こんな寒くて暗い場所で、おれと名前を二人きりになんてさせないもの」

 ね、とわたしの視界いっぱいに小首を傾げるタカ丸さん。
 ……この人は、そんなことに耽って、ここで一人きり寒い思いをしていたのか。そう考えついた途端に、顔が熱くなった。
 タカ丸さんはすっかり機嫌をよくしたらしく、火照った笑みをすり寄せてくる。わたしよりひときわ長い髪の毛を撫でると、ますますご機嫌な鼻息が鳴る。

「えへへ。……ねえ、久々知くんはほんとうに手が離せないって言ってた?」
「う、うん」
「こんなに寒くて暗い場所、名前くらいしか近付かないよね」
「うん……?」
「あのね、おれ……名前のこと、大好きなんだ」

 猫なで声で甘く呟くタカ丸さん。わざとか分からないけれど、腰を低くして、わたしを見上げてくる。
 その甘えた仕草に反してぎらついた目の色を見た途端に、わたしはこの場がもう手遅れになっていることを悟る。

「い、今はだめだよ」
「どうして?」
「仕事は終わったんでしょう。久々知先輩も報告を待ってるはず……」
「また久々知くんの名前を出すの」
「う……。し、仕方ないじゃん」

 せめてもの理性で制止するが、ついわたしが久々知先輩の名前を口にしてしまったばかりに、タカ丸さんは聞く耳を持とうとしない様子だ。
 わたしは力一杯に、タカ丸さんの腕を振りほどいた。瞬く間に皮膚が体温を失うけれど、わたしは扉へと駆け寄る。手に取った海老錠が、氷のように冷たい。
 ……そして、鍵穴に鍵を差し込もうとした時、違和感に気付く。
 うまく鍵が差し込めない。そんなに冷え込んでいたのか、鍵穴が凍ってしまっている。指先が冷たく震えることも相まって、鍵穴に鍵をあてがおうとする手が、たどたどしくもつれてしまう。

「う、うそ……凍ってる」
「出られないの?」

 振り向いて言うと、タカ丸さんはさすがに神妙そうに尋ねてくる。しかし、暗い中で頷いてみせると、それが幸運とでも言わんばかりに、危機感のない笑い声がした。

「やったあ。二人きりだね」
「喜んでる場合じゃないよ。わたしたち、閉じ込められてるんだって」
「おれはずっと扉開けてたんだけどな。誰が閉めちゃったんだろう」
「……うっ…………」
「悩んでも仕方ないよ。ねえ、それより、はやく」

 引き寄せられた腕ごと、なし崩しに倒れ込む。
 すっかり体温を吸われていた指の隙間に、生あたたかい指先が滑り込み、固く握られる。服越しに腰を撫でられ、身をよじってしまう。

「鍵なら、そのうち誰か気付いて来てくれるんじゃないかな」
「いや、それじゃ……」
「大丈夫。ちょっとだけだから」

 いつの間に脱ぎ捨てていたのか、タカ丸さんの半纏の柔らかさを背に、組み伏せられる。
 すっかり闇に慣れた目に、彼の細められた双眸が映る。わたしは蛇に睨まれた蛙のように、身動きを取ることができないまま。

 危機感を持たなかったのは、はたしてどちらの方だろう。
 タカ丸さんが元気になれたのなら良かった、なんて能天気に考えている自分を、わたしはどこか呆れた気持ちで眺めていた。
 この焔硝蔵の重たい扉を閉じたのは、他の誰でもない自分だと思い知りながら。……








「……それで結局、名前だけが風邪をひいたと」

 夜も明けて、ここは誰の部屋だろう。
 心配そうに眉を吊り下げる久々知先輩を、わたしは布団の中から見上げる。
 まだ頭が熱い。のぼせたように、視界が鈍る。喉がかゆい。

「二人とも帰りが遅いから心配して見に行ったんだけど……焔硝蔵の鍵穴が凍ってしまっていたなんて。寒いのに閉じ込められて、大変だったね……。すまない、俺が頼んだばっかりに」
「わたしがつい扉を閉めちゃったので……。久々知先輩は何も悪くないですよ」

 こらえきれずに咳き込むと、久々知先輩の顔つきがみるみるうちに曇っていく。やはりわたしは見るに耐えなくなり、目を背けてしまう。

「あの……ところで、タカ丸さんは?」
「うん。ああ、タカ丸さんならさっき、入れ違いになって……」

 その時、「呼んだ?」と声がしたかと思うと、部屋を切り裂くように障子が開け放たれた。
 タカ丸さんだ。障子から雪崩れ込んでくる冷気に反して、にこやかな微笑みをたたえている。その脇には、柄杓と重たそうな桶を抱えて。

「名前、起きたんだね。具合はどう?」

 あ、うん、平気……と、わたしが口にするが早いか、タカ丸さんは笑顔のままカツカツとこちらに歩み寄る。叩き落とすように桶が置かれ、中の水がざぷりと飛び散った。

「久々知くん、名前のこと見てくれてたんだね。ありがとう」
「はい、まあ……。……あの、なんなんですか、この黒いオーラは」
「ええっ。何のことかなあ」

 怪訝そうに顔をしかめる久々知先輩に、タカ丸さんはわざとらしく小首を傾げる。わたしの目には先輩の言う黒いオーラとやらは映らなかったけれど、タカ丸さんの目線から火花が散っているのは見える……。
 ……久々知先輩は、取り繕うように咳払いをするなり、素早く腰を上げていた。

「それじゃあ、俺は伊助と三郎次のところへもお見舞いに行くから。本当にすまなかった。お大事に」

 そうして久々知先輩は、タカ丸さんが開け放ったままだった障子をゆっくりと閉めて立ち去った。
 やがてその足音が消えると、痛いほどにこちらを見つめる視線を感じる。わたしは恐る恐る、顔を向ける。……やはりと言うべきか、タカ丸さんが潤んだ眼差しと視線がかち合う。

「えへへ……ごめんね。水、飲む?」
「うん。ありがとう……」
「なんか、久々知くんに悪いことしちゃったかな」
「……ほんとにそう思ってるの?」

 半ば呆れて言うと、また曖昧な笑い声が返ってくる。
 わたしはタカ丸さんが差し出してくれた柄杓を受け取り、枯れていた喉に水を流し込む。

「名前、大好き」

 耳に溶けた甘い猫なで声も、水を飲んで流し込む。
 肩を引き寄せられると、微熱に渦巻く意識が遠のきそうになった。
 ……風邪がうつると言っても、この人はきっと聞く耳を持たないのだろう。……そんな諦めのような淡い期待も、わたしは黙って喉の奥へと流し込んだ。
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