じゃあどうして

定刻を告げる鐘が、快晴の空へ響いた。
教室の皆が野村先生に頭を下げると同時に、次第に近付いてくる足音がある。

「左近!」
「げっ、名前」

その顔――厳密には腕の綿紗――を見た途端、僕は閉じようとした教科書に指を挟んでしまった。
名前が先生と会釈まじりに入れ違う。藤色の忍たま装束の中で、くの一教室の鮮やかな薄紅姿はひどく浮いてしまう。

「おい左近、名前が来てくれたぞ」
「や、やめろって」

隣の奴が僕の肩を叩き、斜め後ろの奴が両手で猪目を象ってみせてくる。僕は必死にそれらを払いのけ、手早く机の上を片した。名前がお構いなしに僕の正面へしゃがむと、まくしたてていた奴らはたちまち蝿のように教室を出て行く。背後では、残った三郎次と久作が、二人して渋い顔で腕を組んでいた。

「ねえ左近、食堂行こうよ」

名前が覗き込むように身を寄せるのに対し、思わず顔を背けてしまう。嫌でも目に入るその痛々しい腕。……昨日僕が手当てした時のままだ。

だから、嫌でも思い出してしまう。

――昨晩のことだった。
長屋で三郎次と久作と三人で勉強会をしていたところ、名前が僕に勉強を教えて欲しいとかなんとかで堂々とこちらの長屋に入ってきた。そしたら三郎次と久作の二人が、まるで待っていたかのように『暗器の練習をしに行く』なんて言い出して、僕と名前とを部屋に残して離脱してしまった。
どうすることもできず、情けなくも狼狽えていたら、やがて名前の腹の虫が鳴り出して、だんだん耳障りになってきた。だから仕方なく僕はそこを離れて夜食を作ってやることにした。
小さなうどん。名前なんかのために作るだけなのに、なぜか麺がいつもよりふやけてしまっていた。
部屋に戻ると、名前は机に腕を投げ出して寝息をたてていた。なんてふてぶてしいやつだなどと思いながら、出たため息はやけに軽かった。
ただ、こんな時ほど来て欲しくないそれはやってきた。

不運。
床に転がっていた筆に気付かなかった、ただそれだけで。

ひっくり返って転がるお盆。
名前の引きつれた叫び声は、一晩経った今でも耳の奥に響いて残っている。
僕は名前の火傷を冷やすことに必死で、声を聞き付けてくるやつらに気付く余裕は無かった。

そして事が落ち着き、名前をくの一長屋へ帰した後。

『なんで部屋に二人きりでいたんだよ』
――あいつが勝手にやって来て、最初は三郎次と久作もいたんだ!
『お前、あいつと両想いなんだろ』
――だから……。なあ違うよな、三郎次……。

『左近……悪いけど』

気付いてないのは、おまえと名前だけだ。――



言葉は呪いだと、今ならわかる。
余計な価値を付けるために、見えないものを切り捨ててまで型にはめて、ばかみたいだ。それが人の感情を狭めていくというのに。
僕は、名前のことが好きらしい、そして名前もまた、僕のことが好きらしいのだという。見てる方はさぞかし面白かっただろうな。
不意に、目の前の『両想いの相手』になってしまった存在に憎しみを覚えた。僕はただ、名前に夜食を作ってやっただけなのに。
目が、睨むような錯角がある。
今、僕は、こいつが大嫌いだ。

「左近?」
「…………」

しかし。
突然脇腹に痛みが走り、あえなく横なりに沈んだ。

「――ぐほっ!?」
「ごめんな、名前。左近のやつ、少し疲れてるみたいなんだ」

そう握り拳をかざし、片目で苦笑したのは三郎次だった。僕の体は仰向けに転がる。

「つ、疲れてなんか……」
「久作、俺たちも早く行こうぜ」
「ああ」

抑揚のない声を交わし、足並みを揃えて三郎次と久作も教室から出て行ってしまった。


『ごめんな。まあぶっちゃけ応援とかする気はあんまり無い』

――昨日二人に言われたことを、もう見えなくなった背中に思い出す。
そして僕と名前だけが残された教室は、いつもよりこざっぱりとしたように静まり返る。

「さこん」
「……なんだよ」
「疲れてるの?」
「…………」
「早く食堂行かないと、席無くなっちゃうよ」

返事をしないでいたら、ねえ、と名前が僕の背中を揺すりだした。不安そうな顔。感触が、肩の後ろを撫でる。柔らかくて小さな手。

「……なあ、名前」

ぴたりと名前の手が止まる。それを見計らって僕は名前に背くように寝返りを打った。
窓から覗く空が、虚しいほどに青い。

「名前は……どうして僕をあてにするんだよ。食堂も、勉強も、あといろいろ……、とにかく、他の奴でもいいだろ」

言いながら瞼を伏せる。

「左近は、わたしといるのがイヤなの」
「別にそんなこと言ってない。ただ……僕はもう、おまえに、今まで通りにしてやれない」

名前のますます分からないという顔が、見ずとも浮かぶ。

「僕と名前以外は全員知ってたんだってさ。だからあと気付いてないのは、名前、おまえだけだ」
「えー」

不服そうに濁る声。仲間外れなんてイヤだ、とまた僕の肩を揺さぶり始める。僕はやっと名前に顔を向ける。ぱちり、丸い視線が重なった。

「安心しろ。名前まで分かっちゃったら、僕は今度こそ終わりだ」
「じゃあどうしてそんなこと……言わなきゃいいのに」

返答は早かった。ひどくつまらなそうに、けれど怒るでもなく、ただ落胆しているような顔をする名前。

「……そうだよな。言わなきゃよかった」
「へんなの。聞かなかったことにさせてよ」
「いいけど、そんなこと本当にできたらすごいよ」
「食券というお札が一枚があれば、そこに記憶を封じ込むことができます」
「あげないからな」
「いけずー」

そんなやり取りをしていたら、不意に目頭に熱が走った。

僕はようやく起き上がることができた。お腹も空いていたし、食堂へ向かうことにした。
廊下では名前に前を歩くように言い、僕の先を行かせる。
そこで僕は初めて、彼女の頭に見慣れない髪飾りがあることに気付く。



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