雨と石火矢

 いつもこの頃合いには鮮やかに透き通るはずの長屋の空が、今はこっくりと灰色の雲に覆われている。わたしは廊下へ踏み出て、空を仰いだ。滔々と、霧のような飛沫が降る音。その生臭さ。
 ――そんな空模様を裂くように、耳に届いた衝撃があった。遠い爆発音だった。まるで雷神さまのように、風圧を錯覚してしまいそうなほどの残響が肌に伝わる。
 この音は――あの子だ。彼の、それも一番の相棒の石火矢。この雨の中、湿気の中。彼は火薬を使った武器の訓練をしているというのだろうか。……
 轟く爆音が、再び空を引き裂いた。……東だ。それも学園から出てはいないらしい。彼はこの雨の中、学園内のどこかで石火矢の訓練をしている。
 その光景を思い浮かべただけで、……わたしは、何の勇気も出ないまま顔ばかりが熱くなることを、彼に知られてはいけない。わたしは深く息をして部屋へと戻った。戸を閉めた途端に、雨の音が、また響く爆音とが、とんと籠って小さくなる。箱の中にしまい込んだかのように。
 襖の下の引き出しから、無地の手拭いを取り出す。その更に奥から、母親から譲り受けた紅を薬指にとり、唇をなぞる。紅の発色をおさえようと、別の手拭いを口元にあてがう。その柔らかな繊維に、不格好な口付けの跡が残された。

 笠を被り、手拭いを脇に抱え込み、ぬかるんだ校庭をそそくさと駆け抜ける。そうして男子長屋へ辿り着くなり、わたしは彼の名札のかかった部屋を探し出した。
 その戸の向こうから、人の気配は無い。わたしは戸を背に、正座で座り込んだ。濡らさぬようにと抱えてきた手拭いを、膝に乗せる。
 そして、待つ。さあさあと透けるような雨音に、あの石火矢の音はやがてぱたりと途絶えるのだった。
 雨の水音による静寂。湿った空気が鼻腔を撫でる。彼がどこにいるか、何をしているのか、わたしは知っている。知ってしまう。けれど結局わたしは、ここで待つしかできない。無茶をする彼の元にわたしが駆けつけたところで、彼にとって何の役に立つのだろう。だからここで待つ。それはゆるやかで、ほんの少し息苦しくて、とても愛おしい時間。
 やがて想像していた通り、この長屋に近付く気配があった。濡れた袴を引きずりながら、小型の石火矢の車輪が泥を弾くこともいとわずに。石火矢の砲身は鉄製だが、それを支える木製の台は、すっかり黒く雨水に染められていた。
 彼はわたしに気付くと、大きな目を丸く見開き、濡れたまつ毛をわずかに震わせる。

「……名前」
「おかえりなさい」

 あとは言葉もなく、彼の濡れた髪を、頬を、肩を、手拭いで包み込む。彼……三木ヱ門も、それ以上わたしに何かを問うことはしなかった。手拭い越しに絞る彼の髪は、わたしのそれよりも細く柔らかい。

 彼の愛用の石火矢も、さすがに泥を弾いた車輪では縁側にあげることはできず、屋根の下に佇ませている。
 屋根の向こう側を仰ぐ。先程よりも雨脚は遠ざかり、霧のような小雨はこの見慣れた風景を透明に照らしていた。生臭かった土の匂いも、唇にさしたこの薄い紅も、雨音とともに流されていけばいい。



'190618