灰色の城 後編

 雑草の絨毯が敷かれた石垣に、二人で腰を下ろした。その向こうには、森と空の青色ばかりが広がり、手前のお堀の塩辛い気配が鼻先をくすぐる。
 わたしは荷物の中のおむすびのひとつを、守一郎さんに差し出す。守一郎さんはさほど警戒する素振りもなく、「ありがとう」と屈託のない笑顔でそれを受け取ってくれた。そして二人でいただきますを言い終えるが早いか、守一郎さんはその米の塊にかぶりつく。それは今までうちのお店でよく見ていたような、わたしの知る守一郎さんの姿だった。

 彼はわたしが忍者の学校に通う人間であることを知らない。至ってふつうの、峠の茶屋の店員、あるいは店主。そう認識されているはずと思う。けれど店員と客の関係だったわたしたちが、お互いに名前を教えて呼び合うようになったことはいつからだっただろう。忍術学園の外で、同級生らと同じ背丈の男子が見せる殊勝な笑顔に、今でもわたしは不思議と目を奪われてしまうことがある。
 守一郎さんが、大きく喉を下して口を開く。

「知ってるか、この城が廃墟になった時のこと」
「それは、もちろん」
「うん」
「一夜で、落城……したって」

 それは既に知っていることなのに、この城にいた守一郎さんを前にして、わたしの声は尻すぼみに消えてしまった。ところが守一郎さんは、機嫌を損ねるでもなく、わたしに諭すように語ってくれる。

「そうなんだけど。その当時、城の忍者隊は本城のマツホド城にいたんだ。この支城にいた城兵たちは、忍者隊の援護を待つこともできないまま……」

 そこで言葉は途絶えた。守一郎さんが顔を上げ、その視線を向けた先へ、わたしも振り返る。先ほど出会った場所まで下っていく階段だ。すると脳裏にあの髑髏の姿が蘇り、わたしは思わず顔を背けてしまう。

「そんなことが……あの、本当にごめんなさい」
「いいや。君が謝ることじゃない」

 驚かせてすまなかった、そんな後暗さの残る声色に反して、守一郎さんの手にあったおむすびはとうに姿を消していた。わたしはまだ一度も口にしていないことに気が付き、自分のおにぎりを見つめ直す。けれど、どうしてかそれを口に運ぶ手が動かない。この廃城が誰かの眠る場所であるなら、わたしはいま、その番人の隣で、何をしているのだろう。守一郎さんの様子を盗み見ると、彼は自分の手についたご飯粒をつまみ取ることに夢中らしい。わたしは彼に悟られないように、おむすびを竹皮に包み直した。

「……マツホド忍者がいれば、この城は一日で落ちることもなかったはずなんだ」
「そうだったの……。でも、よかった。マツホド忍者の辛い噂を聞いていたから、それが本当じゃなくて」
「そう? ……そっか。君がそう思ってくれて、嬉しいよ」

 素直にわたしの口から出た言葉に、守一郎さんはひどく穏やかな声で微笑んだ。この城にヘボ忍者なんていなかったのだ。

「守一郎さんは、当時のことをよく知っているんですね」
「まあね。おれは十三歳だから、当時のことはひいじいちゃんがよく教えてくれたんだ」
「へえ。守一郎さん、十三歳なんですか?」
「え、うん。十三」
「そっか。わたしと同い年ですね」

 そう頷くと、「うそ」とみるみる目を丸くされる。守一郎さんのその驚きように、わたしも拍子抜けしてしまった。
 わたしは学園で日頃から彼くらいの背丈の男子なら見慣れているから、同年代だろうとは推測していたのだけれど、守一郎さんの方はそうでもなかったらしい。彼は両手で口を覆いながら、目を上下に滑らせている。

「どうかしました?」
「年上だと思ってた……。名前さん、落ち着きがあるから」
「……そんなこと、初めて言われた」
「うそぉ」

 手の隙間から間の抜けた声がこぼれている。同級生の女子でさえやらなさそうな仕草に、言葉が詰まってしまった。
 年上だなんて。くの一教室ではいつも周りについていくことで精一杯だし、男子にはヘボくの一だと謗られるし、学園でそんなふうに言われたことは今までに一度も無かった。どうせお世辞だろうと笑ってみたいのに、守一郎さんの顔を見ると、とてもお世辞を言える人のようには思えなくて。

「えっと……そうだ。それならさ。そろそろ、やめてもいいんじゃないかな」

 守一郎さんは、照れくさそうに肩を縮めて言った。わたしが首を傾げていると、彼はひとつ深呼吸をしてから、続ける。

「その、敬語。あと、呼び捨てでいいよ」
「…………え。ええっと、それじゃあ」

 なぜだろう。同級生の男子たちの顔が思い浮かぶ。
 守一郎さんもまた、彼らと同じ、あの紫色の忍者服がよく似合う年頃なのだ。

「……守一郎くん? ……ううん。守一郎」
「うん。よろしくな、名前」

 手を差し出されて、おもむろにそれを握れば、慣れない手のひらの感触に背筋が伸びてしまう。自分と大きさはさほど変わらないけれど、硬い指先だった。こればかりは、他の男子がどんな感触を持っているのかよくは知らない。
 学園の外で男の子の友達ができたことは、彼が初めてかもしれない。

「よし。そろそろ探しに行こうか」
「探す? 何を」
「名前のお友達に見せるお土産だよ」

 そう言って彼は素早く腰を上げ、わたしに背中を見せた。もう既に、警戒されてはいないらしい。それはわたしも同じことだった。まだひとつ分のおむすびが残る荷物を肩にかけ、わたしは彼の後に続く。



 辺りは桃色の夕焼けに包まれる。あれほど黒く見えた足元も、屈強な塀も、今ではとうに甘い光に染められている。ただ、辺りに植わる松の木だけは、その枝を水平に広げて、青々と素知らぬ顔をしているのだった。
 わたしは、ずんずんと進む彼の背中を追う。彼はこの森のような廃墟を、まるで自分のよく知る庭みたいに前を向いて歩き続ける。あれほど尖っていた雑草も、彼の通ったあとには、みな手折られたかのように屈していた。

「ここに来たっていう証明になればいいんだよな……」

 呟く声にあわせて、彼の歩みが次第に緩くなる。やがて立ち止まった背中に顔からぶつかりそうになり、わたしは一寸ばかりたたらを踏んでしまう。
 彼は顎を撫でるようにしながら、辺りを見回している。その目線の先には、雑草、土くれ、小石の破片、虫の羽……。
 一年生のあの子から、写生帳でも借りておけばよかっただろうか。今この目に映っている景色こそが廃城にいる事実そのものなのに、ここに転がるありふれた自然物のひとつひとつには、それを証明をする術は持ち合わせていないらしい。

 しゃがみこんだ彼が、真剣そうに地べたや木の幹と睨み合っている。わたしは、その姿をぼんやりと眺める。
 ――彼は、何者なのだろう。今まで出会った誰とも違う、同い年の男の子。うちのお客さんとしての姿しか見ていなかったから、このホドホド城をよく知る人物だとは思ってもみなかった。どうしてここにいたのだろう。どうしてわたしのつまらないいたずらに付き合ってくれるのだろう。肝試しをした証拠になるもの、それを見つけたら、わたしは彼とさよならをして学園に帰らなければならないのだろうか。そこまで考えつくと、日が暮れていくことさえ惜しいような、息苦しい心地になる。

「案外むずかしいなあ。草とか石じゃあ、なんとでも言えるよな。ねえ、名前」
「えっ。うん、えっと」

 ぼんやりとしていた手前、どんな言葉を選んだらよいのか見当がつかなくて、舌がもつれてしまう。「どうしたの」と向き直る彼に、わたしはとっさに別の話題を探した。

「その……、お店のこと。このごろ開けられていなくて、ごめんなさい」
「ああ、そのことか」

 彼がゆっくりと腰をあげる。一、二歩と足音が近付いたとき、その顔はすぐ目前まで来ていた。思わず退きそうになった足が、彼の物欲しそうな眼差しに、杭を打たれたように縫い止められてしまう。

「お店のことはさ。君が大丈夫なら、おれは平気だよ。そんなに何回も見に行ってるわけじゃないし……」

 そう話す彼は歯切れが悪く、目もきょろきょろと瞬きを繰り返している。わたしがまた答えあぐねていると、「それより!」と高らかな声に遮られた。

「あのさ、名前。おれ」
「……な、なに?」
「今日、ここにいてよかったよ。まさか名前に会えるなんて思ってなくて」
「そう……なの」
「うん。はじめは曲者かと思ったけど……」
「あのね。わたしも、びっくりしたんだよ。守一郎さんは……このお城のこと、本当によく知っているんだね」

 途端に彼が訝しげな目付きになったことを感じて、わたしは咄嗟に口を覆った。彼に『さん』はもういらないと約束したばかりなのだ。
 わたしが城のことを口にした拍子に、守一郎……は、口を閉ざしてしまった。その額には淡い影が差している。微笑みの消えた眼差し。しばし曇ったような沈黙が訪れた。

「ねえ。聞いてくれるかな」

 厳かな声に、わたしは知らずのうちに息を呑んでしまう。

「この城には、おれの一族の人間が仕えていたんだ。ひいじいちゃんも、そう。……おれは、マツホド忍者の末裔だ」

 え、と口から声が漏れた。マツホド忍者。それは、彼がこの城との関わりを語ったばかりではないか。
 わたしは、どう応えればよいのかわからず、しばらく言葉を失ってしまった。信じて良いのだろうか。……そう疑うよりも早く、わたしは既に、彼の嘘のない眼差しを知ってしまっている。

「それで、提案なんだけど。……」

 厳かな気配は消えることなく、守一郎はわたしから目を背けた。そして両肘をあげると、自らの後ろ髪を手にすくう。彼の短い袖から、肩の裏がのぞく。うっすらと引き締まった腋の窪みに目を瞬かせた刹那、軽い衣擦れのような音がした。すると、彼の肩に黒い羽根のように、後ろ髪が広がる。短い毛先が空気に絡めとられ、その頬を撫でるように揺れる。彼の手で髪が解かれたのだ。

「ここで君はおれに遭遇したって。それじゃ、ダメかな」

 視線に促されるままに見下ろすと、差し出された彼の手には、白い元結がぶら下がっていた。

「こ……これを、みんなにって?」
「そう。君がここに来て、マツホド忍者の末裔と出会ったと言えばいい」

 ひどく穏やかな声に、返事も忘れてしまった。恐る恐る手を伸ばし、今にも透けそうな元結をすくう。静かに笑う声がして、指が震えそうになる。顔を上げると、髪を下ろしたまま、いつものようにはにかむ守一郎の姿があった。
 顔が熱くなった。

 彼は、わたしが忍者の学校の生徒であることを知らない。わたしがくの一教室で優しい学級委員長さまと皮肉られていることも、同じ年頃の男子にはヘボくの一と呼ばれていることも、何も知らない。守一郎には、わたしが落ち着いた年上の女性に見えたのだ。今まで、男の子からそんなふうに言われたことは無かった。受け取った彼の元結を握るほど、胸が締め付けられていくような気持ちになってしまう。
 これが、罰ゲームだなんて。

 「どうしたんだ」と守一郎が覗き込んでくるより早く、わたしは袖で顔を拭う。ありがとう、とうまく口にできただろうか。
 そして無造作な彼の黒髪を放っておくわけにもいかず、わたしは元結を一旦口にくわえ、自分の髪も解くことにした。
 そして口を開けて眺めていた守一郎の背中に回り、髪をくくる。「あの」と届く短い声も、わたしはいとわない。毛量が多く、根太い髪の房ばかりだけれど、思ったよりも柔らかい手触りで、見た目ほど指に刺さるような感触はなかった。縛った髪の束を離すと、芳ばしい汗の匂いが漂う。
 守一郎はその結び目を見たいのか、自分の肩越しに首を回しては、腰ごと体の向きを捻りはじめる。犬の尻尾のような黒髪の根元に、わたしの跳ね元結がぴょこんと浮いており、その不釣り合いな風貌に頬が緩んでしまう。
 わたしも守一郎の元結で自分の髪を結び直した。無骨な元結に束ねられ、わたしの髪が空気を包んで膨らんだような気がした。

「とりかえっこだな」
「そうだね。次に会った時に返すから」
「うん。会えるよね」
「約束する」
「おれも」



 澄んだ闇に染まる空が、この短い冒険の終わりを告げる。
 別れ際、わたしの帰路が実家とは逆方向となることに、彼は何も言及しなかった。詮索しないようにしてくれたのか、単に気が付かなかっただけなのか。最後に「気を付けて」と強く手を握ってくれた感触が、いつまでも消えずにいる。
 この廃城での彼との出会いが幻ではなかったことを、わたしの後ろ髪を束ねた元結が語るのだった。





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