ガクアジサイ

 空は銀色の厚い雲に覆われ、あたりには湿った風の匂いが漂っていた。土に濁る水たまりを避けながら歩いてきたものの、草履越しの足先には、どうしても濡れた泥がまとわりついている。
 
「せっかく、君に見せたいと思ったのに……」
 
 道端にうずくまる守一郎が、口惜しそうにそう零すのを見下ろしていた。わたしと二人で出かける頃には快活に跳ねていた毛先も、この雨上がりの湿気のためか、すっかり元気を失くして萎びてしまっている。
 彼が弱々しく手を添えるのは、色褪せた紫陽花の細い茎だった。
 
「おれが見たときは、本当にキレイだったんだよ。青とか、紫とか、いっぱい咲いてて……。葉っぱもこんなにぼろぼろじゃなかった」
「そうなの?」
 
 甘えるように呟く守一郎の背中が小さく見えて、それがなんだかいたたまれなくなってわたしは彼の隣に屈み込んだ。小袖の裾が地面を掠めたかもしれないが、守一郎の足元はそれ以上に泥の色をまとっていた。
「うー」と肩を落として頭を搔く守一郎を横目に、わたしはその花畑を眺めてみる。花畑、とは呼んだものの、目の前には緑の葉群が広がっており、一瞥しただけではここが紫陽花畑だったとは想像もつかないだろう。ところどころに色褪せた萼片が輪になってぐったりと垂れ下がっており、中央に小さな茎が密集しているので、その特徴的な姿にようやく紫陽花の面影が見られた。彼の言う青や紫の色の面影はあるものの、花はほとんどが白んでくしゃくしゃになっているか、火に焦げた痕のように茶色く変色している。一見青々しく見えた葉も、間近で眺めると虫に食べられた穴まみれで、穴というより、溶けていると言った方がふさわしいかもしれないほど侵食さていた。ただ、葉の窪みは先ほど降ったであろう雨粒を背負っており、みずみずしく浮かぶ葉脈が、まるで生きたまま滅んでいるようにさえ見えた。
 守一郎の顔をちらりと盗み見るが、深く寄せられた眉間と鼻筋の下で、唇はぐっとかたく結ばれている。滅びかけた紫陽花の群れを前に俯く横顔が、野暮ったくも儚く見えて、わたしは悟られないように息を飲んだ。彼は何かを悔やむ時、ひどく大人びた顔をするのだ。
 
「ねえ、守一郎。次の年にまた来ようよ。その頃には新しい花が咲いてるはずだから」
「うん……。来年かあ」
 
 守一郎は何か考え込むように空を仰ぎ、目を伏せる。やがておもむろに振り向くのだが、その刹那に、わたしの胸の中では痺れが駆け抜け、まるで身動きが取れなくなってしまった。
 
「……名前は、来年も、おれとこうしていてくれる?」
 
 守一郎は黒い瞳で真っ直ぐにわたしの顔を覗き込むのだが、山なりの太い眉毛は、その瞳を守るかのようになだらかな八の字を描いていた。その神妙さにわたしはついうろたえてしまうのだが、彼はそれさえ知ってか知らでか、構う様子はない。
 先の気持ちは約束できない。来年も、なんて、誰にも分からないのに。なのに、彼の物憂げな眼差しに捕えられ、わたしはとうとう「うん」と頷いてしまっていた。「絶対に約束だよ」と湿った手が、わたしの頬に縋るように伸びてくる。
 曇り空なのに、視界に影が差した。
 胸のあたりには、ずっと錯覚のような痺れが残っている。
 
 
 やがて守一郎がひとりでに立ち上がるので、わたしたちはそのまま二人で帰路に着くこととなった。粘っこい地面の小石が、踏まれるたびにしゃくしゃくと音を鳴らす。
 彼はもう紫陽花のことは口にしなくなった。代わりの話題を提供することもなく、二人で黙って歩き続ける。
 しかし、その背中は丸まったままだ。デートの計画への未練が強いのだろうか。わたしは一つだけ、彼に伝えたいことを口にした。
 
「……わたしは、さっきの紫陽花、綺麗だと思ったよ」
「どうして?」
「うーん……。考えようかな。普段は見られないものが見られて、むしろラッキーだなぁ、って」
「そっか。おれもそう考えてみようかな」

 頼りなさげに微笑む彼は、やはり気分が落ちているらしい。明朗なはずの声色は、今は紫陽花の影響を受けたかのようにすっかりしなびてしまっている。
 一方で、言葉通り、わたしは特に不満には思っていない。立ち枯れた紫陽花の群れも、剪定されるまでの間のむしろ滅多に見られない光景だ。
 紫陽花の色褪せた花や虫食いに侵された葉を見て、思い浮かんだのは、あの廃城で見た彼の横顔だった。彼の口から語られる、無念のまま滅びた侍たちは、あの城の草木とともに朽ちていき、やがてその悔恨を糧に新たな芽を生やすのだろう。少年である守一郎に託された無念は、今も彼の中に根を張っているのだろうか。
 滅びゆくものが美しいのは、この先の再生がより一層際立つから。守一郎が、それを背負っているから。……こんなこと、本人にはとても伝えられない。わたしもとうとうそれ以上口にできる言葉を失ってしまって、黙って歩く道の先を眺めるばかりになった。
 遠くの晴れ間が覗いている空にだけ、筋状の日が差している。そこにはもう、夏の光が訪れているようで、虹色の蜃気楼が揺れて見えた。湿気に満ちた匂いの中に、乾いた風がすり抜ける。お互いに依然として黙り込んだままだったが、わたしがそっと隣へ手を差し出したら、彼は何も言わずに指を絡めて握りしめてくれた。先程より汗ばんだ手のひらだった。
 
 
 
'210717