I can't help loving for you!

あなたに恋せずにはいられない!


泉とは、エレーネにとって特別な場所である。
居場所のない己が気を休められる唯一の拠り所であった。
初めて出来た友人と初めて出会った場所であった。
友人を真に理解した場所であった。
覚えている中で最初に泣いた場所であった。


ヒトとモンスターが住まうこの村には泉がある。そこはかつて拠り所にしていた泉より広く、そして同等の美しさだ。エレーネはよく此処を訪れていた。日の登る時間帯ではなく、沈んだあとの夜に。流石に雨天時は来ないがそれでもかなりの頻度で足を運んでいる。泉を眺めながら友人から教えてもらった歌を口遊(くちずさ)み、夜の静けさの中に小さく響く自分の声をただ聴いていた。……本当は二部合唱なのだけれど。そこに混ざる低い声がない事を切なく思いながら。

今日も今日とて訪れた。月明かりの下で見る泉はやはり美しく──もちろん日中も美しいが、エレーネは水面に映る月を見るのが好きだった──煌々と光る様にほぅ……と感嘆の溜息が零れる。何度も見ている光景ではあるが、逆に言えば何度見ても飽きないのだ。触れるのが憚られてしまう、そんな美しさ。淵に膝をつき、透き通った水中を覗き込む。しばらく水底を眺めていると、ふと彼女は思い至ったように泉に足を入れた。モラルに背いた行為だとは思いつつも、爪先から足首、膝、さらに腰と、臆する事なく沈めていく。臍まで浸かったところで水底に足がついた。服を着たままの着水ゆえ下半身は錘をつけたような重量感だが、エレーネは気にもとめず歩き出す。泉の中心に近付くにつれ水深が大きくなっていき、そこに辿り着いた時には水面は彼女の胸の下まで来ていた。季節は秋になり風が冷たく感じるようになったこの頃、それに比例して水温も下がっている。氷を張るほどではないにしろ、その冷たさは徐々にエレーネの体温を奪っていく。それでも彼女は泉から上がらず、ただぼんやりと、頭上に浮かぶ月を見上げていた。


「──イリニさん?」


繊細な声。それよりも前に草を踏み締める音が聞こえていたため、誰かが此方に近付いて来ていたのは気付いていた。そうして後ろからかけられた声に、エレーネは嗚呼と心の中で呟く。だがその様を表には出さない。


「あの、イリニさん、そこで何を……?」
「……………」
「イリニ、さん?」
「……………」


無言。無反応。……まさか、無視?
なんのアクションも見せない彼女に後ろの気配はおろおろとしだす。戸惑いを表しているその様子は明らかに不審者だが、この場において一番の不審者は服を着たまま泉のど真ん中で月を見上げているエレーネである。月に代わっておしおきされてもおかしくない奇行だ。おまわりさんこの人です。


「あ、の」
「今は」


あうあうと困惑の声を零していると、遮るように声がかかる。その静かな話し方に思わず背筋が伸びた。相変わらず此方に背を向けて水に浸かっている彼女を見つめる。天から降る月の明かりに照らされ、透き通るような泉の真ん中に佇むその様はとても幻想的で。ノースリーブから伸びる手を水面でぱしゃぱしゃと遊ばせながら、掬っては傾け、掬っては傾けを繰り返す。思わずうっとりと目を細めてしまいそうになる光景だ。だが告げられた言葉は───


「今は業務外です」
「へ、」


───これである。
鳩が豆鉄砲をくらったような声を上げ、足音の主は頭にクエスチョンマークを3つほど浮かべながら首を傾げた。「わかりませんか?」とエレーネは訊ねるが、当たり前だろう。だがそう答える勇気はない。そしてそんな反応を初めから察していたかのように、エレーネはさらに言葉を続ける。


「それではヒントをお出ししましょう。ひとつめ、音にして3つ」
「え」
「ふたつめ、頭文字は『エ』」
「あ、その……っ」
「みっつめ、最後にして最大のヒント。……そう呼ぶのはもう、あなただけ」
「……、エ、エリー……ッ!!」

「──はい。こんばんは、アイリスさん」


良い夜ですね。

ぱしゃん、と音を立てて振り返った。
うっすらと笑みを浮かべ、足音の主……アイリスを見る。顔を赤く染めている様がとても可憐で、思わず弄りたくなってしまう。既に弄っているだろうという突っ込みはまあ、さて置き。低い位置にある月を見、エレーネは水の抵抗を受けながら泉の淵に立つアイリスの元へ歩き出す。


村に来たばかりの時、エレーネは自らを「イリニ」と名乗っていた。それはシスターとしての自分の名、謂わば修道名だ。そして、今は亡き愛する友人の名でもある。と言うのも、エレーネがけじめとして彼から借りたからだ。軍人だった自分を何かに変え、伽藍堂のような自分を何かで埋め、透明な自分を何かで染めたかった。そんな漠然とした目的で、けれど確固たる決意で、彼女はシスターとなった。友人を失い悲哀と後悔で嘆き涙を流す自分を、シスター・イリニは圧殺する。彼に余計な心配をかけさせんがために。それは間違いだとふたりの蜂によって気付かされるまで、エレーネはシスター・イリニで居続けた。

何もわかっていなかった。何も進んでいなかった。何も成長していなかった。軍人の、政府軍最前線特攻隊に所属する、大尉の階級を持つあの頃と。何も。その事に気付かされたのは本当に最近の話だ。同年代の魔物たちに指摘され、ようやく。それ以来エレーネは今まで抑えつけていた感情を表に出せるようになった。

けれど偶に、言いようのない感情が込み上げる日があり。そういう時は思わず抑え込んでしまう。誰にも見られたくない。そういう思いで。それが今日だったのだ。いつもとは違う行動に出たのも、予期せぬ訪問者を弄ってしまったのも、我が儘を言う子供みたいになっているのも。全て精神が不安定になっていたからだった。

そんな日はいつも、


「エリー」


負の過去が蘇る。


「……なまえを」
「え?」
「なまえを、よんでください」


アイリスの目の前に辿り着き、エレーネは濡れた手を彼女に差し出す。

凡百(あらゆる)戦場の地を駆け、二挺拳銃の引鉄に指を掛け、数多の魔物を手に掛け。標的の血で自身を真っ赤に染めた事もあれば、自らの血で真っ赤に染まった事もある。そして愛する友人の仲間を殺し、その友人も目の前で亡くした。今でこそこの手は澄んだ水に濡れているが、それより前から既に多くの血によって汚れている。雪げるはずがない、それなのに。数え切れないほどの命を吸った手を差し出す自分は、なんと罪深いのだろう。

触れたらこの手は穢してしまうかもしれない。


「エリー……」
「………はい」


花の名を持つ彼女の命をも吸ってしまうかもしれない。


「エリー」
「、はい」


穢して、吸って、そうして。


「エリー、エリー」


アイリスという花を、


「ええ、はい」


枯らしてしまうかもしれない。


「………エリー」


それでもこうして、彼女はこの手を握ってくれるのだ。
名前を呼び、額を合わせ、寄り添ってくれるのだ。
求めるように、慈しむように。


「アイリスさん」


自らを弱いと嘆き、すぐに枯れてしまう花を己のようだと嫌い。
エレーネを強いひとだと言う彼女を、自分は。


「すきですよ」


握ってくれた手を引き寄せ、そして。


見上げれば月は、二人の真上にあった。


*****

あなたは中原中也作「湖上」より「月は聴き耳立てるでせう、すこしは降りても来るでせう、われら接吻する時に 月は頭上にあるでせう。」でエレーネとアイリスの妄想をしてください
https://shindanmaker.com/507315

【原文】
月は聴き耳立てるでせう、
すこしは降りても来るでせう、
われら接唇(くちづけ)する時に
月は頭上にあるでせう

【訳】
月は聞き耳立てて
私たちの話を聞こうとするでしょう
そのために少しは下に降りて
近づいても来るでしょう
口づけするときには
真上にあるでしょう
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