「徳川ちょっと……」
「何だ?」
職員室でキーボードを叩いていた俺を、光秀が手招きする。あの嫌な夢を見てから、ほんの少しだけ光秀と距離を取るようになった。以前のことを学習しているから、あからさまな避け方はしないが、必要以上に近付かないようにしていた。
(何か拙かったか?)
チラと光秀を見るが、普段とさして変わらない様子。就業時間をとうに終えた職員室には、光秀と俺しか残っていない状況だ。
「どうしたんだ?」
「作業中に悪い」
「一段落着いたところだから大丈夫だ」
「そうか。あー実はな、長期の学会が入っちまった」
神妙な面持ちで告げてきた光秀の言葉に拍子抜けする。
「それで?」
「それでって、オメェなァ」
首を傾げる俺に光秀が嘆息した。発した言葉程度の感想しか持ち合わせておらず、光秀の態度にますます困惑する。それ以外に何があるのだろうと。
「『メシ』とかどうするんだ。薬だけだと足りねぇだろ」
「あ!」
メシとは、光秀から血液の代わりに精を分けてもらう行為のこと。デリカシーの欠片も無く、あからさまに「ヤるぞ」と言ってくる光秀に、赤面しながら言及したことは記憶に新しい。
「ったく……忘れるような事かよ」
「何日ぐらいなんだ?」
「十日ってとこだな」
「……薬だけでなんとか―」
「しようとすんなよ?」
青筋が浮かびそうな顔で、唇を吊り上げる光秀に無言で何度も頷いて見せた。
「どうすっかなー……来週からだから、ちぃっと考えてみるわ」
「その時は三成に頼んで輸血して貰う」
「輸血……ねぇ」
「今までも時々して貰ってたから。タブレットより効果は期待できないけど、しないよりマシだ」
「そうなのか?」
「言ってなかったか?」
「聞いてねぇよ! そんなことは早く言えよ」
「そうか……すまない」
「まぁそういうわけだが、寂しいって泣くんじゃねぇぞ?」
「だっ、誰が泣くか!」
ニヤリと笑う光秀に、噛み付かんばかりの勢いで反論して、踵を返した。
(……どっちが子供だよ)
ムキになって食い下がる俺にも原因はあるが、そこを面白そうにつついてくる光秀も似たようなもの。不愉快を顕にして、残りの仕事を片付けにかかった。
学会の知らせを聞いて、正直なところホッとしていた。数日ではあるが、あの行為をしなくて良くなる。精気を貰うことが目的だとしても、抱かれているということに変わりはないのだ。浅ましくも、それを心のどこかで喜んでいるのもまた事実。
光秀のことは好きだ。好きだからこそ、行為の後の喪失感や虚しさが大きくなる。
あの夢を見て以来、度々似たような夢を見るようになった。自分以外誰も居なくなる、そんな夢を。他人の温もりを知ってしまったからこそ、それを失うことが怖いと思った。目を閉じると真っ暗な闇の中に独りきり。魘されて飛び起きて、途轍もない絶望を味わうのを、いつしか怯えるようになった。眠ると夢を見るから。あの絶望を目の当たりにするのが恐ろしくて、星を数えながら過ごす日々が増えていく。そうすると自然と眠気が訪れなくなった。
味気なく感じていた食事も、とうとう色を失ってしまったかのように、何も感じなくなった。大好きなものの味も。
ヒトじゃない俺は、これから永い時をずっと独りきりで生きなければならない。両親を失くし、それでも必死に生きてきた。苦しいこともあったけど、ようやく心に小さな明かりが灯ったと、そう思っていたのに。
愛するものを失った世界は、どんな色に染まるんだろう。血濡れた、俺の嫌いな真っ赤な世界は嫌だと。そんな世界で生き長らえるよりは、このまま弱って手折れたほうが、まだ幸せなのだろうか。
光秀が出張へ赴く前日のこと。『メシ』と有無を言わさず、地下へと連れてこられた。
「ん、ッ……」
埋め込まれていた陰茎が、ゆっくりと引き抜かれる。無意識にきゅうと締め付けてしまうのは、生存本能からくる、精を零すまいとするものだと思いたい。
光秀が真横に仰向けになって倒れ込んだ。出張があるからと、数日忙しそうにしていたのを思い出す。
(……わざわざ時間を割いてまで、シてくれなくても良いのに)
そう思うが強く拒否出来ないのは、光秀に対する恋心があるからだろう。初めの頃こそ苦痛と嫌悪しか無かった行為だが、今となっては快楽に体がうち震えているのがわかる。
(そういう、甘ったるい関係でもあるまいし)
「……大丈夫か?」
横から伸びてきた手が、汗で額に張り付く前髪を払いのける。思わずドキリと跳ねる心臓。光秀のこういった態度も問題なのだ。
「平気だ」
「そうか」
勘違いしそうになる。
違う、そうじゃない。光秀はただの上司で、俺のことをただ……ただの、性欲処理のために。
「そうだ、明日からの『メシ』のことなんだが」
ごろりと体の向きを変えた光秀が、こちらの様子を伺ってくるのが横目に見える。俺はやっと整い始めた息を静かに吐き、適当に相槌をうった。
「俺の血で輸血パック作っといたから」
「え? そこまでしなくて良いのに」
「いざとなったら輸血するっつってもよ、念のための予防線は必要だろ」
「それはそうかもしれないけど……いや、忙しいところすまない。助かるよ」
「おう。俺様の愛情がたぁっぷり詰まってるから、じっくり味わえよ?」
「気持ち悪い言い方をするな」
「酷ぇな、事実だろうが!」
「どこがだ」
「そういや石黒のヤツが、俺がこうも素直に血を差し出したもんだから、オメェの血の吸い方まだ下手なのかって心配してたぞ」
「なんで三成? って、まさか」
「石黒に血ィ抜いてもらった」
この関係のことが知られてしまったのではないかと恐る恐る問いかける。もしそんなことになったら、次からどういう顔をすればいいのか分からない。
「あ? それは流石に言ってねぇよ。っつーか言えるわけねぇだろ」
「そ、そうだよな……怒られそうだ」
「あぁ……蔑んだ目で見られんのは想像できる。なんでそんな危険な賭けみたいなことをってな」
「なんで光秀が? 叱られるのは俺のほうだろ。俺が招いた結果だ」
「は? あー……まぁ、オメェはそう思うよな」
ひとり納得したような光秀が面白くなくて、むくれながら天井を睨みつけていると、それを遮るように光秀の手が体に触れてきた。
「んっ……」
「まだ足りねぇみたいだな」
「必要ない」
「そうは言ってもよ……身体は正直だぜ?」
いつの間にか俺の上に乗りあげていた、光秀の顔が目の前に迫る。顎を固定され、観察するようにじぃと見つめられた。あまりの近さに顔を逸らそうとするが、ビクともしない。
「光秀離せ!」
(このっ、馬鹿力が)
「……オメェさ、意外と顔に出やすいよな」
「は?」
「最初は無表情のお人形さんかと思うぐらいだったけど、これ見よがしに嫌そうな顔するしよ」
「分かってるなら、するな」
「吸血衝動? 発作? それがある時なんざ瞳の色が変わるが、それ以上に表情がな……なんつーか物欲しそうにしてんだよな」
「なっ……」
「今もそんな顔」
「してない!」
指摘されたことにカッと血が上り、顔が熱くなる。欲しそうだなんて。そんなこと、そんなことあり得ない。
どうにか抜け出そうと試みるが、片腕だというのに拘束が緩まることはなかった。
「こんなになって……こっちのほうがよっぽど素直じゃねぇか」
ぐちゅりという耳障りな音と共に、先程まで光秀を受け入れていた秘部に、指を差し入れられた。指を伝い、どろりと流れ出てくるものに、反射的に身震いをしてきゅうと力を込める。
「そんなんじゃ……ッ、うぁ」
「の割には締め付けてくるけど?」
「やっ、ぁ、そこ、だめ!」
中の状態を確認するように、ぐるりと掻き回される。戯れにある一点に触れられ、ビリビリと背筋に電流が走る感覚に見舞われた。そこもまた、光秀によって教え込まれた気持ちいい場所。思わず膝で、光秀の腕を挟み込んでしまう。
「ココ、好きだもんなァ。徳川」
「ひっ、う……あ!」
びくびくと腰が浮き上がる。そこを刺激されることで一枚、また一枚と思考が剥ぎ取られていくようで。
もっと。いや、だめ。そんな感情がぐるぐると渦巻き、今にも破裂してしまいそう。
「あぁ、いー顔」
「ぅ、ぁ……かお?」
「そ。気持ちよさそーな顔」
「や、そこばっかり、あっ、あぁっ!」
逞しい腕を挟み込んでいる太ももに、擦り付けられる熱いもの。
「徳川……」
先を促すように、光秀が腰を揺らしてくる。欲を滲ませた瞳に見下ろされてしまえば、もう。おずおずと膝を開くと、待ってましたとばかりに腰を割り込ませてきた。
蕩けたそこは、ずぶずぶと美味しそうに肉欲を頬張る。艶を含んだ息を吐き出す口元は、快楽によって歪み、それを目にした獣は舌舐りをしながら、より深く目の前の獲物を味わい尽くす。それは食事という名の、互いの欲を貪り尽くす行為。
あとは気の遠くなるほどの快楽に呑まれるだけだった。
光秀が出張に出て一週間。地下の休憩室に居た。
「すまない三成」
「いえ。それより体調は大丈夫ですか?」
「大丈夫、と言いたいところだが……流石にキツいな」
「無理せず明紫波のアレを使えばいいでしょう」
ベッドに横たわり、腕に輸血のためのチューブが繋がれる。
「本当にどうしようもなくなったら使わせてもらうよ」
「徳川! 何かあってからでは遅いんですよ」
珍しく三成が声を荒げる。三成の言い分は最もだ。けれど俺にとって、たとえ直接光秀を傷付けることは無いとはいえ、あれに口をつけるのは多少なりとも抵抗があった。
片付けは自分ですると、礼を言って退室を促す。静かな室内で、ひたひたと液体が落ちる音を聞きながら、俺はぼんやりと天井を見つめていた。
(何かあってから、か)
もう既にその状態なのかもしれない。
食事は何も味がしなくなり、徐々にその量が減っていった。今では飲み物ぐらいしか口にしておらず、気付かれないように昼食の時間を皆とずらしている。食事とタブレット、そして光秀から精を分けてもらうことで何とか繋いでこれた。そのバランスが崩れてしまった今、体力の消耗は歴然だった。
光秀に恋をして急激に変化をみせる体。いつしか、光秀なしには生きていけない体になってしまうのだろうか。繋がれていないほうの手で目元を覆う。これからどうしていくことが最善なのだろう。俺にとっても、光秀にとっても。
数日後、俺はカーテンをほんの少し開けて、ぼんやりと月明かりを眺めていた。時刻は深夜だというのに、体は眠ることを忘れてしまったように、ただそこに有り続ける。
月明かりを浴びながら、想うのは光秀のこと。眠ることを恐れ、その代わりに得たものは、好きな人を想う優しい時間。どっちが子供だと言いたくなるぐらい、人のことをおちょくってきたり、かと思えば仕事に向き合う様は、馬鹿が付くほど真面目で。乱暴で、無遠慮で、スケベで……けれど俺を見つめてくる瞳は、触れてくる手は優しくて。
光秀が好き。愛おしい。そんな彼だからこそ傷付けたくはない。こんなにも飢えてしまった体では、次に会った時何をしてしまうか、自分でも分からない。あの夢が過り、膝に顔を埋める。違う、違う、ああいうことにはならない。
『―本当に?』
耳元で囁かれた言葉にハッと顔を上げる。窓には四つの赤が映りこんでいた。もう一人の自分が、頬に手を添え笑いかけてくる。妖艶な笑みを浮かべる口元には、長い牙と滴る赤い液体。
『本当は本能のままに噛み付いてしまいたいんじゃないのか? 欲しくないの?』
光秀の全てが。
違う、そんなことはない。俺は、俺は……。幻を振り払うように顔を覆い隠す。
「っ!」
吸血衝動の発作により、伸びてしまった爪が手を傷つけ、血が滲む。そこに口を付けたのは無意識だった。
途端、口内に広がる鉄錆の味。
「うっ……ぐ、ッ……」
込み上げる吐き気に、とっさに口を覆った。
(何で……何で、血の味だけはハッキリ分かるんだ)
落とした視線の先、血が滲んでいたはずの手の甲は、その痕さえ分からない程に綺麗になっていた。
「やっぱり俺は―」
ヒトじゃない。
自分の血でそう感じたのは、まだ良かったのだろうか。大好きな光秀の血でそれを認識してしまったら俺は。そう思うと、余計に光秀に近付くことを躊躇ってしまう。
ぼんやりと虚空を見つめる。留まる術を知らない雫だけが、唯一俺が光秀と同じ存在でいることを許してくれているような気がした。
ふらふらと人気の無い道を歩く。特に目的も目指す場所も無い。ただ誰にも迷惑をかけぬよう、独りになりたかった。
小高い丘の上。闇を孕んだ空が、次第に明るくなっていく。墨を落とした色から青へと。地平線から東雲が広がっていき、青と交じり優しい光が姿を見せた。
―俺の世界の闇も、いつか終わる日が来るのだろうか。
「徳川」
凛とした声が耳に届く。ここに居るはずのない人物の、聞き間違えることのない声が。愛おしすぎて、とうとう幻聴まで聞こえてしまったのかと、周囲を見回す。
振り向くと、そこには息を切らした光秀が立っていた。
「何でこんなところに。出張は?」
「今日までだって言ってただろ」
そうだったと呟くと、光秀が呆れたように溜息をついた。
「ったく……真葉から連絡があってな」
「幸村から?」
「おう、こっちは出張帰りンとこ叩き起されて、探しに来てみりゃ今にもぶっ倒れそうなオメェが居るし」
「……ちょっと外の空気が吸いたくなって。さ、散歩だ」
「こんな山奥に?」
「まぁな」
さっき見た空によく似た瞳に見下ろされ、体が強張る。気持ちを見透かされそうな、澄んだ青。
じりと、光秀が距離を縮めてくる。一歩、また一歩と。
「何で逃げる」
「え、ぁ……」
無意識だった。ざりと地面を擦る音がやけに大きく聞こえる。
ふわりと風に交じり漂うのは、煙草に混じった甘い香り。途端、ぞわりと背筋を逆撫でされる。きぃんと耳鳴りがして、喉が、渇く。
「やっ!」
ぱしんと乾いた音だけが辺りに響いた。気付くと伸ばされた手を振り払っていた。
「徳川?」
「もう俺に構うな!」
もうたくさん。光秀のことを想うたび、その心を満たすのは甘い熱に浮かされたような、ふわふわとしたもの。どこまでも温かくて、幸せで。けれど、同時に苦しいほどに胸を締め付けられる。どう足掻いても埋まることのない、ヒトとヒトではない者の距離感。
それでも想うことを止められない自分が、愚かで、惨めで。
この場から離れないと。光秀から。そう思うのに体は鉛のように重くて、言うことをきいてくれない。
(あれ。おかしい、な……)
「徳川! おい、徳川!」
傾く体と、遠のく意識。光秀が俺の名を呼ぶ声が聞こえた気がした。
薄暗い寝室。ベッドサイドの小さな灯りのみがゆらゆらと揺れる中、ぽそりと呟かれた言葉。
「こんな形で、またココに連れて来たかったんじゃねぇよ」
大きなベッドで死んだように眠る人影を前に、項垂れる大きな背中。
眠る陶磁器のような白い肌へ、男の手が伸ばされた。しかしそこへは届かず、苛立たしく己の膝を叩いた。
「……ん」
意識が明るいところへと引っ張られるように覚醒する。ぼんやりとした思考の中、数度瞬きを繰り返す。
「徳川?」
そんな中、鼓膜を叩いた声に視線を巡らせれば、焦燥しきった顔があった。次いで思い出すのは、気を失う前のこと。
「ッ、光秀……!」
弾かれたように上体を起こそうとするが、数日の間にこんなにも体が弱っていたのか、思うように動いてくれなかった。ぐらりと傾くのを、咄嗟に光秀が支えようとするも、それを振り払うように身を引いた。
「さ、わるな……大丈夫だから」
「っ……」
「帰る」
身動きひとつだけで息があがる。帰ることなど到底できないのは明白だが、それでもこの空間に居続けることは、俺にとって苦痛でしかなかった。
ぽそりと、独り言同然に呟いた言葉は、光秀にもしっかり聞こえていたようで、眉間に深い皺が刻まれた。
「フラフラな状態のオメェ前に、はいそうですかって言うとでも思うか!」
びりりと、家中に響き渡るような大声。
投げられた怒声に身がすくむ。呆れて勝手にしろだとか、知るかと突き放してくれた方がまだ良かった。固まってしまった俺に、光秀が小さく舌打ちをする。
「怒鳴って悪い。別にどうこうする気はねぇから、落ち着くまで休んでけ」
「そういうのを心配しているんじゃない。むしろ……俺が、光秀を……」
俯いて口篭る俺に、光秀が屈んで視線を合わせてくる。そして荒い息を吐きながら、ぎゅうと手を握り締める俺の姿を見て、表情が変わった。
「徳川、オメェなんか隠してんだろ?」
「な、何言って……」
一番問われたくないところをつつかれ、びくりと肩が跳ね上がる。そんな俺に目を細めた光秀が、ゆっくりと口を開いた。
「俺の血にも手ェ付けてないらしいな。ぶっ倒れるまで無理して、一体何がしたい?」
「体調管理も出来ない部下だと心許ないよな。今度からはちゃんとする」
これ以上は踏み込んで欲しくないと、じくじく心が痛む一方で、ひどく冷めた自分がいる。
「ンなこと言ってるんじゃねぇ!」
「光秀には関係のないことだろ! もう俺に構うな!」
本心であり、心のどこかで否定したいものが、ぽろぽろと溢れ出す。心が重苦しく、不安定に揺らめく中、ふわりと煙草の香りに包まれた。
「構うなって……」
抱きしめられているのだと、頭で理解したときには、完全に思考が止まっていた。
抵抗を忘れた俺をよそに、光秀は腕の力を強める。
「構うなって、無理なんだよ。こんなボロボロになったお前放っておけるかよ」
「え……」
「好きだから気になるし、構いたくなるのは普通のことなんじゃねぇの?」
「好き……って、だれが?」
体を離した光秀が頬に手を添えてくる。そのままぐいと上を向かされる。
「俺が、お前を」
言葉が出なかった。
何か言わなくては。そう思うのに、光秀の言葉に頭が真っ白になった。
「こんなオッサンから好かれても、嬉しくも何ともねぇだろう、け、ど―って」
おかしなところで言葉を切った光秀は、口を開こうにも言葉が見つからない俺を、困ったように見つめ返してくる。
目尻に触れられた指先で、ようやく自分が涙していることに気付いた。
「あ、れ……なんで」
慌てて光秀から顔を背けると、両手で次々に溢れてくるものを拭った。自覚してしまえば、涙は止まるどころか、溢れる一方で。
「最初はな、単に好奇心からだった。でも目が離せなくなって、気になって追いかけりゃ逃げるしよ……強情で意地っ張りで、甘えることも知らねぇ。どうにかしてやりたくて、気がついたらオメェ押し倒してた」
「性欲処理じゃなかったのか?」
「なんだそりゃ」
「だって貰うことが目的とは言え、光秀に何の利点がある。俺なんかと、その……スる理由が分からない」
思ったことをそのまま口にすると、光秀が盛大な溜息を吐いた。
「あー……そういう考え、無くはねぇが、普通好意があるとか思わねぇのか? 自分がどんだけ周囲の目ェ引いてるか分かってねぇのか」
「仕事のことなら多少は自覚してるぞ」
「違げぇよ、そっちじゃねぇ! 無自覚にも程があんだろ」
俺の答えに光秀は、苦虫を噛み潰したようにぼやく。そのあと、こちらをじっと見据えてきた。
「好きなヤツがただ弱ってく姿を見てるだけなんざ、俺にはできねぇよ。お前をどうにかしてやれんのは、俺しかいない」
真剣な眼差しに、羞恥とも困惑とも取れる感情が押し寄せてくる。
「……でも俺、吸血鬼だぞ? 俺とお前とじゃ、生きてる世界が違うんだ」
「なぁ徳川。人を好きになるのに、ごちゃごちゃ考える必要があるか? 俺は徳川だから好きなんだ。それじゃ駄目か?」
ぽろりと、何かが剥がれ落ちるような気がした。
「俺も、俺も……光秀が好き」
「やっと言ったな」
「……え」
安堵の息と共に、そっと腕を引かれる。光秀の胸元に飛び込む形となったが、難なく抱き留められた。ぽすぽすと頭を叩かれ、優しい声が鼓膜を揺らす。
「バレてねぇと思ってたのかよ? オメェが俺を好きって」
「えっ、な、なんで」
「何でって、そりゃ見てたから」
「見てた……」
考えてもみなかったことを言われ、頬に熱が集まる。好きだから光秀のことを目で追ったりもした。まさかそれを自分にも向けられていたとは考えもぜす、面映さを感じる。それを隠すように、光秀の胸へと額をすり寄せれば、背中をやんわりと撫でられた。
「ところで、隠してること話す気になった?」
肩を強ばらせる俺に、光秀がクツクツと喉を鳴らし笑ってくる。それに頬を膨らませつつ、おずおずと口を開いた。
「食べ物の味がしないんだ」
「なっ……何時からだ」
「光秀が出張に行く少し前」
「おっ、まえな! 何でそんな大事なこと言わねぇんだ」
「光秀忙しそうだったし……ごめん」
「石黒にも言って―ねぇな」
「……あぁ」
「お、まえっ〜〜ッ……」
(あ、耐えた)
怒声をあげようとした光秀がグッと堪える。それを呑気に見つめていたら、額を弾かれた。
「いっ!」
「こんだけで済んで有難いと思え! 明日石黒ンとこ行くぞ」
痛む額を押さえながら、こくこくと頷いたのだった。
「オメェさ、味がしないってんで、まさか食ってない訳じゃねぇよな」
「……はは」
「はぁ……笑って誤魔化すんじゃねぇよ。もう怒る気も失せちまう」
「ごめん」
「……じゃあ倒れたのも、明らかに血が足りねぇってことか」
しばらく考え込んでいた光秀が、じっと見つめてきた。その瞳はあまりに真っ直ぐで、瞬きさえ忘れてしまいそうになる。
「俺の血を飲め」
「だから、それは嫌だって」
「嫌かもしれねぇけど、こんな状態で抱こうとは思わねぇよ。良くなったら気絶するまでヤるから覚悟しろよ」
シャツの首元を緩めた光秀に、腰を引き寄せられる。
「やっ、ちょ、光秀!」
「そういう態度取られると、逆に燃えるって、なーんで分からねぇかな」
「頼む、光秀……離してくれ」
「やだ」
「やだって……」
「もう離してやんねー。なぁに怖がってんのか知らねぇけど、俺は簡単にぶっ倒れたりしねぇ。オメェに吸われたときだってピンピンしてたじゃねぇか」
「で、でも……」
「俺としては搾り取られるなら、下の方でも構わ、ッ、ぶねぇ!」
あまりに品の無いことを言ってのけるのを咎めるために、光秀の鳩尾目掛けて肘を思い切り振りかぶる。躱されはしたが、話の流れを変えるにはちょうど良かった。
「あのな、食事は味がしないって言っただろ?」
「おう」
「何故か血だけは、ちゃんと味がするんだ」
「そうなのか」
「そのときは自分の血だったけど……光秀の血で、実感してしまうのが怖いんだ」
「そうか。そりゃ辛かったな」
「……ん」
「でもよ俺としては、唯一美味いって思えるモンが、俺の血だけだっていうのは嬉しいことだぜ」
「……美味しいとは言ってないだろ」
「下からの方が美味いってか?」
「そっちはもっとない! バカっ!」
「そこまで全力で否定することねぇだろ!」
思わず吹き出すと、遅れて光秀も吹き出す。少しだけ、ほんの少しだけ、心が軽くなった気がした。
「……うん。光秀の血飲ませて貰う」
「おう、遠慮なく飲め」
「けど、その前にこっち飲んでから」
ポケットを探り、取り出したピルケースを振って見せる。
「タブレット?」
「暴走して飲み過ぎないようにするためだ」
「ほー」
手のひらに一粒落としたそれを、徐に目の前の長い指が摘みあげる。突然の行動に目を見開くも、己の口にタブレットを放り込んだ光秀に、そのまま噛み付くように口付けられた。
歯列を割り、小さな錠剤が口の中に押し込まれる。驚き縮こまった舌を吸われ、鼻から抜ける吐息がやけに甘ったるく聞こえた。
「飲めた?」
「っ、ばか……こんな飲ませ方」
息も切れ切れに、我が物顔で口内を蹂躙した者を見上げる。唾液によって濡れた唇が、やけに色っぽい。
「あと一錠飲んどくか?」
その色気にあてられ、こくりとひとつ頷く。興奮気味に唇を舐めながら近付いてくるの、光秀を目を閉じて受け入れたのだった。
*
「いって! 痛てぇ! オメェわざとやってるだろ」
「んー」
膝の上に乗り上げ、逞しい首筋に牙を突き立てる。唇を苛められたお返しとばかりに、不機嫌を顕に血を吸い上げた。
一口ごとに体が潤っていくようで、もっと欲しくなってくる。それと同時に感じたのは、ある場所の疼きで。そう、いつも光秀から精を貰う、奥まった場所がジンと痺れていく。
「もういいのか?」
「……うん」
どうしたものかと視線を彷徨わせていると、怪訝な顔で見下ろされた。
「どうしたんだ?」
「え、あ……うん」
「徳川?」
「あのな、笑わないで聞いて欲しいんだが」
「おう」
「その、落ち着かなくて……血を飲んでも、体がココから貰うことを覚えてしまったみたいで」
「真琴クン、今それを言っちゃう?」
「あ……悪い」
指摘され、急激に羞恥に見舞われる。しかし認めてしまったことにより、いっそう疼きが酷くなり、もじもじと膝を擦り合わせてしまう。低く唸る声に呆れられてはいまいか、視線だけをそちらに向けてみた。すると光秀が頬を掻きながら、ぶっきらぼうに告げてくる。
「とりあえず寝るぞ」
「あ、あぁ」
「そんな残念そうな顔すんなって」
「してないっ!」
言うや否や、布団に引きずり込まれて、首まできっちり布団を掛けられた。
幸いタブレットと、吸血のおかげで体調もだいぶ良くなっている。しかし気がかりなことが……。
「……寝る」
「なんだ?」
「えっと、その」
「まぁた何か隠してんのか?」
「最近眠れてなくて」
苦笑いする俺に、本日何度目かの溜息。
「あーもう。眠れるまで子守唄でもなんでも歌ってやるから」
「光秀が?」
くすくす笑いながら胸元に顔を埋めると、背中を軽く叩かれた。それは心地良いリズムで、温かくて。
程なくして、俺の意識は闇の中に落ちていった。
「ンとに、こいつは……」
指通りの良い髪を撫でながら、光秀が呆れたような笑みを見せる。
「生きている世界が違う。か」
人知れず呟いた言葉は闇の中へ溶けていく。
「……永い時を生きるのは徳川だってのによ。オメェの心欲しさに、目ェ背けらんねぇ現実を叩きつけちまった。すまねぇ……けどよ、壊れてくのを黙って見てられなかったんだ」
穏やかに寝息をたてる横顔。壊れ物を扱うように、その体をそっと抱き締める。
「俺もお前と、ずっと同じ時間を過ごしていきてぇよ」
掠れて震えを伴った言葉は、静かな室内にやけに大きく響く。安らかな寝息に誘われるかのように、また光秀も眠りの中に落ちていった。
穏やかな寝息が満ちる室内を月明かりが優しく照らす。微睡みの中、胸元に閉じ込めるように抱いた大切な人。『ずっとずっとこの先も変わらず、永遠にお前と』そんな呪いにも似た、願いを聞き入れてくれたかのように、柔らかな栗色の髪の上で黒い耳がピクリと動く。
立派な尾がたゆたい、二人を隠した。
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