午後の回診を終え職員室に足を向ける。
(今日はもうオペも入っていないし、事務処理でもしよう)
溜まったデスクワークを片付ける良い機会と、歩みを進めたところで視界が傾いた。
(しまった……貧血か)
「危ねぇ!」
鋭く響く声と共に、後ろから二の腕を掴まれた。
「ふぅ……間一髪だな」
体を引っ張り上げられたことにより、幸いにも地面に激突する事は免がれる。聞き慣れた声のする方を見上げると、予想した通り、そこには直属の上司である光秀の姿があった。
「光秀」
「ん? オメェなんか顔色悪くねぇか? メシはちゃんと食ったのか?」
顔に似合わずと言ったら本人は怒りそうだが、世話焼きな一面のあるこの男。
ここ月城医大に赴任して数ヵ月。何かとちょっかいをかけてきては、反応を愉しんでいる節のある光秀のことが、俺は少し苦手だった。時折よこされる、人の本質を見極めるような視線が。
「問題ない」
しげしげと様子を伺う光秀の視線から、逃れるようにきびすを返した。
「オイ、徳川!!」
背後からよく通る声が響く。院内だから少しは静かにしろと、内心悪態をつきつつ、今なお続くめまいにフラフラしながらも、どこか人目につかぬ場所を探した。
使われていない診察室に体を滑り込ませ、内鍵を掛ける。その場にズルズルと力なく座り込むと、胸元を探って目的のものを取り出した。
血液錠剤。通称タブレット。その名の通り血液の成分を錠剤にしたものだ。
震える手で一粒口に放り込み、噛み砕いた。普段は一粒で足りるのだが、どうにも喉の渇きが治まらず、無意識に次へ手が伸びてしまう。しばらく思案したのち口に含ませると、先程とは違いコロコロと舌の上で転がすようにする。
(出勤前に口にして以来だな。間隔を開けすぎたか)
忙しさにかまけて、犯してしまった失態に反省する。タブレットのおかげか、だいぶ体が楽になってきた。もう少し状態が落ち着くまでと、少しの間目を閉じ休むことにした。
俺は吸血鬼だ。
とはいえ元は人間。幼い頃に吸血鬼に襲われて、噛まれてしまったのだ。両親が俺を庇ってくれたお陰で生き存えた俺は、元人間の吸血鬼になってしまった。
吸血鬼は外見だけでは、普通の人間と区別はつかない。長い寿命で老化も遅く、身体能力も優れている。そして人間の血を吸う。何千何万もの人間の中で、闇夜に紛れて妖しく目を光らせ、獲物を狙うのだ。
しかしながら、俺は吸血鬼になったものの、他者の血液を受け付けない特異体質だった。幸い普通の食事で生命を繋げられる。多少貧血気味な程度ということを除けば。
(誰かの血を吸うなんて、そんなのこっちから願い下げだ。俺から家族を、平穏な日常を奪った化物になるなんて、考えただけでも吐き気がする)
タブレットがあれば貧血も和らぎ、こうして働くこともできる。月城医大に就職した理由も、秘密裏にタブレットの研究と、新薬の開発が行われていると情報を得たからだ。
幸せだった日々から、突然どん底に突き落とされた。けれど何もしないで、この状況を受け入れる事など、俺にはできなかった。
閉じていた瞼をそっと持ち上げる。時計に目を向けると、随分と時間が過ぎ去ってしまっていた。ふうと短い息を吐き、両手で軽く頬を叩き気合を入れる。そうして気持ちを入れ替え、仕事へと戻ったのだった。
数日たったある日のこと、当直だった俺は休憩室へと向かっていた。扉を開けると、幸いにもそこには誰も居らず、安堵の息を吐き出す。普段より体力を削られる日は、僅かばかり貧血が酷くなるのだ。
タブレットを口に放り込み、机に突っ伏して目を閉じる。隣にある仮眠室に行けば、まだ休めると思うが、体がどうにも言うことをきかず、結局はそのまま眠りの世界へと落ちていった。
ふと人の気配がして意識が浮上する。
「お……ワリ、起こしたか?」
「み、つひで?」
「ンなとこで寝てたら風邪ひくぞー」
ぼんやりとする頭が目の前の人物を捉える。体を起こすと、肩から毛布が滑り落ちた。
「これ光秀が?」
「おう。大事なスーパードクター様がお風邪を召したら困るもんでな」
「……ありがとう」
目の前の椅子に腰掛け、資料を捲っていた手を止めた光秀が、驚いた視線を寄越してくる。それが少々面白くなく、つい不満を口にしてしまった。
「なんだ」
「あ〜いや、珍しいモンだなと」
「は?」
「徳川が素直っつーのは」
「失礼な奴だな。俺だって礼ぐらい言う」
「へいへい。有り難く受け取っておきますよ」
そう言って光秀はまた視線を資料へと移した。
室内が静まりかえる。しかしそれは決して気まずいとかそんな雰囲気は無く、むしろ苦手に思っていた人物なのに、今のこのひと時は至極心地の良いものに感じられた。
手持ち無沙汰になった俺は、室内をぐるりと見渡す。そして最終的に目がいくのは―。
(意外とまつ毛が長いんだな)
俯く光秀の下瞼に影が落ちる。そこにはうっすらと隈も見えて、日頃の忙しさを伺い知ることができた。切れ長の目に薄い唇、鼻筋の通った男らしい顔立ち。あまりじっくりと見る機会のない顔を、何もすることが無いのを理由にこれ幸いと観察してみる。
(目つきは悪いけど黙っていれば、そこそこ―)
そこまで考えてハタと気付く。
(そこそこってなんだ。そこそこって!)
有り得ない己の思考に、ブンブンと頭を振っていると、ぶはっと吹き出す声が聞こえてきた。
「なーに百面相してやがる」
「!」
自分も見られていたことに、かぁっと頬に熱が集まっていく。
「もっ、もう、行く!」
「そうか」
ガタンと大きな音をたてて、やや乱暴に立ち上がったその時。
「っ……!」
小さく声を上げたほうを振り向くと、紙で切ったらしい親指の腹に一筋の赤い筋が見えた。
「ってぇ……おー、わりとザックリいってんな。こりゃ」
間延びした光秀の声。辺りに漂うのはツンとした鉄錆の匂い……だと、普段の俺ならばそう思う。それが何故か、とても甘く芳香なものに思えて、あふれる赤から目が離せなくなった。
ドクンと心臓が跳ねる。
喉がカラカラに乾燥していく。それを潤してくれるモノが、欲しくてたまらない。
「ぅ……は、ぁ」
荒い息を吐き胸元を押さえる俺の姿に、驚いた光秀が近づいてきた。
「徳川!? どうした、顔色が―」
(欲しい……欲しい。ほしい。ホシイ)
距離が近くなったことにより、誘うような甘い香りは強くなる一方で、抑えることのできない欲に従い、目の前の体に擦り寄った。
本能のままに血の滲む指に舌を這わせると、甘美な味が舌の上に広がっていく。
(もっと、もっと……)
剥き出しの首筋から目が離せない。どこからこんな力が出てくるのか、己よりガタイの良いはずの光秀を、いとも簡単に押し倒し、馬乗りになっていた。
「おい、徳川! 離せ! ッ、なんだこの馬鹿力」
暴れる光秀の口元に指を宛てがい笑う。そんな俺を、呆けた顔で見上げてくる光秀の姿が珍しく思え、いっそう笑みが深くなる。*
その刹那、紫の瞳が赤く変貌していく。笑みを湛える形の良い唇からは見えるのは、人にはありえない鋭い牙。
「は? オメェ……それ」
「光秀……」
横たわる光秀の体に沿うように体を寄せる。男らしい太い首筋へ顔を埋め、甘い香りを胸いっぱいに吸い込む。そしてそこへ唇を寄せ、力一杯噛みついた。
「いってぇーー!!」
ぶつりと皮膚を裂く音と共に、光秀の声が虚しく木霊した。
***
暗闇の中、子供の啜り泣く声が聞こえる。
『おとうさぁん、おかあさぁん、どこ?』
座り込んでべそべそと泣く黒髪の子供は、小さな肩を震わせていた。
誰かの声が聞こえる。泣いているだけでは駄目だと。その声に誘われるように、小さな手で涙を拭い、顔を上げる。―けれど子供の瞳は真っ赤な血の色に染まっていて、握りしめた手のひらも。
「おい、徳川!」
ぼんやりと、開けた視界に飛び込んできた強面の上司は、焦った様子で俺の顔を覗き込んでくる。
「あ、れ? 光秀?」
「はぁ……急にぶっ倒れたと思ったら魘されるしよ。ビビった」
倒れた? と首を傾げそうになり、直前の記憶が蘇る。
(俺は、俺は……光秀を)
震える手で顔を覆う。垣間見えた手のひらが、何の色にも染まっていないことに安堵しつつも、受け入れ難い現実に目の奥が熱くなる。
「今日はそんな忙しくもねぇだろ? 伊達川に言っといてやるから、オメェはちょっと休んでな」
力なく頷いた俺を受け、立ち上がった光秀のシャツの襟元から、ガーゼがちらりと見えた。
「ごめん、ごめ、ん……光秀。俺、っ」
堪えきれない涙がじわりと溢れ、視界がぼやける。俯き膝の上できつく手を握り締めていると、ポンポンとあやすように頭を叩かれた。
「大したことねぇよ。まぁ、ちょっとビビったけど……話は後で聞いてやっから、落ち着くまで休んでろ」
な? と子供に言い聞かせるように告げてくる。頭に置かれた手から伝わる、じんわりとした温かさに、ほんの少しだけ心が凪いだ気がした。
聞くと言われた手前、帰宅するわけにもいかず、光秀の仕事が終わるのを待った。何より光秀にきちんと謝罪をするために。
しばらくして、仮眠室にやってきた光秀の普段と変わらない様子に、再び涙がこみ上げてくる。あれほど忌み嫌っていた化物に、自分も成り下がってしまったこと。もう出ないという程に涙を流したというのに。
人に聞かれちゃ拙いだろと、誘導されるがままについて行くと、地下の小さな部屋に押し込まれた。診察室程度の広さで、机と簡素なベッドが置いてある。
(休憩室かなにかか?)
机に備え付けの椅子に、どかりと腰掛けた光秀に座るよう促され、仕方なくベッドへと腰を下ろす。
「その身体だ、ウチでの研究のことは知ってんだろ?」
静かに頷く俺に、そうかと短く返した光秀が、足を組みながら背もたれに体を預けた。地下には研究施設がずらりと並んでおり、ここはそのための休憩室らしい。
「……オメェ本物の吸血鬼なんだな」
「あぁ、そうだ」
「なるほどなァ、その美貌も頷けるわけだ」
「……は?」
「一般的に言うだろ、吸血鬼は美人が多いって」
「そうなのか?」
(美人って……俺みたいな男にその表現はおかしいだろ)
心の中で突っ込みつつも、何とも的外れな会話に気が抜ける。
「もしかして俺、吸血鬼になっちまうのか?」
「ならない。人を吸血鬼に出来るのは『純血種』だけだ。俺は元々人間だった」
「ほー」
「光秀は驚かないんだな。俺が吸血鬼だと知って」
「んにゃ、驚いたぜ? ウチで研究してることも知ってたけど、実物なんざ見たのは初めてだ。勿論血ィ吸われんのもな」
「俺が、怖くないのか? 気持ち悪く……」
唇を噛み締め俯く。続く言葉が喉につっかえて出てこなかった。怖い。気持ち悪い。それは自分の中にある、己への評価にも取れたから。負の感情に飲み込まれそうになったその時、頭上で短い溜息が聞こえると同時に鈍い痛みが走った。
「痛っ!」
「だぁれが怖いって? ピーピー泣いてるヤツが何言ってやがる」
「泣いてない!」
手刀を落とされた場所を押さえながら、その原因ともいうべき人物を仰ぎ見る。からかうような、意地の悪い表情でもしているのだろうと。
しかし目の前で俺を見下ろす男の瞳は、優しい色をしていた。
それはどことなく苦しげで―。そんな表情も一瞬で、ぐしゃりと髪を乱されたことで曖昧にかき消えた。
「徳川は徳川だろ。それ以外に何がある」
「……光秀」
ストンと胸に落ちてくる言葉に、嫌悪感は無い。
「それによ、徳川でラッキーだったぜ」
「俺で?」
「今河なんかに噛まれんの想像してみろ……そっちのほうがこえーだろ。全力で捩じ伏せてるっつーの」
「それは……失礼だろ」
「笑いながら言うオメーも同罪だ」
ひとしきり笑って、先程の澱んだ気持ちがスッキリしたことに気付く。思えばこういう風に、光秀とじっくり話をしたのは初めてのことだった。
(いや。苦手意識から、俺が避けていたのか)
若くして外科部長という地位にいる光秀は、職員からの信頼も厚く、慕われているのも頷ける。
「で、こっからが本題なんだが」
先程までの雰囲気から一転、視線が鋭くなる。仕事と真剣に向き合う時によく見る表情だ。
「吸血鬼ってことは、急に人を襲ったりしねぇのか? 事によっちゃ、それ相応の処分も視野に入れとかなきゃなんねぇ」
光秀の言うことは当然のこと。常に周囲に誰か居る状況の職場で、ましてや患者や血液に触れる機会の多い、最たる科に所属しているのだ。
「それは問題ない……と思う」
以前の自分なら問題ないと、ハッキリと言えた言葉。曖昧な返答をしてしまうのは、今回のことがあったから。
「俺は元々人間だった所為か、他人の血を受け付けないんだ。口に含もうとすると、吐き気を催して……無理なんだ」
「いや、でも俺の……」
「どうしてなのかは分からないけど、光秀のは、その、欲しくなって」
「……おう」
おかしな事を口走ったと口を噤むが、しっかりとその言葉は光秀に届いていたようで、耳が僅かに赤くなっている。再認識すると顔に熱が集まり、居たたまれなさが増していき、二人して赤面するという、何とも奇妙な光景が広がっていた。
「普段はタブレットを摂取すれば、貧血程度で済む」
「貧血程度ってなァ……ここんとこずっと顔色あんま良くなかっただろ? 伊達川も心配してたぞ」
「そうなのか……二人には余計な気苦労をかけてしまったな」
「別にンなこと思っちゃいねぇよ。可愛い可愛い部下ですし?」
「でも迷惑をかけた。本当にすまなかった」
目の前に座る光秀に向かって頭を垂れる。膝の上で握りしめた手が、小刻みに震えているのが見えた。
「しっかし血ィ吸われんのって、痛ぇんだな。よく言うじゃねぇか、吸血鬼に吸われたら気持ちいいとかって」
「それは俗説だろ」
「ん? 待てよ……徳川の体質からして、吸ったのって俺が初めてか?」
「わ、悪いか!」
そうは言ったものの、本能の赴くままに牙を立ててしまった気がする。光秀に指摘された通り初めてのことで、力の加減など知るはずもない。
「ほー……じゃあ、徳川の大事なハジメテ貰っちゃったわけだ」
「っ!! 変な言い方をするな!」
「そんで、今は体調大丈夫なのかよ?」
「何ともない。それにさっき三成の研究室で血液サンプルを手にしてみたが、拒絶反応は相変わらずで……」
「そうか。本当に俺にだけなんだな」
「そうみたいだ」
唇をなぞりながら、光秀が暫し考える素振りを見せる。
「石黒の研究室に入れるっつーことは、アイツもお前の事情知ってるんだな?」
「あぁ。三成から情報とタブレットを貰う代わりに、研究に必要なモノを提供している」
「取引みたいなもんか」
「そういう事になる」
「うし。吸血鬼に関しちゃ、あっちのほうが詳しいし、ちょっくら付き合えや」
「うわっ!」
腕を掴まれ引っ張り上げられる。そのままズルズルと引き摺られるようにして、三成の研究室まで連れて行かれたのだった。
「お二人とも今日は夜勤だったのでは?」
揃って研究室を訪れると、珍しい組み合わせに三成が目を瞬かせた。
「ちょっとオメェに訊きたいことがあってな」
「何です? 研究で忙しいので、手短にお願いします」
「徳川の事なんだが、コイツ吸血鬼だったんだな」
一瞬動きを止める三成だったが、光秀の鋭い視線に小さく息を吐くと、肯定の言葉を口にした。
「明紫波にバレてしまったのですね」
「あぁ、実は―」
事の転末を三成に説明する。それを一字一句聞き漏らすことの無いよう、三成が真剣な面持ちで相槌をうってきた。
「そんな事が……徳川は確か、他者の血液は受け付けませんでしたよね」
「そうだ。今もそれは変わっていないみたいだ」
「そうですか。しかし、よりによって明紫波なんかの血とは」
「あぁ!? なんかとは何だ!」
「そこなんだ……なんで光秀の血だったんだろう」
「オイ、徳川もさらっと流すなよ」
「うるさいですよ、明紫波」
三成の言葉に、光秀の眉間に深い皺が刻まれる。握り拳を震わせている光秀の様子を、気に留めることなく三成は話を進めていく。光秀が少しだけ不憫に思えたが、かと言って剣呑な空気というわけでも無い。きっとこんなやり取りは日常なのだろう。
「とりあえず少し調べてみたいので、採血させて頂けますか?」
「構わない」
手早く準備をし始める三成に、腕を差し出す。そんな俺たちを横目に光秀が口を開いた。
「石黒、過去に徳川に似た症例なんかはないのか?」
「いえ、聞いたことがありませんね。ただ、人間から吸血鬼になった者の中には、徳川のように、他者の血液を受け付けない症例はいくつかありました」
「そいつらはどうなったんだ?」
「血液錠剤もあまり出回っていない頃だったので、日に日に弱っていったようです」
眼鏡のブリッジを押し上げながら、三成が表情を僅かに曇らせる。光秀もまた、そうかと一言発しただけだった。
「とはいえ、未知の部分が多いことは確かです。外部からの影響で体質が変わっていく、なんてこともあるようなので、何か変化があればすぐに教えてください」
「わかった」
「外部からの影響って何だ?」
「恋、ですね」
「……こい」
「えぇ。それがもたらす心境の変化が、体にも現れるというんでしょうか」
「恋なんて、そんなもの……」
必要無いし、するつもりもない。第一こんな体なのだ。誰が愛してくれる?
「徳川クンみたいなお子様にはまだ早いってか?」
「うっ、うるさい! お前には関係ないだろ」
「ふざけていないで、話が終わったのなら出て行ってください」
「お、おう。また何かあったら頼むわ。俺もコイツのこと気にかけるようにすっから」
わしわしと乱暴に髪を混ぜる光秀の手を振り払う。
「余計なお世話だ!」
「あと出来ればですが、明紫波の血を分けて貰うことをお勧めします」
「光秀の?」
「ええ。あなたは血液錠剤だけでは貧血を起こすので、本来の吸血鬼の食事である、血液のほうがそれも改善するでしょう」
「……コイツから血吸われんの、滅茶苦茶痛ぇんだけど」
「それは知りませんよ。我慢してください」
「だってさ、徳川……優しくしてネ?」
「気持ち悪い声を出すな」
「鳥肌が立ちました」
「ひでぇなオイ」
あらかた話が終わり、光秀に続いて研究室から出ようと扉に手をかけた所で、背後から三成に声を掛けられた。
「徳川」
「なんだ?」
「人というのは何がきっかけで変わっていくか分かりません。そう悲観しないでください」
「人、か……俺をまだそう呼んでくれるんだな」
小さく呟いた言葉に、三成が訝しげに聞き返してくる。
「……何か?」
「いや……ありがとう」
それだけ告げて、そっと扉を閉めた。
「本当に何があるか分からないですね……徳川があんな表情で笑ったのは初めて見ましたよ」
三成はそう言って静かに目を閉じる。それはどこか、願い込めているようにも見えた。
あれから数日、俺は意図的に光秀を避けていた。理由は光秀を襲ってしまわないため。タブレットが効いている時はまだ良いが、見かけるたびに欲しくて堪らなくなるのだ。おまけに加減のできない今の状態では、また光秀に危害を加えてしまうのではないかと、怖くなった。
日が経てばそれだけ飢えは酷くなる。タブレットの摂取量ばかりが増えていき、残りもあと僅かとなった。三成にああ言われた手前、貰いに行くにも言い訳も見つからず、途方に暮れていた。
薄暗くなった廊下を、重い体を引きずりながら歩く。考え事をしながら歩いていたこともあり、背後から光秀に声を掛けられるまで、気付くことができなかった。
「徳川話がある」
「俺は無い」
距離を詰めてくる光秀に反するように、一歩ずつ後退する。煙草の匂いに混じって僅かに鼻腔を掠めるのは、あの日と同じ芳しい血液の香りで。思わず手が伸びそうになるのを我慢して、くるりと方向転換し走り出した。
「逃げんな」
しかし体力もない俺は、あっさり捕えられてしまった。
「離せ!」
それでもどうにかして光秀の手から逃れようともがいていると、ふわりと体が宙に浮き上がる。痺れを切らした光秀に、肩に担ぎ上げられてしまったのだ。急激な体勢の変化に、視界がぐるりと回転する。意識が遠のく中、光秀の溜息が聞こえた。それは呆れにも安堵にも取れるものだった。
目が覚めるとそこは薄暗い室内で、地下の休憩室だと気付く。こんな体になって、夜目が効くことを改めて感じ、何とも複雑な気持ちになった。
「目ェ覚めたか。気分はどうだ」
暗闇の中から低い声が聞こえてくる。声の主は気を失う前に俺を捕らえた人物しか考えられなかった。机にもたれながら、こちらを見下ろしてくる光秀は、悪びれる様子もない。
「最悪だ」
「ハッ、そうかよ」
コツと静かな室内に靴音が響く。にじり寄る姿は威圧感を放っており、じりじりと追い詰められて息苦しささえ感じた。
「何で俺を避けてたのか聞かせてもらおうか?」
「光秀が怖かったから」
「適当なこと言ってんじゃねぇ」
端正な顔が目の前に迫り来る。
逸らすこともままならず、絡み合う視線の先、光秀の瞳に映る赤にひゅっと息を呑む。血のように赤く光るそれは、吸血鬼の証とでも言うのか。血を欲する時に、必ずと言っていいほど発現するものだった。
「怖かった……から」
震える唇を動かした。
「お前を傷付けるのが……怖かったから」
やっとのことで紡いだ言葉はひどく掠れていて、今にもかき消えてしまいそうだった。制御できない感情が、胸中に渦巻く。
「んだ……そんなことかよ」
「そんな事って、これでも我慢して、でも怖くて……」
「何かあったんじゃねぇかって心配した」
安心したように光秀が短く息を吐く。途端、忘れかけていた衝動が襲ってきたのを感じ、距離を取ろうと慌てて腕を突っ張った。
「光秀、退いてくれ」
「なんで」
「何でって……その、辛いから」
「俺の血、吸えば良いじゃねぇか」
「さっきの話聞いてたか? 傷付けたくないんだ。お前の血を吸う気はない。それにタブレットで何とかなる」
「嘘つけ。現にぶっ倒れたじゃねぇか」
「あれは、タブレットを飲み忘れただけで」
「目ェ泳いでっけど?」
「……本当に大丈夫だから」
言い返す気力もなく、力なく光秀の胸元を押し返す。
「……そんなに飲みたくねぇのか」
「あぁ」
光秀を見て思考が停止した。口元を歪ませ笑ってはいるが、目は冷え冷えとしていて、ちっとも笑っていない。今までに見たこともない、冷たい表情に背筋が粟立つ。
「じゃあ、無理にでも飲んでもらうしかねぇな」
反論しようと開いた口を塞がれたことによって、声は光秀の口内に吸い込まれた。噛み付くようなそれは、口付けと到底呼べるものではなく、無遠慮に舌が口内を荒らす。
「んんっ、ぅ、ん」
息苦しさから光秀の胸元を叩くも、びくともしない。絡みつく舌で吸い上げられ、甘い痺れにも似たものが背筋を駆け上がる。体験したことの無い感覚に恐怖し、思わず光秀の唇に歯を立てていた。
途端に広がる甘美なもの。
もっと味わいたい吸い尽くしてしまいたいと、そう脳内に直接訴えてくる。光秀の切れた唇を舐めたところで、小さな呻きが聞こえた。我に返り慌てて体を押し退けた先に見たものは、唇から血を滴らせて、顔をしかめる光秀の姿だった。
「やっぱ血が欲しいんじゃねぇか」
「違う」
再度唇を寄せてくる光秀を避けるように、顔を背けようとした。しかし素早く顎を掴まれ、形ばかりの抵抗は失敗に終わった。先程より荒々しく動き回る舌に翻弄され、流し込まれる唾液さえ甘く感じてしまう。
血を貰う側のはずなのに、捕食されているような感覚に陥る。恐怖なのか快楽なのか、混乱した頭では正常な判断ができるわけも無く、あらん限りの力で暴れるのが精一杯だった。
「嫌だ! ッ、離せ!」
叫びにも似た声で拒否の意を示す。舌打ちをした光秀に、腕をきつく拘束されるが、負けじと睨み返した。しばらく両者とも動かないでいたが、光秀がふと笑みの種類を変える。愉しそうに口角を上げながら。
「そうだなァ、何も『血』に拘る必要はねぇよな。オメェも分かんだろ? 血液に似た成分が、他にあるって」
光秀の言わんとすることを理解し、サッと頬を赤らめる。
「な、なっ……」
「お? 分かったみてぇだな」
「何考えてるんだ!」
背筋に嫌な汗が伝う。もし、もしそうだとしたら、この状態は非常に拙いのではないかと。光秀に乗り上げられ、拘束された俺の体力はほぼゼロに近く、逃げるのも危うい。
「何って、ちゃんと言ったほうがいいか? ココから俺の飲ませてやるって」
持ち上げた足をそのままに、光秀が衣服越しに奥をトントンと指で示してくる。本能的に恐怖を感じ、シーツを蹴ってずり上がるも、すぐさま引きずり戻された。
「ぁ……や、やだ」
「あっちも嫌、こっちも嫌」
「光秀頼む……止めてくれ」
「オメェも贅沢なヤツだな」
ベッドの軋む音がやけに大きく聞こえる。懇願するも、何も映していないような瞳が見下ろしてくるばかり。歪につり上がる光秀の口元を見て、心の中を恐怖の感情が支配していく。
見つめてくる瞳の色は同じなのに、あの日この場所で見た優しさとはかけ離れ、獲物を狙う獰猛な獣のような鋭さを孕んでいた。きっとどっちの光秀も彼の一部。それを呼び起こしてしまったことを後悔するも、今更どうすることもできない。ただ捕食されるのを待つだけ。
そうして俺は諦めたように目を閉じたのだった。
青みがかった黒の髪を、光秀の指が愛おしそうに梳く。ぎゅうと目を閉じた俺は、そんな光秀の仕草に気付くはずもない。
『ごめんな』
光秀は苦しそうに眉を寄せ、声には出さずに、唇だけでその想いを告げた。
行為を終えてもなお、痛む体を丸めたまま涙を堪える。初めて受け入れた場所だ、気持ち良くなれるはずもない。痛いと呻く俺をよそに好き勝手揺さぶった挙句、どういうわけか一度だけではなく、二度三度と付き合わされる羽目になった。
お陰様というべきか、光秀の予想通り貧血は改善されたが、腰と喉と、あと人には到底言えないような場所がじくじくと痛む。指一本動かすのも億劫だが、きっとこれは無体を強いられたせいだ。
「体調はどうだ?」
そう言いながら、光秀が髪に触れてくる。当然ながらその手を払い除けた。背を向け拒絶の態度を取る俺の姿に、苦笑する声が聞こえてきた。
怒って良いはずなのに、罵って良いはずなのに、最中に何度も見た苦しそうな表情が頭から離れない。今にも泣き出しそうな表情をしていた光秀が。
(泣きたいのはこっちのほうだ)
「俺は謝らねぇぞ。意地張ってぶっ倒れられても困るしよ。血を吸うのを拒否するってんなら、今後もこっちでやらせてもらうからな」
「……どっちもお断りだ」
「じゃあ、好きにやらせてもらうな」
「人の話を聞け! ッ、ぅ!」
反射的に振り返ろうとすると、酷使された体が悲鳴をあげる。僅かに表情を曇らせた光秀だったが、すぐに取り繕うように俺の下肢へと手を伸ばしてきた。
「ん、ぁ……やめっ!」
奥の窄まりを指でなぞられ、数度にわたる行為が脳裏を過り身を固くする。
「掻き出してやるだけだから大人しくしてろ」
「や、あっ!」
ぐちゅりと音を立てながら光秀の指が入ってきた。先程まで剛直を受け入れていたそこは、指一本など簡単に飲み込んでいく。一本また一本と増やされ、光秀の放ったものがトロトロと溢れてきて、耐え難い羞恥に唇を噛み締めた。
「噛むなっての」
もう片方の手で唇を無理矢理こじ開けられ、歯型の付いたそこをやんわりと撫でられた。
「噛むんなら俺の指にでもしとけ」
「んふぅ、ん……っぁ」
ふるふると首を振ると苦笑交じりに「強情なヤツ」と、再び唇をひと撫でして離れていく。
(あんなことをしておいて、そんな態度を取るな!)
獰猛な瞳はなりを潜め、今はまた優しい色で見つめてくる。軋む心を抱えたまま、俺は光秀にただ体を委ねるしかなかった。
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