別々の高校に進学した俺たちはそれでもなんとなく連絡を取り続けて、おすすめの本を貸し借りしたり感想を言い合ったりするために会うことも多かった。
 改めて二人きりで出かけるということは、なかった。
 そういうことをすると却って意識しているような気がして。なんだか無理やり男と女になっていくような感覚が(多分互いに)どうも馴染めず、俺たちはガキの頃よくブランコでどれだけ高いとこまで漕げるかだの何回転連続で回れるかだの競い合った公園の、藤棚の下で会い続けた。

「理世?」

 と、そう声をかけられたのは高校二年の……


 あの大規模侵攻の、確か二週間前とか、そんな。


「お父さん。あれっ、もうそんな時間?」
「何してるんだ、こんなとこで」

 近付いてきた理世の父親は、慌てて携帯で時間を確認する俺たちを見較べ、「彼氏?」と訊ねた。違う、洸だよ洸、と否定した理世に「ああ、いつも小説借りてる子か」納得したようにうなずく。
 携帯を開くともう八時半を過ぎていた。
 晩飯を済ませた理世と公園で合流したのが七時過ぎだった。いつもは八時くらいで自然と解散になるのだが、今日はトリックの話で盛り上がってしまったのだ。

「いつも理世がお世話になっています」
「え、イヤこちらこそ……」

 正直こんな遅くまで娘を外に引き留める男というポジションである自覚はあったので、ややビクビクしながら会釈を返す。
 しかし理世の父親はネクタイに指を引っ掛けて緩めると、スーツの内ポケットから煙草とライターを取り出した。「吸っていい?」「あ、ハイ」ここのベンチは喫煙所でもあるので灰皿が設置されている。

「洸くん趣味が格好いいよなぁ。ぼくが高校生の頃なんてマンガしか読んでなかったよ」
「そうなんすか。意外です」
「大人になってからだよ、推理小説が読めるようになったの」

 理世はたまに「これお父さんの本棚にあったやつ」とめちゃくちゃいかつい本格派を持ってきたりするので、てっきり読書家なのだと思い込んでいた。
 理世の父親は腕を伸ばして、灰皿に煙草の灰を落としながら、口の端から紫煙を吐き出した。

「読書や勉強が楽しくなるのはさ、大人になって、『やり方』が解ってからなんだよ」
「やり方、ですか」
「そう。今、洸くんや理世は『やり方』を勉強して『考え方』の訓練をしてるとこ。生きていくために、人と関わるために、人生を豊かにするために必要なことなんだけど、まあ子どものうちって楽しくないんだよなぁ」

 数学きらい、数Bわかんない、と理世が愚痴をこぼした。「高校数学の教員の前でなんてこと言うんだ」と父親が苦笑する。

「まあ、二人とも、早く大人になんなさい。子どもの頃と同じくらい楽しいから」


祈らずとも朝日はやさしい、よん



 理世の父親の遺影写真は、その年度初めに撮影された高校の職員写真を使ったらしい。
 理世の父親は部活指導のために出勤していて、同じく部活動に登校していた生徒たちを逃がして、逃がして、庇ってそして死んだそうだ。
 近所の葬儀会館で営まれた通夜に制服姿で参列した俺は、夢でも見ているような心地でホールの椅子に座っていた。大規模侵攻の翌日に理世の父親の遺体は発見され、三日後には自宅に戻ってきたが、市内の葬儀屋や斎場がフル稼働でも追いつかなくて通夜を行えたのは五日後になった。
 通夜が終わって帰ろうとした俺を追いかけてきた理世は、無理に口角を上げて「来てくれてありがと」なんて笑った。


 笑うな。
 ……笑うんじゃねぇよ。


 呼吸が苦しくなったのを誤魔化すように、俺は理世の手を握った。多分、初めてだった。途端に理世はくしゃりと顔を歪めて、ぼろぼろ涙を零しながらうつむく。
 見ていられなくなって、抱き寄せようとして、でも体が動かなかった。
 俺は爪先に落ちる水滴のあとをじっと見下ろしていた。

「お母さんが、三門を出て、おばあちゃんちに行こうって」
「……そうか、」

 あまり大袈裟な反応にならないよう相槌を打つので精いっぱいだった。
 実際俺の周囲でも三門を出ることになったやつは大勢いる。東三門から通っていた生徒のなかには、死亡が確認されたもの行方不明のもの家族が亡くなったもの家が全壊したものが、けっこういる。あの休日の朝から始まった最悪の悪夢は、俺たちの世界を前と後とですっかり変えてしまったのだった。

 当たり前の話だけど「行くなよ」とか作り話めいたセリフを吐けるわけもなく、吐く資格があるわけもなく、俺はただすすり泣く理世の手を強く握りしめる。

「しっかりしなきゃ……」
「…………」

 ガキでしかなかった俺にはかける言葉も見つからなかった。
 そのとき、どんな言葉も無責任で、無礼で、無力だった。

 たった二週間前に、俺や理世に煙がかからないよう口の端から器用に紫煙を吐き出した大人が、明日にはもう燃えて骨になる。理世と、おばさんと、自分が救った多くの生徒をこの世に遺して。
 最期にその目に見えたものは一体なんだったのだろう。



 かつてあの人が語った『大人』という存在は、ボーダーで給料をもらい始めて大学生になって酒も煙草も麻雀も覚えてそれなりに『子ども』じゃなくなった今でも、近付けているような気がしない。



▲ ▶ ▼ ◀




 よく死ぬ間際に走馬灯が流れるとかいう話があるが、今回特に脳裡を過ぎる記憶もなかったので、案外デマなんじゃなかろうか。
 第二次大規模侵攻とのちに呼ばれる近界民襲来の際、二足歩行のウサギみたいな新型トリオン兵(あとあと聞いたが『ラービット』というらしい)に喰われたのだが、気がついたらもう技術開発部の寝台の上に寝ていた。「起きたとこ悪いけど人型近界民が襲撃してきてるから」と、あんまり焦った感じじゃない寺島にそう言われて諏訪隊+αは即座に出動、なんやかんやあって無力化。
 門の反応が消えて人型近界民たちの撤退を確認、トリオン兵の全機沈黙を確認したあとも手空きの隊員は本部待機を命じられていた。

 日が暮れ、各地で救助活動にあたっていた隊員たちが一旦本部に戻ったり帰宅したりしはじめる。未成年組は優先的に帰して、大学生組や本部住み組は引き続き本部待機だ。
 さすがに腹が減ったので食堂に向かうと、風間やら東さんやら馴染みの面子と顔を合わせた。

「聞いたぞ。本部で人型近界民とやり合ったんだって?」
「ほとんど本部長がやったようなモンすけど。東さんは旧三門市立大でやったんでしたっけ」
「ああ。A級組がうまくやってくれたよ」

 食事がてらそれぞれ現場での出来事の情報交換をしていると、マナーモードにしていたスマホがポケットのなかで震える。
 着信画面を見て思わず声が洩れた。

「……ア?」

 理世だ。
 理世から電話がかかってくるなんてもしかしたら初めてかもしれない。
 一瞬呆けたが、まさか今回の襲撃で何か巻き込まれたのかもしれないと気付いて血の気が引いた。よせばいいのにその場ですぐ出てしまう。「理世?」と丁寧に呼び掛けてしまったので、風間も堤も東さんも一斉にこっちを見た。見んな。

『……洸?』
「おう、なんだ何かあったのか」
『いま、電話しても大丈夫? ボーダーにいるでしょ。あの、なんか、仕事とかだったら』
「いや今落ち着いてる。どうした」

 場所を替えようとしたのだが風間に両手でガッチリ拘束されてしまった。
 なんやかんやでボーダーの顔見知りが増えてしまった理世である。一度諏訪隊で出かけたときにばったり出くわしたこともあるので、堤まで「何かあったんですか」と眉を寄せた。

『ううん、無事ならいいんだけど。昼間、大変だったでしょ、諏訪も……戦ったのかと思って』

 理世の親父さんは最初の大規模侵攻で亡くなっている。
 しまった、と思わず顔が歪んだ。電話の向こうの声は落ち着いているが実際かなり心配かけたはずだ。今回は若干危なかった部分もあるのでやたらと後ろめたい。

『ほんとは、不安で、すぐ電話したかったけど、邪魔したらどうしようかと思って……』
「あ〜〜〜まあ昼は電話出れなかったと思うけどよ、今はもう本部待機中ってだけだ。明日には顔見に行くわ。おまえ今日大学にいたろ?」
『ううん、今日バイトだったの。近界民が警戒ラインを越えてきて、お店はずっと有線流れてたから気付くのが遅れちゃって。慌てて逃げだしたんだけど、店長がへんなカメムシみたいなのに食べられそうになって』
「ハアアア!? おい待て待て待て近界民に捕まったのか!?」
「どういうことだ」
「理世さんが!?」

 風間と堤がガタガタ立ち上がった。

『違う違う、わたしは平気、擦り傷くらい。店長が食べられそうになったとこをボーダーの人に助けてもらったんだけど、その拍子に落っこちて骨折しちゃったの。それで今、付き添いで病院にいる』
「……そうか、──理世のバイト先の店長が怪我していま病院にいるらしい」
『誰かといるの?』
「いま風間とか堤とかとメシ食ってんだよ」
『そっか、ご飯食べる時間とれてるんだ、よかった……』

 理世はもう一度『よかった、』とつぶやき、電話の向こうですすり泣きはじめた。

 おい、
 ……泣くなよ。

 でも多分、襲われるほどの至近距離まで近界民が迫ってきたのだから理世には相当に恐ろしかったはずだ。泣くなというほうが無茶なのだ。
 しずかな嗚咽を耳元で聴きながら、あ〜本部長に言ったら帰してくれっかな〜などと頭のなかで段取りをはじめる。
 なんというか俺は別に理世の彼氏とかではないのだが、理世は三門にひとりで戻ってきたので当然家族は県外だし、一番近しい間柄というと俺だろうし、というか理世がひとりで泣いてんの想像するとちょっと心臓が痛いというか、据わりが悪いというか。

『……ごめん、よし、もう大丈夫』
「大丈夫じゃねーだろ、今からそっち行く」
『いい、平気。洸は洸の務めを果たしてください』

 平気っつったって、荷物を持って逃げる余裕があったようには思えないから財布や家の鍵は恐らく店の瓦礫の下だろうし、何より不安で電話をかけてきた相手にハイそーですかって切れるわけがない。

『今夜は友だちの家に泊まって、明日にでもお店に行ってみる。わたしと店長の荷物も探さなきゃ』
「だぁぁぁうるせえうるせえもう喋んな一歩もそこから動くんじゃねえぞ、おまえがなんと言っても今すぐそっちに行くからな!!」
『ちょっと洸……』

 切った。
 風間と東さんが「よく言った諏訪」となぜか拍手してきた。風間と堤の頭を叩いておいた。

 本部長のとこに乗り込んで「一時間で戻るんで」と大見得切った俺は玉狛支部に寄って、レイジの車を借りた。そのまま三門市立総合病院に向かう。昼間の襲撃による患者が多く搬送された影響もあってか病院内はまだざわついていた。
 救急に近い廊下のベンチにぽつんと座っている理世を見つけて、隣にどかりと腰を下ろす。

「よお、」
「ごめん。迷惑かけて」

 迷惑とかいう発想がなかったので呆気に取られたが、わりと思い込んだら一直線なきらいのある面倒なやつなので、「気にすんな」とだけ返した。
 擦り傷くらいと言っていたが、理世のスカートの下から覗く右脚は包帯で覆われていた。
 それから掌には絆創膏。

「店長、どんなだって」
「他の重傷者の治療で手一杯で、まだ救急のベッドの上。ちゃんとした検査もまだ。でも多分、腕か肩の骨が折れてるから、緊急入院で近いうち手術になるだろうって」
「身内どっかいるんだろ?」
「うん。でも連絡先がわからないの。店長の携帯、お店に置いてきちゃったから……」

 店長の携帯、及び理世のカバンの中の財布や家の鍵やコートも全て瓦礫の下というわけだ。
 病院内だから寒いということはないだろうが、理世の服装は長袖のシャツにスカートという軽装だったので、とりあえずジャケットを脱いで肩に着せておく。
 身を守るようにジャケットを握りしめた姿を見て、なんだか心臓の裏側を引っ掻かれたような心地になった。
 ……もっと早く来てやればよかった。

「車で来たから一応どこでも送れる。俺んちでもいい。どうする?」
「どう、って……」
「店長につきたかったらついとけばいいけどよ。とりあえずこれ俺んちの鍵で、現金も貸しとくから帰ろうと思ったらタクシーで帰って適当に休め」

 と財布の中身を渡したところで、スマホ決済できるか、と思い至った。まあでも多めに持っといて損はないだろう。

「それか、泊めてくれそうなやつの当てがあんならそこまで送る。悪いけど一時間で本部に帰るって言っちまったから、早めに、俺が安心できるとこに落ち着いてくれ」

 理世はぼんやりと俺が手渡した鍵と札を見下ろし、それからこちらを見上げた。いつもより反応が鈍い気がする。電話ではそうでもなかったけど疲れてんだろう。俺の家って答えろや、と念じながら睨むように見下ろしていると、やがて小さく「洸んち、」と項垂れた。よし。
 いや俺の家も警戒区域付近っちゃ付近だから安全かというと微妙だけど。ちょっとこの状態の理世を、(俺が)よく知らんやつのとこに置いていくのは気が引ける。

 看護師に声をかけて店長のベッドを訪れた。
 店長は銀髪の似合う矍鑠としたじいさんだ。俺も何度か顔を合わせている。服の上からはどこが負傷箇所かよく判らないが、左肩を下にして右腕を支えている店長は脂汗を浮かべている。

「おや諏訪くん。井實さんのお迎えかな」
「ハイ。とりあえず一旦俺の家に連れ戻します。俺は明日の朝から待機が交代になるはずなんで、したら理世と一緒に店の様子見に行きますね」
「悪いね。井實さんのこと頼むよ、怖い思いさせちゃったから」
「はい」

 いつも通り涼やかな口調だったが、寝たまま体を起こさないところを見ても相当痛いに違いない。店長は理世に対して店の半壊を他のバイトに伝えること、しばらく臨時休業になること、給料の支払いも遅れてゴメンねと言づけて、「気を付けて帰るんだよ」と笑った。気丈な人だ。
 病院を出て車に乗り込み、途中のコンビニで必要なものを適当に買ってからアパートに戻る。理世も一応うちに来るのは初めてではないので(といっても大抵の場合は俺が行くから、二回目とか三回目とかそんなもんだ)、改めて説明することもない。
 時間が迫っていた。

「理世」

 ベッドの端っこに所在なさげに座る理世に、昨日洗ったばっかのスウェットを渡す。

「俺ァもう戻る。すぐに鍵かけて、服着替えて、そのまま寝ろ。シャワー浴びてもいいけど治療したとこ気ィつけろよ」
「あ、……うん」
「腹減ったらなんか適当に食え。でも外には出るな、危ねぇから。あと何かあったら、なくても別にいいけど、夜中でも構わねぇからすぐ電話しろ。どうせ今夜は起きてる」
「うん」
「明日の朝になったら多分戻ってくるから、そしたら店に一緒に行って、荷物捜す。そのあとで病院行って、店長のこと聞いて。入院するなら服とか色々いるだろうし、そういうのの調達も全部ちゃんと最後までつきあうから」
「うん……、」

 ここで理世はぼろぼろ泣きはじめた。
 あー、と俺が頭を掻いたら「ごめん、泣いてない」と一生懸命手の甲で涙を拭う。自分が泣いたら俺が出づらいって解ってるんだろう。

「全部、ちゃんと、最後までつきあうから。一人で気張るな。いいな」
「うん」

 理世は最後まで理世だった。死ぬほど怖いだろうし心細いだろうけど、行ってほしくないとか一人になりたくないとかそういう弱音は欠片も零さなかった。「いってらっしゃい」と玄関先で見送る姿を見て、むしろ俺のほうが行きたくねぇなと思わされたくらいだった。
 四年半前のあの日、自分の無力を呪った。
 ボーダーに入ったのは必然だった。あの大災害を前にした俺にできることなど、そう多くなかった。原因の追究や二度と起きないようにすることが俺にはできない。ならば二度目があったときせめて最前線で動けるようになるべきだと、そう考えた。あんな思いはもう懲り懲りだ。

 二度目が起き、最前線で三門を守ることができるようになった代わりに、大事なときに一番傍にいてやりたいやつの傍にいてやれない。
 俺が選んだのはそういう道だと今、ようやく思い知った。
 それでも今更別の道は選べない。

 アパートの下に停めていた車に乗り込み、ハンドルに腕をかけて項垂れる。
 さっき理世にかけた言葉の一つひとつは、あの通夜の日、泣いている彼女の手を握りながら言ってやりたかったことなのだと気付いた。


 最後まで一緒にいるから一人で頑張るなって、あのとき、本当は言ってやりたかったんだ。
 そうするにはあまりにもガキだったわけだけど。



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