諏訪は夜中に一度、電話をかけてきた。
『起きてたのか』という問いにすこしうとうとしてたと答えると、『起こして悪い』と声を潜める。電話の向こうはとても静かで、いまどこにいるのと訊ねたら、『作戦室で堤が寝てっから、廊下』と答えてくれた。
 チームの瑠衣ちゃんと日佐人くんは、早めに家に帰したそうだ。夜を徹して本部にいるのは諏訪をはじめとする大学生以上のメンバーや、本部に住まいを持つ隊員たち。

 当たり前だけど、……本当に当たり前のことだけれど、三門市や市民を守る防衛組織の隊員であるみんなは多くがまだ中高生で、一人ひとりには家族がいて、友人がいる。
 有事の際には出動して近界民と戦うのが仕事、そのために入隊し、お給料も出ているといえど、帰りを待つほうは堪ったものではないだろうな。

「みんな怪我してない? ニュースで、ボーダーの本部職員に死傷者が出たって……」
『そんなテンション下がりそうなニュース見んなよ。隊員に負傷者は……あー、一人入院したけど、大体みんな無事だ』
「そうなんだ……」
『もう寝ろ。まさか床に寝転がってねぇだろうな?』
「ベッド、借りてる」
『おし』

 なんだかよくわからないけど満足そうな諏訪の声がおかしくて、笑いが零れた。


祈らずとも朝日はやさしい、ご



 扉が開く気配がして目を覚ますと、諏訪が「おう」と声をかけてきた。ただいま、とどこか照れくさそうな顔でつぶやくので、おかえり、と返す。髪の毛がぺたっとなっていたから、本部でシャワーを浴びてきたのだろう。
 帰り道にコンビニで買い物をしてきたのか、手にはレジ袋がある。
 差し出された袋の中身を見てみると、わたしが好きでよく飲むコーヒー牛乳や、惣菜パンや、菓子パンが入っていた。好きなの食っとけと言いながら諏訪は着替えを持って脱衣所へ引っ込んでいく。

「悪り、ちょっと仮眠取らせてくれ」
「うん。あの、洸も疲れたでしょ、やっぱりわたし一人で……」
「九時になったら起こせ。一人で出てったら絞め落すからな」

 物騒……。
 わたしと入れ替わりでベッドに入った諏訪は「あーあったけ」と零してスコンと寝入ってしまった。
 起こさないようにと考えるとテレビをつけるわけにもいかない。ベッドに凭れるような体勢で諏訪の買ってきてくれた朝ごはんを食べた。

 諏訪は壁のほうを向いて静かに寝息を立てている。
 一定の間隔で上下する肩をじっと見つめた。諏訪は、生きていて、帰ってきた。柩のなかで花に埋もれた父とは違う。諏訪は息をしている。不甲斐ないわたしは眦に涙を滲ませて、諏訪の背中にそっと額を摺り寄せた。
 腑抜けたわたしを抱え込んでもびくともしない、大樹のような安心感が好きだ。

 カーテンの隙間から朝陽が射しこむ。
 諏訪や、諏訪を通して知り合った風間くんや、木崎くんや、寺島くん、堤くん、瑠衣ちゃん、日佐人くんや……多くのボーダー隊員たちが命懸けで守ってくれた当たり前の朝が、今日も明ける。
 ボーダー関係者にも一般市民にも被害は出ていた。
 それでもわたし自身には喪ったものが何もない。その幸福がとんでもない罪悪のように思える。




 九時ぴったりに起きた諏訪と一緒にバイト先を訪れると、昨日のうちに連絡を入れておいたから、バイト仲間が勢揃いで店の片付けに集まっていた。家の近い常連さんも何人か、様子を見に来てくれている。店長が入院することやしばらく休業となることを伝えておいた。
 わたしと店長のカバンは比較的すぐに発掘できた。
 店のことは柴田くんたちバイト仲間に任せて、次は病院へ向かう。店長は昨夜遅くに処置を受け、朝早く一般病棟に移っていた。やはり左腕を骨折していたらしい。
 取り急ぎ必要になりそうな日用品を買いに行っているあいだに親戚の方に連絡がついて、追って三門に駆けつけてくださることになったそうだ。

 色んなことが、どうにか、ちゃんと済んだ。
 諏訪はずっと隣にいてくれた。
 昨日のお昼に出動して、そのあとも本部に待機して、二時間しか仮眠もとらずに、くたびれて眠たいだろうに。せめて何かお礼をしたいけれど諏訪は物品なんて受け取ってくれないだろうし、どうしたらいいだろう。
 そんなことを考えながらわたしのアパートへの帰路を辿っていると(遠慮したけれど、諏訪は家まで送ると譲ってくれなかった)、諏訪は「あー」と空を見上げてつぶやく。

「なに?」
「疲れた。コーヒー。飲みてぇ」
「飲んでく?」

 諏訪はこっくりうなずいた。珍しいな。どれほど頻繁にわたしの住まいに出入りしても、あくまで客人の態度を貫いてきた諏訪が、コーヒーを飲みたいという理由でうちに上がろうとするなんて。
 言うまでもなく気を遣ってくれているのだ。
 まだ一人になりたくない心を見透かされている。

 瓦礫のなかから発掘したカバンを開いて、家の鍵を取り出した。
 わたしの後ろについて玄関で靴を脱ぐ諏訪を振り返り、ちょっと笑う。

「ぁんだよ」
「おかえり」
「……おー。ただいま帰りましたよっと」

 一日ぶりに帰宅したアパートの部屋は、当たり前だけど昨日と何も変わっていなかった。
 気の遠くなるような夜を過ごしたような気がしていたけれど、実際は一晩しか経っていないのだから当然だ。むしろ大変なのはこれから先。店長の手術とリハビリ、それにお店の再建も。
 キッチンに立ち、鉄瓶に水を入れてコンロにかける。諏訪はいつものように床に腰を下ろして、スマホでどこかへ連絡を取っていた。
 冬の陽がすでに沈もうとしている。
 赤く染まる部屋に佇む諏訪の横顔は逆光でよく見えない。それでも、部屋に誰かの気配があるというのは思いのほか心強かった。この程度で落ち込むな、知り合いは誰も死んでいないのだから、こうなる可能性は解っていて三門に戻ってきたのだから、ボーダー隊員の友人ならしっかりしろ、何度も何度も心のなかで自分を叱咤しながらもやはりどこかで怯えていた。情けない。

 あの四年半前の未曽有の大災害の日、わたしたちは誰もが等しく被災者だった。
 三門市民は圧倒的に未知の敵を前に、自分たちの知り得る限りの力で逃げ惑い、どうにか命を繋ぐことしかできなかった。はじまりはみんな同じだったはずなのに、どうして今、諏訪とわたしの間にはこんなにも大きな隔たりがあるのだろう。

「理世? どうした」

 諏訪の声はやさしかった。
 意図してそうしているのだと解る、慈雨のような声だった。
 わたしがキッチンに立ったまま大きく肩を揺らすと、諏訪はオイと狼狽しながら駆け寄ってくる。一度自分の情けなさに気付いてしまったらもう駄目だった。なんともなかったんだから泣くのは最後にしようって、諏訪が困るだけだからって、昨日の夜に決めたのに。

「ごめ、……」
「……あァ、擦んな擦んな。タオル持ってくる」

 ぽんとわたしの頭を叩いた諏訪が洗面所へと向かう。ややあって持ってきたタオルをわたしの顔に押しつけると、フ、と口の端を歪めた。幼い子どもかを宥めるような笑み。
 ああ、と閉じた眼の端から涙が零れてゆく。
 諏訪がいてくれてよかったな。
 いつもいつも……助けてもらってばっかりだ。

 わたしの呼吸が落ち着くと、諏訪は何もなかったかのようにまたいつもの場所へ腰を下ろした。
 一昨日の夜わたしが寝る前に読んでいた本を枕元から引っ張って、ぱらぱらと眺めている。
 そしてわたしがコーヒーを淹れ始めた頃、おもむろに誰かと電話をはじめた。口調の素っ気ない感じからして風間くんか木崎くんあたりだろう。「おう」「理世はたいしたことねぇって」「あーいま理世んち」と、内容は主にわたしのことらしかった。
 昨晩、諏訪には本部を抜けてまで駆けつけてもらって、きっと彼らにも負担をかけたに違いない。申し訳ない気持ちでいっぱいになりつつ諏訪のもとまで歩み寄り、コーヒーを差し出すと、何もかも承知しているとでもいう風な表情で彼はわたしの頭を雑に撫でるのだった。

「明日行くわ」と電話を切った諏訪がスマホをぽいっと放り投げる。
 室内に暗さを感じたのか、そばにあったテーブルランプをかちりと点けた。
 橙色のやわらかい光が諏訪の影かたちを切り取る。

 隣に座ってカップに息を吹きかけると、視界が湯気で白く染まった。

「電話、風間くん?」
「ああ。……昨日あいつらも心配してたわ」
「そっか。なんか、大騒ぎしちゃって申し訳ない。今度なにかお礼しようかな」
「なんでだよ。勝手に心配させてりゃいいんだ、ああいうのは」

 そういうわけにも……と思うのだけれど、諏訪は前々からわたしとボーダー関係者が知り合うのを避けていたようだから、あまりしつこくするのもいけないなと口を閉じる。一回生の秋ごろに初めてボーダー関係者の太刀川くんに話しかけられたとき、ものすごく嫌そうな顔をしていたから。
 諏訪は静かにコーヒーに口をつけた。
 喉仏の上下するのを、なんとなく眺める。

「……あー、うま。帰ってきたって感じすんなぁ」

 俺の家じゃねーけど、と付け足した諏訪がおかしかった。諏訪にとってこの場所が、たとえばわたしの存在やこのコーヒーの味が、帰る意味を持つのだとしたらそれはとても尊いことだ。

「明日またボーダーに行くんだね」
「しばらくは詰めることになるだろうな」
「忙しいのに、色々つきあってくれてありがとう」

「いーんだよ、俺がやりたかったことだ」諏訪はコーヒーを飲み干して、それから背後のベッドに背を凭れる。「前は何もできなかったからな」
 一度首を傾げてから、「前」というのが言葉通り、前回の大規模侵攻を指すのだと気がついた。

 何もできなかったというのがどういうことなのか、わたしには解らない。
 諏訪は父の通夜に来てくれ、途方に暮れて泣くわたしの傍にずっと居てくれ、引っ越しの日にも差し入れをくれ、離れたところに住んでいるあいだもずっと友人でいてくれた。そんな彼が何もできなかったというのなら、わたしなんて生きていけない……生きていく資格もない。

「そんなことないよ」
「そんなことあんだよ」
「だって諏訪はずっといてくれたよ」

 それがどんなに心強いことか、きっと根っから素直で強い諏訪にはわからないのだ。
 あなたの在り方がどれほど尊いことで、どれほど誰かの支えとなっているか。

 諏訪は納得いかなそうな顔で黙り込んだあと、「理世」と指先でわたしを呼び寄せた。カップをテーブルに置いて、膝でにじり寄る。
 その途中で、片手を伸ばした諏訪に抱き寄せられた。

 最初、片手でわたしの後頭部をつかまえた諏訪はぞんざいな手つきで引き寄せ、肩口辺りにわたしの顔を押し付けた。不安定な体勢で彼に寄りかかりながら、その体の意外なほど熱いことに、ああやっぱり生きてるんだなぁなどと頓珍漢なことを考える。
 それから諏訪はもう片方の手を伸ばしてわたしの腰のあたりを抱いた。
 開いた脚の間にすっぽり収まって、彼の首筋に顔を寄せる。羞恥とか、後ろめたさとか、多少無くはなかったけれどそれ以上に驚いた。
 まるで最初からこういう風に出来ていたみたいだ。
 ふたり一揃いであつらえてあったかのように、そうなるために生まれてきたみたいに、この人の腕のなかは居心地がいい。

 ぴったり、て感じ。
 別々の生き物で、わたしたちは全然違うのに。

「……これも、『やりたかったこと』のひとつ?」

 その問いに彼は答えず、ただぼんやりとした目つきで天井の辺りを見上げながら、わたしの体を抱え直した。きっと、そうなんだろう。
 衣服越しに感じる体温、微かな煙草の残り香。
 目を閉じて身をゆだねると、諏訪の腕はすこし強張った。緊張しているのか。自分からそうしたくせに。けれどその律義なところがどこまでも諏訪らしく、愛おしく思った。

「ボーダーのことは、色々機密があって、あんま詳しく話せねぇけど」
「うん……?」
「俺はまァわりと死ぬ可能性の低いとこにいると思うし、多分三門の防衛から外されることもねェだろう。ただちょっと今回、危なかったなって瞬間があってな」

 氷の塊を飲み込んだような心地で諏訪を見上げる。
 だって、そんなの聞いてない。いや、話せることでもないと解ってはいるつもりだけれど。
 諏訪はどこともない中空にぼんやりと視線を漂わせたまま、しずかに、穏やかに言葉を続けた。

 死ぬときは一瞬なんだろうな。死ぬわけじゃねぇとしても、呑気にお前のこと心配してる暇なんてなさそうだ。俺ァお前に何度かそうそう死なねぇっつったし、それは嘘じゃなく事実のつもりだけどよ、もしそうなったときお前に……いや違げぇ、そういうことが言いたいんじゃねぇんだ。死ぬつもりでボーダーやってるわけじゃねぇし。
 ただ、あァそうだな、もっと、

 そこで区切った諏訪は、現実に引き戻されたかのようにスッと真顔になると、ハァ〜〜〜と深い溜め息をついた。
 がくりと項垂れ、その拍子にわたしの首筋に顔を埋めるかたちとなる。
 鼻先や唇が触れて擽ったい。

「もっと、何。そこで止めないでよ、気になる」
「いンやァ? もっと早よこうしときゃよかったなァって思っただけ」
「こうしとくって?」
「思いのほか抱き心地がイイもんで」

 顔を上げた諏訪がにっと笑う。
 わざと茶化して雰囲気を崩したその様子にわたしも力が抜けた。

「やだー、洸、おっさんくさ」
「誰がおっさんだ」
「このあいだもエプロンに萌えてたでしょ。わりと趣味がおっさん」
「てめェな〜〜」

 もういい寝る、と吐き捨てた諏訪が不機嫌そうな顔を作って(ポーズだ)わたしの体を持ち上げる。ベッドにぽすんと投げられたかと思うと、掛布団を引っぺがした諏訪が「そっち寄れ」と背中を押してきた。

「寝るの?」
「おめーも寝ンだよ」

 一応年頃の男女が同じ布団に入ろうとしてはいるものの色めいた感じは一切ない。仮眠二時間で動いている諏訪の眠気が限界なのは見れば判った。ちょっと目が据わっている。
 わたしは諏訪のベッドを借りてぐっすり寝たから平気なのだけれど。というかむしろ、動き通しのこの人にせめてものお礼で晩ご飯でも作ろうと思っていたのに。諏訪は雑な手つきでわたしを壁際に追いやって、バサリと布団をかけた。ほんとに一緒に寝るつもり?

 ぱちぱちと瞬きしながら挙動を見守っていると、諏訪は腕を枕にしながら横向きに寝転ぶ。

「……お前、もちっと抵抗しろよ」

 それ諏訪が言う?

「心配になんだろ……。俺がろくでもねぇ男だったらどうすんだ」
「その仮定は今更すぎる」

 確かに、と諏訪は笑った。
 薄く目を閉じて口元を綻ばせる、その緩んだ表情が好きだ。わたし以外の人が知らなければいいのにと思う。諏訪のこの表情を知るのが、この世界でわたしだけならいいのに。

「俺以外に許すなよ」

 諏訪の手がわたしの蟀谷を撫でる。指先で、懼れるように、慈しむように。その言葉も、この指先も、彼なりの愛の言葉なんだろうなぁと、自分でも驚くほどすとんと受け入れることができた。

「洸ってあんまり独占欲ないように見せてるだけで、案外我が強いよね」
「おめーもな」
「……いっとき、風間くんや木崎くんたちが今夜の宿に困ってるって言いだしたら洸と同じようにして泊めるかもなぁって思ったことあるんだけど」
「いきなりなんの話だ? やめろ絶対やめろ。想像するだけで腹立つわ」
「でも諏訪の友だちだしボーダーの人だし危ないことはないでしょ」
「そういう問題じゃねー」
「えーっと……思ったことあるんだけど、やめとくね、洸だけだよ、ってオチにしたかったんだよね」

 んぐ、と諏訪が変な声を洩らして黙り込んだ。なんか動揺したらしい。
「もう寝ろ」わたしを愛でていた指先ががしっと後頭部を掴み、諏訪の胸元に引き寄せられた。眠気を帯びた声、体温、諏訪の首筋の血管がとくとくと一定のリズムを刻む。「もう喋んな」耳元に落とされた声に滲んだ熱っぽさに一瞬ぎくりとしたけれど、諏訪はそれ以上動こうとしなかった。
 なんだか幸せで、幸せなのに寂しくて悲しくて涙が滲んだ。諏訪がわたしの髪の毛をくしゃりとかき混ぜるように撫でる。

 その拍子にフと、本当にふっと……ああわたし諏訪がいてくれるならどんなに辛くても不幸でも耐えられるかもしれないなぁと、そんなことを考えた。




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