こつん、と後頭部に何かが当たった。
 後ろ頭を押さえながら振り向くとそこにいたのは諏訪で、湯気の立つ缶コーヒーを口元に持ってこちらを見下ろしている。
 すわ、と呟くと彼はわたしの頭を叩いたその手でモッズコートのポッケからチョコレートを取り出した。ストレス社会で闘うあなたに、と書いてある赤いパッケージ。「やる」とわたしの頭の上に置くとすたこらと去っていく。
 声をかける暇もなかった。
 あまりにもあっさりとしている後ろ姿を茫然と見送って体を元の向きに戻すと、一緒にテーブルを囲っていた友人三人が、面白いものを見たと言わんばかりにニヤついていた。

「な……なに?」
「いや〜〜〜やっとくっついたかと思って!」
「予想より一年は遅かったよね」
「で、どっちが告白したの?」

 待て待て、なんで知ってる。
 この友人たち、一回生の頃から諏訪とのつきあいについては「つきあってもないくせに泊まるとか」「不健全」「彼氏面かよ」「しかも雀カス?」「煙草も酒も始めた?」「不健全の見本市じゃねぇか」と若干、いやかなり厳しかった。諏訪のことを直截知らない人が見ればそう思われるのも致し方なし、と長期戦覚悟で挑んだ結果、最近ではだいぶ軟化していたのだけれど、なんとなく今更報告するのも照れくさくて言わずにいたのだ。
 わたしと諏訪の関係は、確かにあの日僅かに変化した。
 ただ何がどう変わったのかは曖昧だし、明確に距離感が近付いたのかというと別にそうでもない、はず、だけど……。

「……そんなに解りやすかった?」

 と頭を抱えると、

「解りやすいのはどっちかっていうとカレのほうかな」
「なんか意味もなく話しかけてくる回数が増えたでしょ」
「で? どっちから告白したの!」

 圧が強い。
 じつは「好きだ。つきあおう」みたいなはっきりとした言葉は互いに使わなかったのだ、なんて言ったらぶっ飛ばされてしまいそうだ(友人たちはわたしに甘いので、もちろん諏訪が)。


男を可愛いと思ったらもう終わり



 俺以外に許すな、と諏訪が告げたあの日から、わたしたちはなんとなく、本当になんとなく、多分だけどつきあっているんだろうなという関係になった。
 あれからまだ日が浅いのではっきりとは判らない。けれど具体例を述べると、飲み会という口実がなくとも諏訪がうちに泊まっていくようになっていた。大した理由がなくても会っていいというのは、少なくとも諏訪のような男にとっては特別なことなのではないだろうか。

 ……と、そんなことをぼんやりと考えながら帰りついた部屋の鍵を開ける。
 三門大学から徒歩十分、築四年の五階建て、二階の角部屋好立地、ワンルーム六畳。バス・トイレ別でオープンキッチン。家を売り払って祖母の家に引っ越した経験から、荷物はできるだけ少な目を心掛けている。
 いつでもどこかへ行けるように、身軽に。
 まあ部屋に大きな本棚があるせいで、本当に身軽、と言えるかどうかは怪しいけれど。

 今日は五限終わりに諏訪が来る予定になっていた。
 わたしのほうは四限が終わってからスーパーに寄り、夕飯の買い出しを済ませてきたところだ。買ったものをキッチンに一旦置いて、洗面所で手洗い、嗽。ここに諏訪の歯磨きセットが置いてあるのは、泊まりが増えはじめた昨年からのことだから目新しい変化ではない。

 リビングへ戻ってエアコンのスイッチを入れた。
 三門市は特に冬が厳しいという土地ではないけれど、暖房器具なしには乗り切れない。
 それからキッチンで、鉄瓶にお水を入れて、コンロにかける。沸騰するまでのあいだに、仮置きした食材などを所定の場所へ収めていく。今日のメニューは白菜と豚肉のミルフィーユ鍋だ。シメのおじやには、冷凍してあるご飯を使うのでいいだろう。
 買い物の片付けと鍋の準備が終わったあたりでお湯が沸いたので、インスタントのドリップコーヒーを淹れる。コーヒーには手間をかけたいので豆も置いてあるけれど、手軽なのもそれはそれで良し。
 そうこうしているうちに諏訪から連絡がきた。

《授業おわった》
《なんか買ってくもんあるか》

 毎度感心するが、諏訪は文面までもちゃんと諏訪って感じがする。

《晩ご飯の材料は買ったから、あとは諏訪の飲みたいものと食べたいもの》
《じゃ酒とアイス買ってく》
《りょうかいです》

 諏訪とのトーク画面を閉じる前に、ひとつ画面を戻ってトークの一覧を眺める。
 未読を示すマークがついたメッセージを、小さく深呼吸してから開いた。今日のお昼ごろに通知が来ていたのだが、開かないまま置いておいたものだ。……未読放置、というやつ。
 表示されたメッセージに目を通して、返信しないまま画面を閉じる。
 諏訪に相談しよう、と思った。なんでいちいち俺に訊くんだよと言われてしまったら、それまでだ。




 諏訪がお酒とアイスを携えてうちに来たときには十八時を回っていた。コンビニに寄ったところを太刀川くんと加古さんに出くわし捉まっていたのだという。肉まんをたかられたらしく、「あいつら俺より高給取りのくせして」と悪態をついていた。
 下準備だけ済ませておいた鍋を火にかけて、蓋をする。
 ローテーブルに突っ伏してくたびれている諏訪の隣に腰を下ろすと、どした、と掠れた声で訊ねられた。

「小中一緒だった八百屋さんの男の子、憶えてる?」
「あ? あー、まあフツウ。確か成人式で見かけたな」
「あの子から一昨日、急に連絡がきまして」

 ハア? と諏訪が目を見開く。ガラが悪い。
 わたしの差し出したスマホを手に取って画面を見下ろすうち、どんどん眉間に皺が寄ってきた。

「ンだこれ。《久しぶりに会いたいなと思って連絡してみた》だァ?」
「なんか、……中学でもまともに喋った記憶がないのに突然こんなのが来たから、びっくりして。宗教とかマルチ商法とか投資の勧誘でもされるのかな」

 一昨日の晩の話である。
 突然《久しぶり! 三門に帰ってきてんだよね? 久しぶりに会いたいなと思って連絡してみた。元気してる?》というメッセージが来たのだ。
 向こうが会いたいと言っても、中学校の頃は関わりがなかったのでこちらには会う理由がなかった。成人式で顔は見たが言葉も交わしていないはずだ。だから余計に、久しぶりに会いたいと言われたこと自体が理解できない。
 なので「会いたい」のあたりは不自然でない程度に躱しながら、元気だよとか三門大に通ってるよとかそういう話でフェードアウトを狙っていたのだが。

 今日の昼、通知欄に《よかったらコーヒー飲みながらドライブでも》と表示されたので途方に暮れて未読放置。
 諏訪が帰る前に既読をつけて、《ドライブでもどう? いつが空いてる?》という全文を確認して現在に至る。

「いやフツーに下心あんだろ。なんだよ《小学校の頃は照れくさくてお礼が言えなかったけど、バレンタインのときのお礼も改めてしたいし》って何年前の話だ。つかコイツにチョコやったのかよ」
「全然記憶にないんだけど、お母さんがこの子の家の八百屋さんでお買い物するのについて行ってたから、そのつきあいであげた可能性は否定できない」

 小学生の頃はずっと初恋の男の子にぼんやり片想いしていた記憶がある。そしてそれはこの八百屋の彼ではない(……ちなみに諏訪でもない)。
 諏訪は何度か「ハァ?」「なんか気持ち悪りィな」とぶちぶち文句を言ったあと、スマホをわたしの手に戻した。

「却下だ却下。大体、久しぶりに会う女子いきなりドライブに誘うやつがあるか!」
「あ、そこ」
「あたりめーだわ。こいつの運転する車で出掛けてどっか変なとこ連れ込まれたらどうすんだ。車なんて密室だぞ。どう考えても下心しかねぇよ、断れ。まさか会いてぇとか言うんじゃねぇだろうな」
「いや、断り方を相談したかったんだけど……」
「ンなん彼氏いるって言えば済むだろーが!」
「か、」

 カシャッ。
 動揺してサイドのボタンを同時に押してしまった。意味のないスクショが保存されてゆく。
 いや。
 いやもしかしたらその気でいたのはわたしだけで、諏訪は以前と何も変わらない関係のつもりで、同級生に久々に誘われたからっていちいち相談すんなとか思われたらどうしようって……ほんのちょっとだけ、不安だった。例えわたしの自意識過剰な勘違いだったとしても、諏訪のことだから親身になってくれるだろうと思いながらも、一度芽生えた不安はそう簡単に消えてくれない。
 だから、こんな、直截的な解決方法を提示してくれるなんて。
 ……思っていなくて。

「……れし、いるって、言っていいの」
「ハァ? おめーな、じゃあ今まで一体なんのつもりで」

 諏訪はむずむずしたような顔になって、ハァ〜〜〜とよくある深い溜め息をつくと、コテンとわたしの肩に寄りかかった。
「イヤ俺も悪かったよ」と喋る動きで金髪が顔にかかってちくちくする。

「行くな。……断れよ」
「えと、あの、うん」
「《諏訪とつきあってるから無理》って、今すぐ送れ」

 拗ねたような声を、している。
 金髪で三白眼で口が悪いから短気なように見えがちだけれど、諏訪は沸点がかなり高い。ガァッと捲し立てるように喋ったり、すぐ「ハア!?」と目を細めたりするものの、本気で怒ることはかなり稀だ。意見が食い違いそうになったら余程こちらが頓珍漢なことを言っていない限り身を引く。ボーダーで隊を預かっているという環境も影響するのか、諏訪は同年代の男の子に較べるととても大人だ。
 その諏訪の、こんな子どもみたいな声。
 もしかして珍しいのでは。
 えっ、えっ、とわたしは動揺する胸を手で押さえる。

「うそ、洸かわいい」
「…………イヤ何が? 今のは理解できねぇわ」
「だって、なんか、拗ねてる……」

 顔を上げて表情豊かに遺憾の意を表明した彼は、チッ、と舌打ちを零してわたしから離れてゆく。
 頬のあたりが赤いのを手で隠しながら、カバンの中をごそごそと探った。

「……煙草吸ってくる」

 いいな、俺が戻ってくるまでに断っとけよ、あとで確認すっからな。諏訪はまるで負け惜しみみたいに言い残しながらドタドタと玄関から出ていった。
 ことことことっ、とキッチンで音がする。
 鍋が沸騰しているのだと気付いて慌てて立ち上がった。火を弱めてから蓋を開け、はぁ、とシンクに手をつく。

 それから億劫な手つきでドライブのお断りのラインを打ち込んだ。
 す、わ、と、つ、き。
 …………。
 とととととっと消して、《ごめん》から始める。ごめんなさい、いまつきあっている人がいるので、ドライブは行けない。みんなで集まってご飯とか行けたらいいね。訊かれてもいないのに諏訪の名前を出すのはなんだか露骨というか、生々しい気がして、ちょっと打てなかった。

 返信したあと、今度は友人たちとのグループラインを開く。講義の内容やレポートの進捗具合からどうでもいいことまでなんでもござれのラインだ。今もわたし以外の三人が、どこぞのお好み焼き屋さんの話で盛り上がっている。

《ごめんなさい。一言だけ爆発したい。すわがかわいい》

 十秒後、《男を可愛いと思ったらもう終わり》《ベタ惚れじゃねーか》《爆発しろ》と集中砲火をくらった。



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