あやちゃんって影浦くんのこと怖くないの、あんな乱暴なのに、とクラスの女の子が眉を顰めるたびにわたしは曖昧にうなずいた。別に、怖くないよ。叩かれたことないし。
 実際、雅人は相手が悪意を持たない限りは突っかかっていかない。ただ周りがもう「影浦はやばい」とか「怖い」とかそういう印象で固定されてしまっているから、小学校の教室のなかに一日いるのは本当に苦痛だったと思う。
 雅人が苦しんでいるのを見るのが辛かった。学校から帰ったあと、どちらかの部屋で二人きりになるとほっとしたように大人しくなる様子が痛々しかった。みんなどうして雅人のことを放っておいてあげられないんだろう。

 わたしには雅人の言う「刺さる」が解らない。だけど目の前の雅人が確かに「刺されている」と感じて、それを苦痛に感じて、どうしようもなくて足掻いていることは明白なのに、わたしには何もしてあげられない。
 だから願っていた。
 いつも祈っていた。
 神さま、どうか雅人を助けてください。雅人が安心して生きていける場所をください。


花になるための呪文、いち



 しのだまさふみ、と名乗る男の人がわたしの病室を訪れたのは、大規模侵攻から五ヶ月ほど経った冬も間近のことだった。

「もうだいぶ具合もいいようだと、保護者のかたに聞いたから」

 ここでいう保護者のかたというのは影浦家の両親だ。
 父方も母方も親戚それぞれに都合が悪いため、退院後のわたしはひとまず影浦家に預けられることとなっている。
 大規模侵攻の日にわたしを救出したボーダーの人がお見舞いに来る、というのは昨日のうちに聞いていたので、わたしはベッドから身を起こした状態でその人を出迎えた。

「怪我はまだ痛むかい」
「……雨の日は、すこし」
「歩行機能の回復はあまり芳しくないそうだが、脚にも痛みが?」
「いいえ、べつに」

 あの日負った傷のほとんどはもう治っている。一番重傷だった両脚も骨の癒合は順調に進んでいた。入院してすぐの頃は全身の痛みがひどくて鎮痛剤の投与が必須だったし、そのせいで雅人を傷付けてしまったけれど、今はもう薬がなくても平気になっている。
 体からひとつずつ傷や痛みが消えていくたびに辛かった。
 両親や弟の死が遠ざかっていくような気がして。

 忍田さんは、ぽつりぽつりとわたしの身の回りのことを訊ねた。退院後どうなる予定なのか、復学はいつ頃になるのか、夜は眠れているか、病院の食事はおいしいか。それから彼自身のことを教えてくれた。ボーダーという組織に所属していること、特殊な武器を用いて近界民を倒すことができること、放棄地区となった東三門に本部基地を建築していること。

「今も、助からなければよかったと思うかい」
「…………」

 どうしてこの人が知っているのだろう、と不思議に思った。
 ショッピングモールで瓦礫に潰された弟の傍にいたわたしが救出されたあと、次に目を覚ましたのは大規模侵攻から二日経った昼間。わたしは確かにつないでいたはずの弟の手がどこにもないことに気付いてパニックを起こした。自分ひとりが助かったことを知って、痛みでろくに動かない体で暴れ回り、どうして助けたの、なんで生きてるの、わたしを助けたのは誰、そいつを殺してやる、と喚き叫んだ。
 さすがに冷静になった今はもう、看護師さんホントすみません、という気持ちでいっぱいだ。
 救助するのが仕事の人たちに救助され、治すことが仕事の人たちに治してもらっている。なんで助けたのとか言われても困るに決まっている。

 わたしの沈黙に忍田さんはそっとほほ笑んだ。
 目尻を歪める、どこか痛々しい微笑。

「我々はともに戦う仲間を求めている。もしもきみが刃を望むのなら、戦うためのすべを与える準備がある。戦おうと思ったらボーダーに来るといい」
「歩けないこんな体でも?」
「きみは歩ける」

 忍田さんは音もなく立ち上がり、病室の窓から臨む三門市街を眺めた。

「そこで歩みを止めるか、修羅の道を往くか。きみが決めることだ」




 五歳の誕生日プレゼントは何がいい、とお父さんとお母さんに訊ねられたときわたしは「妹がほしい!」と答えたらしい。
 それに対して父はこう答えた。
 弟や妹というものはほしいと思ってできるものではなく、お父さんやお母さんや理世がちゃんとその子を大事にできると神さまが判断したときに、お母さんのお腹のなかに送り届けてくれるんだよ。いいね理世、だからもし神さまがこれは大丈夫と思って弟や妹をぼくらのところに送ってくれたとき、ぼくらはその子をとってもとっても大事にしなきゃあいけない。

 それから一年後、六歳の誕生日にサプライズで「弟ができるよ」と父と母に告げられた。
 半年後に生まれたちいさな命。神さまが、わたしたちなら大丈夫だと送り届けてくれた命。わたしたちはこの子をとってもとっても大事にしなきゃあいけない……。



 なのに。



「──二人で逃げなさい!!」
「手を放しちゃだめよ、絶対に」
「お姉ちゃん、絶対に!!」

 血の滲むような声で怒鳴りつけて母はわたしの背中を押した。わたしはわけもわからず走り続けた。夢を見ているんだと思った。だってあんなにも巨大なロボットみたいな生き物、現実にいるはずないんだもの。
 手を引っ張って走ってきた弟がつんのめってこけたそのとき、天井が崩れた。わたしの背丈以上もある瓦礫が、床に手をついて立ち上がろうとした弟を潰した。瓦礫の下に広がっていく血溜まりに膝をついて物言わぬ弟の手を引っ張った。
 逃げなきゃ。二人で逃げなくちゃ。手を放しちゃだめだ。わたしはお姉ちゃんなんだから。
 パニックになって弟の体を瓦礫の下から引きずり出そうとしていたわたしの上に、建物を支えていた柱が降ってくる。柱自体は弟を潰した瓦礫にぶち当たって破砕され、細かい破片がわたしの上に降りそそいだ。脚が何かの下敷きになって動けなくなった。

 それから何時間経ったのか、意識が朦朧とするなか、たくさんの大人の声が聞こえてきた。ここに一人いた、生きてるぞ、がんばれ、もうちょっとがんばれ。わたしは弟の小さな右手を握りしめたまま動かなかった。弟の手はもうつめたくなっていた。誰かに体を抱き上げられて、弟の手から引き剥がされそうになったから、やめて、と腕を振り回した。
 やめて。二人で逃げないと。手を放しちゃだめなの。この子と一緒じゃないといやだ。お母さんがそう言ったの。手を放しちゃだめって。一緒じゃないとだめなの。



 なのに。



 なのに病院で目覚めたわたしの左手の先に弟の小さな右手はなかった。神さまが、わたしたちなら大丈夫だと送り届けてくれた命。お母さんが絶対手を放しちゃだめよお姉ちゃんって言ったのに。

 わたしは弟の手を放してしまった。

「理世」
「ぁ───……!」

 自分の泣き叫ぶ声で目が覚めた。
 肩を、誰かが掴んでいる。目覚める直前に呼ばれた名前からして雅人だ。首を動かすと、つんつん頭とマスクで顔を隠した雅人がいた。

「……、……学校は?」
「目ぇ覚ますなりそれか」

 だって今日は平日で、わたしは昼食を食べた記憶がない。ということは授業をしているはずの午前中に病院にいるということになる。男子とケンカしても成績が悪くても無遅刻無欠席だけが取り柄だった雅人は、大規模侵攻以降、学校をさぼってわたしのお見舞いに来ることが増えていた。
 毎日というわけではないから、本当に気分が塞いだときだけなのだろうと、おじさんもおばさんもあまり強く言わないけれど。

 わたしが手を伸ばすと、雅人は片手を引っ張りながら背中を支えて起き上がらせてくれた。
 病室の室温は快適に保たれているけれど、布団から出ると少し寒い。ベッドの手摺にかけていたカーディガンを羽織る。雅人は眉間に皺を寄せてわたしを見下ろしていたけれど、やがてチッと舌打ちをして椅子に腰かけた。

「テレビでも見る?」
「……ん、」

 平日のこんな時間じゃ面白い番組なんてやっていないだろうけど、イヤホンの片方を差し出すと雅人は唸るように返事をした。
 最初の一か月は個室で過ごしていたわたしも、落ち着いて色々なことが考えられるようになってからは四人部屋に移っていた。個室はお金がかかるのだ。
 カーテンを閉め切って人の気配や物音を遮断すると、雅人はほっとしたように息を吐く。
 他人からの雅人に対する感情を皮膚感覚として受け取ってしまう彼は人混みが得意ではない。それでも学校よか町中のほうがマシだとは言うけれど、どこにいても常に気を張っているのが昔から痛々しかった。

 イヤホンの片耳から、毒にも薬にもならないワイドショーの音声が流れてくる。
 雅人はぼんやりとテレビを眺めていたけれど、番組で扱う話題が大規模侵攻とボーダーに映った瞬間、テレビの主電源を落とした。

「……別にいいのに」
「腹立つから見たくねぇんだよ」

 そっかと返す。三門から遠く離れた安全地帯で三門の安全について討議するタレントや自称専門家を、見たくないという人も確かに多かった。
 イヤホンを外した雅人はわたしが脚にかけていた布団をぺろんとめくる。
 投げ出された素足に触れ、痛くはないかと確かめるようにこちらを見上げた。雨の日や気圧の上下がある日は折れた骨が軋むように痛むこともあるけれど、今日は平気だ。
 雅人は何か壊れやすいものでも持ち上げるかのように、わたしの脹脛をそっと動かした。

「目を覚ましてすぐの頃は、両脚、切断したんだと思ったの。だから余計にパニックになっちゃって」
「あの頃、感覚ねぇっつってたしな」
「うん。いまはぴりぴりするっていうか、まさとが触ってるのは判る」

 雅人は脹脛の血流を助けるように上から下へと撫でおろし、痛くない程度で指圧をはじめた。足首をぐるぐる回したり、足の裏や甲をぐりぐり押さえたり。

「あんまさぼってっと関節固まるんだろ、」
「うん」
「本当に歩けなくなっても知らねえからな」
「うん……」

 だめなんだよ、雅人。
 わたしはあの子と一緒にいないとだめなの。あの場所を移動してはいけなかった。あの子を一人にしてはいけなかった。わたしの脚は柱の瓦礫に潰されてもう動かないの。だからあの子と一緒にいなくちゃ。

「だって、歩けるようになったら、あの子をひとりで置いてかなきゃいけない」
「……あの子?」
「あんな寂しいところに、ひとりにしたくない」

 歩みを止めるか、修羅の道を往くか、なんて強い人の選択肢だ。わたしと弟を引き離したあの人の、痛みを孕んだ横顔が脳裡に浮かんで消えた。
 雅人はしばらく黙ったあと、小さく「わかった」とうなずく。

「おまえはそこにいればいい」
「…………」
「俺が、抱えてどこでも連れてってやる。だからもう退院してうちに帰ってこい」

 わたしの目も見ずに、ぶっきら棒な口調でつぶやきながら、雅人はまたわたしの足首をぐるぐる回した。駆動域は、なんともなかった頃に較べて遥かに狭い。

「……いいの?」
「いい。家でも学校でも運んでやる。歩いちゃいけねえんだろ」

 でも最低限リハビリはしてろよ、と雅人はおまけのように付け足した。それも、本当にどうでもよさそうに。
 息を吸うと、喉の奥まで何か言葉にならない感情がせり上がってきて、形を得る前に涙になって零れ落ちた。優しい人。大切な幼なじみ。本当はこんなにも穏やかであたたかい人なのに、みんなどうして解らないんだろう。
 この日はじめて雅人のことを愛しいと思った。彼のことだからばれていたかもしれない。
 同時に恐ろしかった。わたしのこの脚はきっと雅人を縛るだろう。この優しい人は、自分の言ったことの責任を取るために、本当にわたしのことをどこへでも抱えて連れて行ってくれるだろう。

「……まさと」
「なんで泣くんだよ」
「まさと……」

 まさと、ごめん。
 わたしは歩けない。
 お母さんの言いつけを破って弟の手を放した一人生き延びてしまったわたしはもう二度と歩いてはいけない。この心の全てを弟が死んだあの東三門の瓦礫の下に置いてきた。わたしの心はあの瓦礫の下で家族と一緒に死んだのだ。
 そんな抜け殻が雅人の人生を縛っていいわけがない。
 この罪悪に雅人をつきあわせていいはずがない。

 まさと、ごめんね。ひとりで楽になりたいわたしを、どうか許して。


▲ ▶ ▼ ◀



 雅人とこの話をしたことはないから、本人が覚えているかどうか解らないのだけれど、退院したわたしがリビングで首をくくろうとしたとき泣いていたのは雅人だった。

 雅人に抱えてもらってリビングに入って、ああもう何もかも喪ってしまったんだなぁ、歩けないし、生きていくのって労力もお金もかかって大変だし、そうだな死んでおいたほうが楽だなとストンと腑に落ちたからお父さんのネクタイを輪に結んだ。
 ドアノブに引っ掛けて頸を入れようとしたところで雅人が飛び込んできて、わたしはその日、初めて雅人に頬をぶたれた。

「……にしてンだテメエはァ!!」

 何考えてんだこのアホ、死なせるとでも思ったかバカ野郎。勝手に死ぬな。俺の見えないとこで死ぬんじゃねぇ。てめえ一人楽になるなんて許さねえ。死なせてなんかやるもんか。……とまあ罵倒され尽くした。雅人の眦から零れた涙はわたしの頬に落ちて、そのあと泣き出したわたしの涙と混ざって滑り落ちていった。
 てめえ一人楽になるなんて許さねえ。
 その掠れた怒声を聞いたとき、ああ雅人も楽になりたいんだ、とわかった。誰だって楽になりたい。だけど神さまはいないから、いたとしても人間を救ってくれることなんてないから、あの運命の日にわたしたちは救われなかったから。
 だから、わたしたちはわたしたちの手で、わたしたち自身を救わなければならないのだ。


title by Bacca

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