わたしの入院中、どこか無理したような顔つきで頻繁にお見舞いに来てくれていた雅人も、わたしが影浦家に落ち着いてしばらくするとちょっと雰囲気が和らいできた。
 わたしの移動のたびに、どうやって抱き上げるのが一番お互いに負担がかからないか、どのくらいの時間距離なら休憩なしでも運べるか、なんてことを実験しつつ日々を過ごす。ちょうどわたしが雅人の体質のことを研究していた時期のように。

「そういやぁ、」
「うん?」

 二人してもこもこのコートとマフラーに身を包み、今日はリハビリのため三門市立総合病院を訪れていた。
 おじさんとおばさんはお店があるから、わたしたちはバスと電車で病院へ向かう。乗り降りの際には色んな人に迷惑がかかるのだけれども、幸か不幸か三門の人たちは「ああ大規模侵攻で」と察してしまうので、みんな快く手を貸してくれた。
 有難いなぁと思うと同時に、そういうとき決まって雅人はマスクの下で変な顔しながら首筋を掻いたりするので、なんらかの感情が向けられているのだと思うと心苦しい。

「このあと、会わせたいやつ、いる」
「…………彼女でもできたの?」
「お前なんですぐそういうことに発想が飛ぶんだよ」
「えっ、少女マンガのセオリーだから」
「少女マンガの読みすぎだろ」

 大体彼女なんかできると思うのかよ、俺に、と極めてダルそうに目を細めた雅人に、うーんと唸るとチョップされた。いらねーんだよ面倒くせぇ、とぼやきつつ雅人はハンドルに手をかけて、病院の前のゆるやかなスロープを押してくれる。
 わたしの介助をしてくれる限り、よっぽど理解がある子じゃないと彼女は難しいだろうな。


花になるための呪文、に



 雅人は基本的に閉じた世界を生きている人だ。
 家族、お店、わたし。中学の友人に親しい子はいないみたいだし、一人が好きな人だから本当にそんなもののはず。
 正直、こんなふうにわざわざ引き合わせたがる相手がいたことに衝撃を受けた。

 気もそぞろな状態で一時間のリハビリを受ける。脚のマッサージとか、歩行訓練とか。受けたって意味はないから、本当は来たくない。
 だってわたしは歩いちゃいけない。
 弟の手を放しちゃいけない。弟の傍から離れちゃいけなかったんだから。
 だけど雅人が「オラ行くぞ」って抱き上げて車椅子に乗せて家を出てしまうし、終わったら勝手に次回の予約をしてお金払って病院を出てしまうから、行くしかない。それに、最低限でいいからリハビリは受けてろよと、他でもない雅人が言ったから。

 雅人はリハビリでくたびれて不機嫌なわたしの乗った車椅子を押して、いつもと同じ駅前行きのバスに乗り込んだ。

「どこ行くの」
「駅で待ち合わせしてる」
「……会わなきゃだめ?」
「嫌なのかよ」
「いやっていうか……。誰なの、そのひと」

 嘘だ。本当は嫌だ。
 家族も脚もなくして雅人を頼るしかなくなったわたしは、わたしの知らない雅人を見るのが嫌なのだ。
 なんて、醜い。

「誰って、べつに。……なんでもいいだろ」

 なんでもいいわけないじゃないか。

 しつこくぶすくれるわたしに「オイ」「理世」「なんでそんな機嫌悪ィんだよ」「刺してくんじゃねぇ」って文句を言いつつも、雅人はいつもどおりにバスから降ろしてくれて、手伝ってくれた人に不器用に会釈して、待ち合わせ場所を目指した。狭量な自分に嫌気がさす。
 果たして待ち合わせ場所の噴水前に立っていたのは、縦にも横にも大柄な少年だった。

「ゾエ」
「あ、カゲやっほー。その子が例の幼なじみ?」

 男の子にしてはまだ細身な雅人より頭一つぶんくらい大きい、気がする。わたしが知る男子の誰よりもガタイのいい、ゾエと呼ばれた彼は、存外柔らかい笑みを浮かべてわたしの前にしゃがみ込んだ。

「はじめまして。北添尋です」
「……井實理世です」
「理世ちゃんて呼んでいー? 俺はゾエでも尋でもいいよ」

 その、穏やかな表情、声、わたしに威圧感を与えないために目線を下げた気遣い、人間嫌いだったはずの雅人がわたしに会わせたいと望んだことの意味を、一瞬で理解した。

 ああこのひと、そうか。
 雅人が心を許せた人なのか。

 気付いたら涙が零れていて、気付いたら彼の手を握っていた。大きくて、ごつごつして、あたたかな手だった。

「ありがと、北添くん、」
「えっ、わあ、泣かしちゃった。カゲ、ハンカチハンカチ」
「あ? んなの持ってねぇよ」
「ゾエさんも持ってない! カゲなんでそんな落ち着いてるの!?」
「こいつしょっちゅう泣くぞ」

 年相応の男の子みたいなやり取りをする雅人なんて初めて見る。
 困らせちゃったなと反省しながら涙を拭って、改めて北添くんを見上げた。さっきまで拗ねていた自分が馬鹿みたいだ。心の底から、雅人が好きになったこの男の子をわたしも大好きになった。

「まさとと仲良くしてくれて、ありがとう」

「おめーは俺の保護者か」と、照れくさそうな顔した雅人に頭を引っ叩かれた。

 北添くんもといゾエくんは、昨年四月に雅人と出逢ったそうだ。雅人のことだから平和な出逢い方はしていないんだろうなと思っていたらやっぱりそうで、二人はかなり本気でど突き合う所謂ケンカ相手だったらしい。そういえば中学二年生になってからの雅人は、たまに口元に傷をこさえて帰ってくることがあった。
 体は大きいけど気性は穏やかそうだから、どうせ雅人から絡んだんでしょごめんねと言うと、あはは〜〜と笑って流された。本当のところは謎だ。
 五回目のタイマンがあったあとで大規模侵攻に遭い、しばらくぶりに会った雅人がやけっぱちで六回目を挑んだとき、わたしの存在を知ったのだという。

「退院してから家に引きこもってばっかでそのうちキノコ生えちまうって、カゲ心配してたんだよ」
「きのこ……」
「遊びに出るってなったら通院とはまた違うし遠慮してんじゃないかなって思って、そんならゾエさんも混ぜて〜ってお願いしたんだ」

 俺力持ちだからなんでも運ぶよ! と、ゾエくんは腕を曲げて力こぶをつくった。
 雅人とケンカしてるような不良には、あんまり見えない。

 ゾエくんは「車椅子押させて〜」と楽しそうにハンドルを握り、たまにカーブや方向転換を失敗しては「ごめーん!」とアワアワした。雅人は面白そうに「へたくそ」と絡んで、珍しく、ほんとうに珍しく自然に笑っていた。わたしはその様子を見てまた泣きそうになっていた。
 雅人とゾエくんはわたしをゲーセンに連れてって、音楽ゲームとかユーフォ―キャッチャーとか色んなゲームで遊んだ。音楽ゲームは全員下手だった。ゾエくんは意外なほど器用で、ユーフォ―キャッチャーでフワフワの豆腐みたいなぬいぐるみを取ってくれた。それからゾエくんがプリクラを撮ってみたいと言い出して、激しく嫌がる雅人を力業で引っ張り込んだ。
 駅ビルに入っているわたしの好きな雑貨屋さんは、通路が狭くて、車椅子では店内に入れない。「何が見たいの? ゾエさん取ってこようか」と言ってくれたけどゾエくんも体が大きくて入れなかった。二人で声をひそめて大笑いした。

 くすくす笑いながらお店から離れたところで、ツボに入ってしまったゾエくんが足を止める。ついにわたしの横にしゃがみ込んでお腹を抱えながら笑いはじめた。

「ゾエくん笑いすぎだよ」
「えー、だってさあ……ゾエさんまで入れないと思わなくて。あとはもうカゲが突入するしかなくない? 想像したらヤバイヤバイ」
「そ、それはヤバイ……!」
「オイ妙なこと想像すんな!」

 雅人はお約束のように一度突っ込んでから、はぁ、と溜め息をついた。
 調子に乗りすぎたかなと雅人を振り返る。前髪の隙間から覗く眼は、泣きそうなくらい優しく細められていた。雅人がマスクの下で安堵したように微笑んでいることに、気付いてしまった。
 きっと今日ゾエくんを紹介されたのは、仲良くなった友だちをわたしに会わせるためなんかじゃ、なくて。
 ……それに気付いたわたしが沈み込む前に、ゾエくんが「あ、クレープ食べよ!」と明るく笑った。




「あー楽しかった! また遊ぼうね理世ちゃん」
「うん、ありがと、ゾエくん」

 最後まで朗らかな笑顔で手を振ってくれたゾエくんと別れて、わたしたちはエレベーターでホームに上がる。いい人だったねと雅人を見上げると、アイツ今日猫被ってたぞ、と楽しそうに毒づいた。どうやら普段はもっと不良らしい(というのも変な話だが)態度なのだとか。
 雅人が笑っているのがなんだか不思議だった。
 不思議で、でもとても嬉しかった。

「ゾエくん、春になったらお花見したいねって言ってた」
「あいつ花見より団子食いたいだけだろ」
「遊園地とか、水族館とか、夏祭りとか三人で行けたらいいね、だって」

 そのとき電車がホームに滑り込んできたので雅人の返事は聞こえなかった。マスクのせいで唇を読むこともできない。でも多分「行きゃぁいーだろ」とかそんな感じかな。雅人は指先でマスクを下ろすと、風に翻る髪を押さえるわたしの耳許に口を近付けた。

「どこでも連れてってやる」

 見上げると、雅人はさっきの、大笑いするわたしとゾエくんを眺めていたときのような笑みを浮かべていた。


 だから、死ぬな。


 わたしには雅人の言う『刺さる』なんて解らないはずなのに、彼がただそれだけを願ってくれていることが痛いほどわかった。本当にたいせつな願いはいつも、言葉になる前の感情としてわたしたちの胸を打つ。


▲ ▶ ▼ ◀



 放棄された東三門のど真ん中に建築された黒い建物は、入院していた病室からも見えていたし、中学校の教室からも望むことができる。
 三門市に現れた近界民に対抗する組織として名乗りを上げた界境防衛組織『ボーダー』。このあいだテレビでは新規隊員を招いた記者会見が行われていて、わたしたちよりも少し年上に見える隊員が二人、インタビューを受けていた。
 家族を守るためにボーダーに入りました──と爽やかに笑う男の子。
 会見の場にはいなかったようだけれど、わたしを救助したあの人を思い出した。インタビューを受けている彼らはこれから、あの人の下について戦うことになるのだろう。

「今も、助からなければよかったと思うかい」
「戦おうと思ったらボーダーに来るといい」
「きみは歩ける」
「そこで歩みを止めるか、修羅の道を往くか。きみが決めることだ」

「……ああ、そうか、」

 家族を喪った。自宅もじき警戒区域の拡大に伴って放棄せざるを得なくなる。わたしの脚はあの運命の日に瓦礫に挟まれ、わたしの心はすべて弟の眠る場所に置いてきた。抜け殻だけが、雅人の自由を縛る日々。
 それでもやれることがある、と気付いた。
 死に場所を決めた。
 いつかボーダーに入ろう。




「俺、ボーダー入っから」

 お前の考えていることなんか全てお見通しだ、と言わんばかりの目つきで雅人に肩を掴まれた。

「死なせねぇぞ」

 どうしてそこまでするの。
 どうしてそこまでやってくれるの。
 どこにも連れて行ってやると、そう言ってくれただけで充分だったのに。

「──死なせてなんかやらねぇからな。ザマァ見ろ」

 わたしが置き去りにしたこの命を、雅人だけが諦めてくれない。



title by Bacca

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