私には戦士のともだちがいる。
 彼女は常に柔らかい笑みを絶やさない、穏やかで淑やかなひとだ。出逢ったのは中学一年の入学式の日で、出席番号が前後だったのがきっかけで仲良くなった。ある災害がきっかけで両脚に不自由を抱えてしまい、普段は車椅子で移動しているけれど、総合的には至って普通の女子高生だ。


 そんな彼女は、この三門市を守る組織に属している。


少女Aの心象風景



 三門市。
 人口およそ二十八万人。
 いまから四年前のある日、この町の空は黒く裂けた。


 その裂け目(現在では『ゲート』という)から次々に降ってきた巨大生物(のちに『近界民ネイバー』という呼称が公表される)は、虫か動物に似た巨体で門付近の地域を次々に蹂躙した。
 いつも通りの一日がはじまるはずだった休日の朝。多くの市民は自宅にいてその被害を受けたそうだ。倒壊した家屋の下敷きになり、降ってきた瓦礫に潰され、あるいは巨大生物に捕食され、またあるいは心臓を貫かれ──多数が犠牲になった。

 当時中学二年生だった私はその日、けたたましい防災無線放送に追い立てられるようにして、家族と一緒に中学校へと避難した。東三門のほうから聞こえてくる破壊音が、いつこちらに向かってくるのかと恐怖しながら。
 いつも体育の授業をしている体育館では、地域住民や生徒の家族が不安に押し潰されそうになりながら身を寄せ合っていた。いつかテレビで見た、過去の大震災の避難風景と酷似したその様子に、ああいまわたしたちはわたしたち自身が未曽有の大災害のなかにあるのだと実感させられた。しかも地震でも津波でも火災でもない、謎の巨大生物襲来なんて──まるで映画やコントみたい。

 避難所で再会したクラスメイトや顔見知りとは無事を喜び合い、姿の見えない友人知人に連絡を取ろうと試みる。電波が悪いのか基地局が破壊されたのか、ほとんどの機種はつながりにくい状態だった。お守りみたいにいつも持っていた携帯が役に立ちやしない……。

『彼女』と連絡が取れていなかった。

 焦燥と恐怖に震えながら時間が経つのを待っていたら、体育館の隅に見覚えのある男子生徒が膝を抱えているのを見つけた。
 影浦くんだ。
 いつも不機嫌で、仲の悪い男子と頻繁にケンカする問題児。あいつ頭おかしいんだよと同じ小学校出身の生徒が陰口を叩いているのを聞いたことがある。
 私自身は特に絡まれたことがなくて、でもちょっと怖くて遠巻きにしていたけれど、いま行方知れずのともだちの家は確か彼の家の近所だったし仲も良かったはず──

「影浦くんっ、あやちゃん見なかった!?」
「アァ!?」

 誰だテメエみたいな眼で睨まれた。いつも不機嫌な人だったけれど、今日は一段と迫力がある。
 機嫌が悪いんじゃない、多分、私と同じようにあやちゃんを案じているのだ。

 近付くもの全てを拒絶するような風情だった影浦くんの手には携帯電話が握りしめられていた。あやちゃんは携帯を持っていないはずだ。影浦くんは私の顔をしばらく見つめて、理世の……とつぶやいた。『理世の友だちの』とかそんな辺りだろう。

「……今日は、全員で朝から東三門に出かけるっつってた」

 彼が吐き捨てたその言葉に頭が真っ白になる。
 東三門。
 いままさに巨大生物によって襲撃されているという場所だ。

「そんな……」
「さっきからオッサンらの携帯にかけてるけど、誰も出ねぇ、」

 影浦くんはそれだけ答えたあと黙り込んだ。手が白くなるほど強く携帯を握りしめたまま、マスクと前髪で表情を隠してしまう。
 その手がかすかに震えていた。


 ネイバーの全機沈黙が確認されたのは、『門』発生から丸一日が経ったあとのこと。
 初動のうちに警察や自衛隊の銃火器が通用しないことが判明し、その直後に現れた『ボーダー』を名乗る謎の一団によってネイバーは撃破されたのだ。夥しい数の死者と行方不明者を出した災害が一応の収束を見せると、私たちはまるで最初からそうすることが決まっていたかのように──というか実際そうするしかなかったのだが、復興へ向けた歩みを開始した。
 政府は災害復興対策本部を発足した。私たちの住む辺りは住宅の被害もほとんどなかったから、学校もわりと早く再開した。ただ東三門からの避難者受け入れのために体育館が開放されている。

 教室には空席が目立った。
 死亡者リストに、行方不明者リストに、クラスメイトや先輩後輩や先生、またはその家族と思しき名前がいくつか見つかった。日々、増えていく。負傷者もいる。
 あやちゃんの席は空席のまま。
「オイ」と影浦くんが声をかけてきたのは、ネイバー襲撃から一週間以上が過ぎた頃のことだ。

「理世、みつかった」

 影浦くんがあやちゃん以外の女子に話しかけるのが珍しいというだけじゃない、その内容にクラス中がざわめいた。

「……ほんと!?」

 私が身を乗り出すと、影浦くんはウッと顔を顰めつつも「病院から昨日、連絡あって、顔も見てきた」と答えてくれた。

「よか、よかった……! お見舞いとか行ってもいいのかな。やめといたほうがいい? 元気だった? 学校いつ戻ってくる!?」

 影浦くんはそのどれも答えず自分の席に戻った。もうちょっと詳しく教えてほしかったけど、担任がやってきたので追いかけることはできなかった。
 朝の会がはじまると、担任もまた、あやちゃんが見つかったことをみんなに報告した。

「井實はあの日、ご家族みんなで東三門にいて襲撃に遭った。ご両親は行方不明で、弟さんが亡くなり、井實自身も大怪我をしている。手術やリハビリが必要になるため、学校に戻ってくるのはかなり先になると思う。戻ってきたとしても、最初のうちは車椅子での生活になるかもしれないそうだ」

 あやちゃんがいない間の影浦くんは、とても追い詰められていたように見えた。

 もともと他の男子とのトラブルが多くて、いきなり怒鳴ったりするような人で、女子からは怖がられていたタイプだ。それでもあやちゃんが間に入って「まさと」って話しかけていたからまだクラスの輪には入っていた。当然、彼女がいない教室で彼はひとりになった。
 多分ひとりを気にする性格ではないと思う。ただ、周囲が徐々に日常を取り戻しはじめても、彼の心はあの日に囚われたままだった。

 荒野に立ち尽くしているかのような孤独な背中。
 頬杖をついて窓の外を見つめる視線の先には多分いつもあやちゃんがいて、机に突っ伏して寝たふりしている間もずっとあやちゃんのことを考えている。

 さすがにみんな察した。
 クラスのなかで唯一、入院中のあやちゃんの姿を見ている影浦くん。
 よっぽどだ。──よっぽどの大怪我だったのだ。生きていてよかったなんて言葉で片付けられるような、そんな状態じゃないのだ。


 ちなみに三門市議会は、壊滅的被害を受けた市東部住民の全戸避難を決定した。
 避難という名目で放棄させられた東部地域は『ボーダー』の管理区域となり、三門市の危機を救った彼らはその後、東三門のど真ん中に本部基地を建築しはじめた。
 その頃になると『ネイバー』『ボーダー』という言葉も浸透してきていた。
 建築当初、市街地のど真ん中に武装機関を構えることや、比較的年齢の若い隊員が主力となる見通しのボーダーという組織自体の是非を問う論争は絶えなかった。テレビの向こうの専門家やコメンテーターが毎日毎日、自分の故郷でもない三門の問題で激論を交わす。そのさまはまるで作り物のようだった。
 だって現実はあそこじゃなくてここにある。
 安全地帯から議論するおじさんおばさんの滑稽さに、私たちは冷笑を浮かべるようになっていた。

 世論に真正面から逆行しながら育ってゆく本部基地。
 あの悪夢の日から半年でできあがった黒い建物は、できてしまえば仕方がない、という市民の諦念と悲しみによって、やがて受け入れられた。どうせもう、東三門には帰れないんだし。


 そしてそれと時を同じくして、あやちゃんは復学することになったのである。


 正直なところ私たちはかなり覚悟していた。どんな姿で戻ってきたって絶対受け入れるんだ、できる限り支えるんだ、一緒に頑張るんだなんて思ってた。
 だけどその日、影浦くんにおんぶされて三階の教室にやってきたあやちゃんは、拍子抜けするくらい以前と同じ柔らかな笑顔を浮かべていた。

「わあ、みんなお久しぶりー!」
「……あやちゃん!」

 影浦くんの後ろから、車椅子を抱えた担任がやってくる。あやちゃんの席は出入りがしやすいように教室の廊下側前方に固定されることになっていた。影浦くんは手慣れた様子であやちゃんを車椅子にぽいっと座らせ、怠そうな手つきでそのポジションに彼女を連れていく。
 すぐに女子が席の周りを取り囲んだ。

「あやちゃん、ほんと……元気になってよかった……」
「会いたかったよ〜〜」
「えへへ、ご心配おかけしました」

 三年生に上がる前に戻れてよかったよぉ、とぽやぽや笑うあやちゃんは半年前と全然かわっていなかった。
 かわっていないように見せようとするその姿が痛々しかった。


 私たちの覚悟とは裏腹に、彼女は日常の大抵のことを一人で済ませることができた。
「たすけて〜」って声をかけてくるのはトイレのときくらい。あとは一人で車椅子を操って動いていたし、移動教室や登下校なんかで階段の上下が必要なときは「まさと」と影浦くんを呼んだ。
 影浦くんはその声に必ず応えて、絶対にあやちゃんの移動に手を貸す。むしろ自分以外の誰にもあやちゃんを運ばせる気はないみたいだった。

 あんまりにもあやちゃんが影浦くんを頼りにしているものだから私はなんだか妬けてきて、一回だけ「私だってあやちゃん支えたいのに」と烏滸がましいことをぼやいたことがある。
 すると彼女は翳のある微笑みを浮かべた。

「移動はまさとにお願いするって決めてるの。まさと以外の誰かに介助してもらってるとき、万が一転んだり怪我したりしちゃったら大変でしょ。だからまさと以外の人には頼まないしまさともわたしのこと他の誰かに運ばせないでって約束してるんだ」

「……影浦くんなら絶対大丈夫なの?」

「まさとだって転ぶこともあるかもしれないけど、そしたら『まさとのドジ』って笑っちゃえば済むことだから。きっとそうしようねって、約束したから」


 やがて中学三年生のあいだに影浦くんはボーダーに入隊した。あやちゃんもそのあとを追うように戦士となった。
 車椅子のあやちゃんは一体ボーダーで何をどう戦っているのだろう? 疑問に思って訊ねたこともあるのだけれど、機密に触れるかもしれないからと教えてもらえなかった。
 ただ翌年、三門市立第一高等学校に入学したとき、ボーダー関係者と思しき男の子と親しげに言葉を交わしていた。ボーダーの公式サイトにも名前が載っているし。彼女は彼女なりの戦いを見つけたのだろう。


▲ ▶ ▼ ◀


「あやちゃん今日の帰りドーナツ食べにいこ!」

 と誘ってみたところあやちゃんは「いいよー」とにっこり笑った。
 大規模侵攻から四年と少しが経ち、私たちは高校三年生になっていた。

 一応受験シーズン真っ只中だけど、私は県外私大にすでに進路を決定しており、あやちゃんももう決まっているらしい。詳しく聞いていないけど、ボーダーの隊員は三門市立大学に進学することが多いそうだから多分そのへんだとおもう。

 あやちゃんは去年あたりから、影浦くん抜きで外を出歩くことが増えてきた。
 今ではこうして学校の帰りに寄り道なんかもできちゃうわけ。まあ影浦くんは相変わらずあやちゃんにべったり──というと言い方が悪いか、彼女が怪我しないようにいつも気を払っているけど。

 あやちゃんが食べ終わったお弁当をきれいに包み直していると、自販機に飲み物を買いに行っていた影浦くんが戻ってきた。彼が教室を出る間際に「はいっ、わたしフルーツオレ!」と挙手して注文したあやちゃんの飲み物も手に持って。
「ん」とあやちゃんの頭の上に紙パックのフルーツオレを置く。
 よく見る光景だけど、何度見ても好きな子に意地悪する小学生男子みたい。

 影浦くんはあやちゃんが車椅子で戻ってきてから、そしてボーダーに入隊してからというもの、めっきり丸くなっていた。高校に入学して、ボーダー関係の知り合いがたくさんいたのもいいほうに転んだようだ。中学の頃みたいなトゲトゲはもうあんまり感じない。
 もう誰も彼のことを頭おかしいなんて陰口叩かないし、怖いとも思っていない。彼もまた三門を、私たちを守ってくれる戦士なのだ。

「まさと今日の夕方シフトだっけ?」
「おー」
「おみやげ何がいい?」
「別に。いらね」
「あれ買ってきてあげるね、なんだっけほら、チョコかかってるやつ」
「いらねーって」
「あ、期間限定のベリー味のほうがいい?」
「聞けよ」

 兄妹かカップルみたいな微笑ましいやりとりをフフフと眺めていると、こっちを見た影浦くんがものすごく嫌そうな顔になって歯を剥いた。たまに影浦くんがやるこの「がおー」って仕草、シュールで面白くて好き。昔はそんなキャラじゃなかったじゃん。
 ついでにあやちゃんも指を丸めた両手を上げて「がおー」ってやってる。あまりにもかわいい、好き。

 おじさんにはコレでおばさんにはアレで〜と指折り企んでいるあやちゃんに、影浦くんは「ア〜〜いらねっつってんだろ!」と文句を言いながら車椅子のハンドルを掴んだ。うっせぇてめえなんか席戻れバーカ、なんとまあ子どもみたいな悪態をつきながら、あやちゃんを元の席に連れていく。

「あーっ、ちょっと、お弁当とジュースまだ机の上なのに!」
「悔しかったら自分で歩いて取りにこいバーカ」

 その言いように、私は盛大に呆れた。
 中学時代にどっかよそのクラスの男子が「実は歩けるんじゃねーの」と心無いことを言った瞬間、猛獣のようにキレ散らかして机を引っくり返した人がよく言うわ!

 ちなみにあのとき、先生すら突き飛ばされクラスの女子も泣き叫んでどうしようもなかった惨状を止めたのは、車椅子に座って茫然とその様子を見つめていたあやちゃんだった。
「まさと」と静かにつぶやいた声を聴いて、ぴたりと影浦くんが動きを止める。
 あやちゃんは車椅子を操って窓際に寄った。しんと静まり返る教室のなかで、からからと窓を開けて、両腕で桟に掴まり体を持ち上げる。
 その窓は外に面している。教室は三階。

「それ以上やるなら今すぐここから飛び降りるよ」

 恐ろしい脅迫だった。
 誰もが息を呑んで見つめるなか、影浦くんはそばに転んでいた机を蹴り飛ばしてクソがと吠えた。多分気持ちを落ち着かせるための最後の一発だったのだと思う。そしたらそれを『それ以上』にカウントしたあやちゃんが躊躇なく窓の外に落っこちようとしたので全員で悲鳴を上げながら慌てて止めたのであった───

 ……という懐かしい思い出話を、私と同じく微笑ましい顔で二人を眺めていた穂刈くんと村上くんに聞かせてやると、ドン引きの表情になってしまった。ごめんて。

「理世ちゃん、強い……」
「強いな」



 中学生の頃の……特に大規模侵攻より以前の影浦くんは、いつもイライラしていた。
 ぼさぼさ頭やマスクで顔がよく見えないし、目つきが悪くて態度も悪い、すぐに男子に突っかかっていくしケンカになる。別に徒党を組んで誰かをいじめるとか煙草を吸っているとかそういうステレオタイプではないけれど、十分『不良』に入る生徒だったと思う。
 それでも毎日ちゃんと学校に来るし、宿題をやってなくて先生に叱られるところは見たことない。委員会や部活には属していなかったけれど、給食当番とか掃除をさぼることは滅多になかった。宿泊研修で同じ班になった子は、なんかずっとイライラはしてるけど仕事はしてた、しかも飯盒炊爨の手際がよかった、と怯えながらも安堵していたっけ。
 ぎりぎりのところで影浦くんを『こっちっかわ』につなぎとめていたのは、あやちゃんなんじゃなかろうか、と私は思っている。勿論それだけじゃないだろうけど、大きい存在だったのは間違いない。

 だからだろうかあやちゃんが入院している間の影浦くんは殺気立っていた。
 なるべく刺激しないように、逆鱗に触れないようにとクラス中が怯えるほど。普段影浦くんにちょっかい出して返り討ちにされていたお調子者も、この時期ばかりは空気を読んだ。
 あやちゃんが戻ってきてからの影浦くんは、彼女の移動の手伝いをしていることもあってか癇癪を起こすことが少なくなった。


「まさと」ってあのまぁるい声で呼ばれるのが好きなんだと思う。
 永遠にもう呼ばれないかと、覚悟した時期もあっただろうから。


 あやちゃんの家族と歩みの喪失。
 そんな細い糸でつながった二人の関係はひそやかで、いびつで、醜くも美しかった。



「あやちゃん、リハビリの経過どんななの?」

 ドーナツ屋さんは満席だったので、わたしたちはドーナツをいくつかと飲み物を購入して、公園にやってきていた。
 外でピクニックするには寒いんだけど、今日は陽射しがぽかぽかしているから気持ちいい。

「手摺に掴まってたらけっこう歩けるよ! 掴まらずに長時間はまだ厳しくて、先は長いなぁって感じ」
「そっかぁ〜」
「早く歩けるようにならないとまさとの上半身がムキムキになっちゃう。もう手遅れかなぁ……」
「なにそれ面白い」
「毎日わたしのこと運んでるからさ、冗談じゃなくてほんとに腕の筋肉が。マッチョなまさとなんて可愛くないもん」
「影浦くんのこと可愛く見えるのあやちゃんくらいだよ」

 あやちゃんの歩行障害は、『気持ちの問題』なのだと聞いたことがある。
 救出された直後は本当に重傷だったそうだ。全身包帯グルグル巻きだったんだよーと笑っていた彼女は、幾度かの手術を経て退院してきた。雨の日とか気圧が低い日は辛そうにしていることもあるけど、それ以外はもうなんともないらしい。
 本当は、歩けるはずなんだって。
 だけど心のどこかで強く「歩いてはいけない」と思っていて、それが体にブレーキをかけている。

「いつまでも介助してもらうわけにいかないからねぇ。春からは影浦家を出ようと思ってるんだ」
「えー! そうなの? もういっそのこと結婚しちゃえばいいのにって思ってた」
「あはは、まさとにも択ぶ権利あるよ、」

 いやいや影浦くんの場合は……どう考えても……あれ、違うのかな。
 昔っからあんまりにも自然にあやちゃんは影浦くんの世話を焼いて、途中からは影浦くんがあやちゃんに手を貸して、っていう感じだったから少なくとも嫌い合ってはいないだろうけど。あやちゃんとしてはあくまで同居人、ってこと?
 まあ一緒に暮らすことになった事情が事情だけに、少女マンガやドラマみたいに「好きだ! 俺が一生お前を守る!」とはならない、んだろうな、っていうか影浦くんだしな……。言わなそう。

「なかなか言い出せなくてさ。あとまさとに話すだけなんだけど」
「影浦くん反対しそう……」
「そうなんだよねぇ。おじさんとおばさんにも『雅人を説得できたら自由にしなさい』って言われちゃって」

 そうやって、影浦家へのお土産のドーナツを膝の上に置いたあやちゃんと、他愛無い話をしながら遊歩道を歩いていたときのことだった。


 突然頭上で何かが弾けたような音がした。
 バチッ、と。


 両眼を見開いたあやちゃんが上空を振り仰ぐ。その視線を追った私の目の前で、黒い球体が黒い静電気を散らしながら大きな口を開けた。
 これは、テレビで何度も繰り返し見た、あの運命の日の───


『緊急警報、緊急警報、門が市街地に発生します』
『市民の皆様は直ちに避難してください』


「……ゲート……!?」


 絶望が形を得たような黒い門から、のそりと巨大な虫のようなネイバーが姿を現した。
 最初なにが起きたのかわからず、私は呆気にとられてその一部始終を眺めていた。だって、門って。ネイバーは東三門にできたボーダー本部の誘導装置のおかげで警戒区域にしか現れないはずで、市街地に門ができるなんて……有り得ないはずで。
 見上げるほども大きなネイバーが目の前に降り立った。カメムシみたいなやつだった。三体もいる。

 そのとき頭のなかでぱっと浮かんだのは、なぜか影浦くんの姿だった。

 まもらなきゃ。
 何年もかけて影浦くんは私を信用してくれて、あやちゃんのお出かけの同行者に足る存在だと認めてくれた。だから私はあやちゃんを守らなきゃ。車椅子を押して、このネイバーから逃げなくちゃ。守らなきゃ。守れ。走れ。動け、体、動け、動け、──あやちゃんは走れないんだから!!

 あやちゃんの車椅子を方向転換しようと手に力を籠めた瞬間、


「トリガー起動、」


 と、鈴が鳴るような声が唱えて、あやちゃんは瞬く間にボーダーの隊服のようなものに着替えていた。体にぴたっと吸いつく黒い上着に、カーゴパンツに、ワークブーツ。
 えっと驚く私の目と鼻の先ですっくと立ち上がる。

 あやちゃん、私より背、高かったんだ。
 いつも車椅子に座る彼女を見下ろしていたから……気付かなかった。

 ネイバーは真っ先にあやちゃんを見た。わさわさと脚を動かしながら襲い掛かってくる。あやちゃんは悠然とそれを迎え打った。
 手足をぴくりとも動かさない彼女の左右に白く光る立方体が現れる、分割され、さらに細かく分かれてネイバーめがけて飛翔した。避けようもない弾幕の第一陣が正面からネイバーを食い荒らし、第二陣が後方から襲い掛かり、第三陣が頭上から降ってくる。あっという間に一体が沈黙した。
 即座に身を翻したあやちゃんの手には、いつの間にか刀のようなものが握られている。まるでゲームやアニメのような動きで跳び上がると、二体目を一刀に斬り下ろし、「旋空弧月」と返す刀で三体目を薙ぎ払った。

 唖然としていると、どこからともなくボーダーの隊員が降ってくる。
 地面に着地したのはあやちゃんと同じような服を着た影浦くんだった。もはやトレードマークみたいになっているマスクをしていないけど、このウニみたいな頭は間違いない。

「影浦現着。……おい、理世がもう倒してんぞ」
「噂には聞いてたけど、ほんとに誘導装置が効かないんだね」
「三体だけか?」
「たぶん」

 呆気に取られたまま立ち尽くす私を見たあやちゃんが、ふにゃりと眉を下げる。

「怪我してない? びっくりしたよね、ごめん」
「い、いや……どっちかっていうとあやちゃんの強いのにびっくりして……」
「あはは、照れますなぁ」

 あやちゃんは、車椅子のハンドルを強く握りしめたままの私の手を優しく撫でた。
 動けなかった。体が、動き方を忘れたように固まっていて。

「あ……あれがネイバー?」
「間近に見るのは初めてだよね。怖かったね、もう大丈夫だよ」
「あやちゃん、いつもあんなのと戦ってるの……」
「いつもって程ではないけど、そうだよ」

 優しい、とてもやさしい微笑みを浮かべたあやちゃんはもういつもの彼女だった。先程の、ぴくりとも表情を動かさずに近界民を屠った冷たい横顔はどこにもない。
 けれどどこかぞくりとするような。
 なんだろう私、あやちゃんのこの表情どこかで見たことある。

 ああそうだ、「私だってあやちゃん支えたいのに」なんて身の程を知らない発言をしたときの、どこか翳りを孕んだ微笑みとおなじ……。

「理世」と、影浦くんがしずかにあやちゃんを呼んだ。
 あやちゃんは彼を振り返らないままうつむいて、私の手をずっと撫でている。

「まさとあのね、わたし、高校卒業したらボーダーに就職する」
「……は?」
「影浦家を出る。まさとが助けてくれなくても生きていけるようになりたいの」

 わたしはその瞬間の影浦くんの顔を、一生、一生忘れないだろう、
 三白眼が大きく見開かれて、眉は微妙に歪んでいた。ひどく傷付いた、突き放された、拒絶された、捨てられた子どものような、寂しそうなその顔を。

 二人は無言だった。私も何を言えばいいのかわからなくて黙っていた。
 やがてボーダーの職員みたいな人がやってきて、あやちゃんの倒したネイバーの残骸の回収とか、私に負傷がなかったかとか、何が起きたかの確認をしたあと、

 そのあと───





「……あれ?」

 ぱちりと目を開けると、薄い氷を刷いたような冷たい空が広がっていた。どうやら芝生の上に寝転がっているらしい。体を起こしてみると、先程あやちゃんと一緒にやってきた公園の芝生広場だった。
 あやちゃんは隣で両脚を投げ出して座り、買ったばかりのドーナツを食べている。

「あ、起きた?」
「うわー、ごめん、私寝てたんだ!」
「お天気いいから気持ちいよねぇ。でもそろそろ寒くなってきたし、帰ろ」

 あやちゃんはにこっとかわいい笑みを浮かべた。柔らかい真綿のような、影浦くんの大好きな……そして彼がかつて必死になって取り戻そうとしただろう、その笑顔。
 力なく芝生の上に伸ばされた両脚は筋力が落ちてほっそりしている。あやちゃんは傍らにあった車椅子に掴まると、よいしょ、と小さくつぶやきながら体を持ち上げた。復学してすぐの頃は立ち上がることも夢のまた夢といった感じだったのに。

「本当はね、もう歩いてもいいんだって解ってるんだ」
「……うん?」
「あの頃は、生き延びてしまったことが申し訳なくて、早く終わりにしたいなって思ってて。でもまさとが、楽になるなんて許さねえ、死なせてなんかやるもんか、って怒鳴ったから……まさとと一緒にいよう、せめて三門を守って戦おうって、ボーダーに入ったりなんかしてさ」

 あやちゃんは車椅子の手摺に掴まって中腰で立ち上がったまま、そこにいてね、と微笑む。
 私は慌てて腰を上げた。スカートから芝生がひらひら舞い落ちた。両手を広げる。

「でももう、まさとのこと解放してあげなくちゃ」
「影浦くんは……縛られてるなんてきっと考えてないよ」
「そうかもしれないけど、わたしはまさとを縛っていると思うから。……一緒に戦うだけじゃなくて、ちゃんと隣を歩けるようになりたいなって思うの。昔みたいに」

 なのにまさとってば話も聞かずに怒っちゃうんだから。
 あやちゃんは唇を尖らせてぼやいたあと、車椅子に掴まっていた手を放して、細い二本の足で立ち上がった。よろよろと頼りない足取りで、でも一歩、二歩と私のほうに近寄ってくる。
 四年以上前、私たちは毎日のように肩を並べて歩いて、他愛のない話をしては笑いあっていた。あの大規模侵攻の日に運命が私たちを変え、彼女は戦士になった。

 ちょうど十歩の距離を踏破したあやちゃんが、私に抱きついてくる。

「変なの」
「ん?」
「いつも車椅子だから見下ろしていたはずなのに、あやちゃんが私より身長高いの、知ってたような気がする……」

 私はあやちゃんの腕のなかでこっそり涙を拭った。彼女はふふふとまたやさしい笑みを浮かべて私の体を抱きしめた。

 喪失の糸でつながれていたあやちゃんと影浦くんが、今度はもっとやさしくてあたたかい気持ちで結びつくといい。彼女の心の暗く重たい冬が明け、ようやく春を迎えようとしている。それは私たちの、確かな復興の歩みのひとつであった。



.