「雅人、こちら引っ越してこられた井實さん。理世ちゃんは同い年なんだって。仲良くしてもらいなさい」

 そいつが近所に越してきたのは、小学校に入る前のことだった。
 生まれたばっかの弟を抱いた母親と、優しそうな父親の脚の後ろに隠れるようにして、チラチラとこちらを見ている小さなガキ。
 俺のほうは母親に頭を小突かれながら玄関に出たから不機嫌で、あとそいつがこっちを見るたびにムズムズする皮膚感覚がなんだか不快だった。ふわふわのぬいぐるみの手で顔中撫でられているような感覚。落ち着かない。
 和やかに会話する大人たちの声を遮って「こっち見てんじゃねぇよブス!」と吐き捨てたら、母親に殴られた。あんた女の子になんてこと言うの!


まだ春の鼓動を知らない、いち



 死ぬほどクソ鬱陶しいこのサイドエフェクト(ボーダーに入隊するまではサイドエフェクトという言葉さえ知らなかったわけだが)のせいで、ガキの頃の俺は常にイライラしていたように思う。いや今でも理世には「まさとは今日もイライラしている」と笑われるんだが。

 初対面で「こっち見てんじゃねぇよブス!」と悪態をつかれたにも拘わらず、家族でウチの店に現れたあいつは「まさくん」と笑って手を振ってきた。バカじゃねーの。ブスの意味を知らなかったにしろ、よくないことを言われたことくらい解っただろうに。
 なのに、初日と変わらずあいつが俺を見るたびにふわふわ、ムズムズと頬を撫でられるような感じがして、やっぱり気持ち悪かった。

「まさくんちのお好み焼きおいしいねー」
「……はぁ……」
「まさくん毎日こんなお好み焼き食べてるのうらやましい!」
「さすがに毎日お好み焼きじゃねぇよ。あとまさくんて呼ぶな気色悪い」
「まさくんて名前まさくんじゃないの?」
「まさとだ、まさと」
「まさと! わたしは井實理世です」

 知ってる。こないだ聞いた。
 どうやらこいつは俺と仲良くなりたがっている、らしい。趣味が悪いな……。どういう思考回路してんだ。

 ムズムズする感覚は本当にもう叫び出したいくらい気持ち悪いのだが(想像しろよ四六時中顔を羽毛とかで撫でられてるようなもんだ)、ブスと悪態ついた手前ちょっと気まずくて、それ以上強硬な態度を取ることも(当時の俺には)できず、結局大人たちの思い通りにややぎこちない交友がはじまることになったのだった。

 べつに劇的でもなんでもない、これが俺と理世の出逢い。




 死ぬほどクソ鬱陶しいこのサイドエフェクトとのつきあいは、小学校に入ってからが地獄だった。
 自分に向けられる感情の数々に耐えられなかった。当時は何が自分の体に刺さっているのか解らなくて、痛くて、不快で不快でしょうがなかったのだ。
 自分の感覚を十分に言葉にすることもできず、「触るな」とか「刺すな」とか反発しているうちに、すっかり頭おかしいやつ扱いを受けるようになっていた(実際、精神科にも連れていかれた。藪医者は「雅人くんは他人の感情に敏感なようですね」と当たり障りのないことを言った)。

 小学校で言い合い取っ組み合いなんてしょっちゅうだったし、そうやって悪い噂が広まると町中でも妙にグサグサチクチクくるようになる。問題行動が増えるにつれて、家族から受ける不快な感覚も増えてきた。戸惑いや苛立ち。ときどき恐怖。それらは全て、抓られるような──刺すような──抉るような──そういう痛みとなって俺を苛んだ。
 結局、自分ちの部屋に一人でいる時間が一番平和だった。
 一人がいちばん気楽だ。
 誰も、俺を見ていないときが。

 小学校の高学年にもなるとさすがに、自分の体質が他人とは違うと理解しはじめた。
 この痛みは、不快感は、他人にはない。俺は真実頭がおかしい。そういうふうに納得しかけてさえいた。
 四軒隣に住む理世だけは、アホなのかバカなのか知らないが、昔からずっと同じだ。ふわっふわのぬいぐるみで顔を撫でている感覚。……と説明したらわざわざ自分ちからテディベアを持ってきて「こんな感じ?」と顔に押しつけられたことがある。唐突な行為に腹は立ったが大体そんな感じだった。

「まさとさ、昔『ふわふわ俺に触んな、気持ち悪りぃ』って言ったじゃない。だからわたし、しばらく自分には超能力があるんだと思ってたんだよ。ほら触ってないのにものを動かせるってやつ!」
「お前バカなのか?」
「まあしばらくして違うなって気付いたけど。じゃあまさと専用の超能力? とも思って」
「お前バカなんだろ?」
「まあしばらくして違うなって気付いたけど」

 さすがにそこまでバカじゃなかったか……。理世は至極真面目な顔をして、顎を右手の親指と人さし指で挟んで探偵みたいなポーズをした。

「まさとはいつもイライラしてるけど、なににそんなに怒っているの?」

 その日も俺は学校で殴り合いのケンカになって早退させられていた。

 休み時間にクラスの連中が刺してきて、うぜぇ刺すなと言ったら、また影浦変なこと言ってやがると茶化され、腹が立って机を蹴り飛ばした。そのまま教室で殴り合いになり、無謀にも止めようとした理世がクソ野郎に突き飛ばされて、理世は関係ねぇだろうがとまた腹が立って。
 学校に迎えに来た母親がぺこぺこと頭を下げるのが情けなくて、どうしてどいつもこいつも俺のこれがわかんねぇんだよと、今思うとだいぶ独り善がりな苛立ちを感じていた気がする。
 俺のせいで母親が頭を下げて謝っている。俺がこんなだから。変だから──頭おかしいから。

 俺だけがおかしいのか?
 なんで俺だけ?
 俺が一体何をした?
 存在を信じてもいない神を呪ってみたことさえある。多分カミサマってのは最高に不平等で不公平で偏っていて、誰のことも救いはしないんだ。

「アイツらのほうが刺してくんだろ。ムカつくんだよ」
「その『刺してくる』っていうの、わたしにはわかんないんだよね。どの辺を、どんな風に? わたしやおじさんやおばさんもまさとを刺してるの?」
「……顔とか首の後ろとかが痛てぇ。お前は別に、ただ気色悪りぃだけだけど」
「えー、ふわふわぬいぐるみの感触でしょ? あれ気持ちいいじゃない」

 ベッドに寝転ぶ俺の足元に座り込んで、理世はむむむと首を捻った。
 やがて「はっ」と何か思いついたような顔をして、俺の上に覆いかぶさってくる。

「ンだよ」
「ちょっと実験!」

 理世はじっと俺の顔を見下ろした。
 顔面、特に頬の辺りに不快な刺激がやってくる。ちくちく、ちくちく、木のささくれたところで細かく刺されている感覚。痛みというより不快感。
 理世からこんなものをくらうのは初めてだった。
 頭が真っ白になって、思わず乱暴に体を押し返していた。

「っやめろ!」
「今のどう?」
「どうじゃねえよ、お前……!」
「ねえ、じゃあこれは?」

 性懲りもなく俺の肩を掴んで顔を見つめてくる。今度はいつものやつだ。柔らかいもので頬を撫でられているような、くすぐったいようなムズムズするような。背中までぞわぞわしてくる。これはこれで気持ち悪いんだって何度も言ってんのに。

「ア〜〜お前もう変なの刺すんじゃねえ、出て行け!」
「なんていうかなー、まさとは『まさとに対する感情』が、触覚に変換されちゃってる感じするよねぇ。感情の種類によって触られ方が違うんでしょ?」
「はああ!?」
「わたし最初『まさとほんとにいつもイライラしてるし、すぐケンカ売るし、どうしようもないなぁ』って思ってみたの。それで、次は普通に『でも悪いやつじゃないんだよね』って」
「おい。おい俺のことどうしようもねぇって思ってんのかよコラ」
「後半部分を全然聞いてないじゃん」

 いや、……聞いてるけどよ。
 俺の上からどいた理世を追うようにして上半身を起こす。そうしてベッドの上に腰を下ろして向かい合った。

「嫌な感情を向けてる人からは刺されてる気がするし、だからわたしはぬいぐるみなんだろうね」
「……じゃあお前は、なんの感情なんだよ、」
「別に、なんにも考えてない。まさとはまさとだなぁって思ってる。頭おかしくないし、変じゃないし、案外面倒見がよくて、けっこう優しいよね、あとお好み焼きつくるのうまくなってきた!」

 理世は俺の両頬を指先でそっと撫でた。刺してごめんね、嫌だったよね、とつぶやいて。
 理世の向ける感情も相まって、洗いたての毛布にくるまっているような気になる。

 ああこの感情ならずっと触っていてもいいのにな。悪くないと思うのに。理世の感情だけがずっとあればいい。
 どうして世のなか、俺に悪意を剥くやつが多いんだろう。
 放っておいてくれれば、感情を向けずにいてくれれば、無関心でいてくれれば、それでいいのに。

 体の奥の内臓が熱くて、眼球が痛かった。
 理世は気付いているのかいないのか、ぺたぺたと俺の顔に触れている。

「服着てる部分はそうでもないんだよね?」
「……お前がたまに呼んでんのはわかる」
「あ〜〜『まさと助けてー!』って背中を凝視してみたときのことね。あれはランドセル重くて潰れそうだったからつい。感情の強さによって服も貫通するのかぁ……」
「便利に使ってんじゃねぇよ……」

 こいつのこういうとこが、すごく、疲れるなと思うしいいなとも思う。
 俺も家族も持て余すこの感覚も苛立ちも衝動も、なぜだか大らかに受け止めてくれる、びっくりするほどの鈍感さ。バカなんじゃねぇかなと思い続けてかれこれ六年ほど一緒にいるのだが、理世は鈍感でもバカでもなくて多分ふつうに傷付いて泣くし成績は俺よりいい。
 本当に、意味がわからないが、『でも悪いやつじゃないんだよね』っていうのを本気で信じているんだろう。

 俺は自分のどこが悪いやつじゃないのか、全然わかんねぇよ。

「中学校に上がったらマスクとかしてみたら? 髪の毛も校則違反じゃない程度に伸ばしてさ」
「マスクなんかしたらまた絡まれんだろ」
「今さらじゃん!」
「…………」

 ぐぅの音も出ねぇ。




 それから理世は俺の体質を、言葉で解き明かそうとした。
 どの感情がどんな風に刺さるのか? 距離や向きは関係あるのか? 何か物で遮ることができるのか? 刺さらない感情はあるか? 皮膚を隠せばいいのではないか?
 そういったものが詳らかになるにつれて、俺も俺で、腹立たしさを制御できるようになっていった。理世は色んな感情で俺を刺して、撫でた。テディベアを持ってきて顔面に押しつけてきて、それからふくくと笑いながら自分の顔にテディベアを押しつけて、「なるほどこれがわたしのまさとへの感情ね?」と満足げにうなずいたこともある。なんて恥ずかしいやつだ。

 中学は周囲の小学校が三校ほど持ち上がる。
 暇なやつは暇だから、中学に上がっても俺で遊ぼうとするやつはいた。髪を伸ばしてマスクをつけている姿を「イキってる」とか難癖つけられることもあって、俺はやっぱり取っ組み合い殴り合いに明け暮れた。
 五回に三回はケンカになって生徒指導室に叩き込まれたが、あとの二回が無視できるようになっただけ成長だ。

 たまに爆発しそうなとき、理世がひょこりと教室に顔を覗かせて「まさと」と声にせずに呼んできた。ふわふわ、ムズムズする例のやつ。廊下を歩きながらこっちを見て微笑む理世を、少し距離を取って追いかける。
 言葉も声もいらない理世の呼び声。便利に使ってんじゃねぇよと口では文句を言うようにしているが、これはこれで慣れてきた。
 そういうときに理世が向かうのは、パソコン室とか第二音楽室とかが並ぶ、休み時間にはわざわざ誰も来ない校舎の最上階だ。

「ンだよ……」

 理世は俺の手を取って、屋上へ続く階段の踊り場に腰掛ける。
 屋上はずっと施錠されているから本当に誰も来ない。昼休みの喧騒だけが遠くに響いているしずかな場所。
 肩が触れるくらい近くで並んで、座る。
 四六時中マスクをしているのにはだいぶ慣れたけど、息苦しいと思うときも確かにあった。どうせ理世以外誰もいないから、マスクを外して、ひもの部分を指で遊ばせる。

「今日の給食おいしかったねー。わたし、りんごのじゃんけん参加しちゃった!」
「……デブるぞ」
「りんごくらいじゃ太らないよ! かげうらのお好み焼きのほうがよっぽど罪深いよ」
「でも好きなんだろ」
「好きーおいしいー。まさとの焼くお好み焼きも上手でいつも幸せ!」

 すき、すき、って理世のふわふわが頬を撫でた。やめろ、くすぐってぇ。

「わたし高校生になったらかげうらでバイトする! それで賄いで毎日お好み焼き食べるんだー。おばさんと約束してるの」
「毎日はやめとけ」
「食べたぶん働いて勉強もするからいいんですー」

 ……いいな、それ。

 息苦しいし腹が立つし痛いし不快なことばかりの毎日だけど、こうして理世がたまに撫でてくれるなら、家に帰ったら理世がバイトしながらお好み焼き食ってるなら、こんな人生でも多少はマシな気がしてくる。


 これから先、一生このクソみてぇな体質と付き合っていかなきゃなんねぇとしても、理世がいつまでもこうやっててくれるなら。


title by Bacca

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