ワケもわからず振り回されていたこの体質を、理世は言葉で解き明かした。理解はできないまでも、受け止めようとしていた。理世ひとりのその真摯な態度が当時の唯一の光明だった、ムカつくことに。
『まさとに対する感情の種類が触覚に変換されている』、サイドエフェクトという体質が判明するまでは、理世のこの言葉が俺の定義だった。
 ボーダーに入隊してランクが程々に上がると、不意打ちが決まらないことの手っ取り早い説明として「影浦は人の心が読めるんだ」みたいな言い方をされるようになるのだが、そんな便利な能力では一切ない。



 そんな便利な能力ならあの日、あのとき、俺は理世を家のなかに一人になんてしなかったはずだ。



 三門市周辺に住む多くの人間の運命を変えることになったあの平和な休日の朝。
 俺が家でゴロゴロしているうちに事態は始まり、テレビの中継でいま自分の住む地域に何が起きているかを知った。家族総出で一応近所の学校に避難することにして、俺たちは井實家のインターホンを鳴らした。誰も出ない。というか、車が一台ない。

「日曜日はね、朝から東三門にお買い物に行くの。夜はかげうら行くからね」

 ……そうだ、あいつ、そう言ってた。

 血の気が引いた。呼吸の仕方も忘れた。理世は携帯電話を持っていないから、俺はあいつの両親の番号を登録している。どっちも出なかった。つながりさえしない。
 避難所として開放されている中学校の体育館には生徒が避難してきて、見覚えのある顔が無事の再会を喜び合っていた。そのなかに理世がいない。理世のおっさんも、おばさんも、六つ下の弟もいない。

 井實家の誰とも連絡が取れないまま一週間が過ぎた。
 理世が入院しているという病院から影浦家に連絡が来てようやく、俺たちは、井實家の両親が行方不明になり弟らしき遺体が発見されていることを知ったのだった。

「雅人、理世ちゃん、入院してるって。今すぐ病院行くよ!」

 一家全員飛ぶように駆けつけた先の三門市立総合病院に、理世はいた。

 理世はショッピングモールの中で瓦礫に脚を挟まれ動けなくなっていたところを救助され、手術を受けていた。切断は免れたが損傷具合がけっこうひどい、リハビリを頑張れば歩けるようにはなるでしょうが、元通りの運動たとえばスポーツなんかは困難でしょうと説明された。
 顔に大きな絆創膏を貼って、両脚を布団のなかに投げ出した理世は、歩くどころかまだ動くのも喋るのも困難なように見えた。入院に関する諸々の手続きを代理で進める両親と別れて、ひとり理世の傍らに立つと、気配を察した理世は億劫そうに首を動かしてこちらを見上げる。

「理世」
「まさと……、ぃたいよう」
「……どこが」

 我ながら間抜けな質問だった。理世はふふと気が抜けたように笑って、ぜんぶ、と答える。目尻から涙が零れたから、指先で拭ってやった。

「おなか、へった」
「……退院したら好きなの焼いてやる」
「ほんと? やった」

 すき、すき、っていつものふわふわと一緒に、ヘラで顔面を抉られるような痛みが刺さった。
 なんだ、これ、この感情。
 感じたことのない理世の感情に戸惑って思わず手で顔を隠すと、理世は小さく「ごめん」とつぶやいた。俺を刺した自覚があるのだ。

「ごめん、ごめんね、まさと」
「っにがだよ……お前何考えてやがる……」
「ちょっと、色んなとこ痛くて……。ごめん、やだよね」
「やめろ、謝んな、」
「ごめん、まさとに怪我なくてよかったって思ってるのに。なんで……、やだ、こんなのやだぁ」

 どう考えたっていま一番痛くて痛くてしょうがないのは理世のはずなのに、理世は俺に痛みを与えていることを本当に申し訳なさそうに謝るから、かえって惨めな気分になった。
 起き上がることもできずにぼろぼろ泣きながら呻く理世が痛々しくて直視できない。

「まさと、もう来ないで、はなれて」
「うるせぇ」
「元気になるまで来ちゃだめ、ね、おねがい。まさとのこと刺したくないよ」
「いい……いいから、こんくらい」
「うー、いたい、やだ、もう、痛い。なんでわたし、こんな、」


 ──なんでわたしこんななってまでいきてんのぉ


 涙と一緒に血でも吐きそうな声音で絞り出した理世の言葉が、確かな痛みを伴って俺の喉を深々と刺した。


まだ春の鼓動を知らない、に



 理世は生きていた。
 でも生きているだけだ。体が生に向かって動いているだけで、それ以外は全て死を望んでいるように見えた。
 俺は学校帰りの面会時間に理世の顔を見に行って、たまにどうしようもなく気持ちが塞いだときは学校をさぼって病院に行った。最初の頃はあの顔面を抉るような痛み、多分『妬み』に似た何かを理世から感じて、理世もまたそれを自覚していたから、「こないでって言ってるのに」と泣かれた。
 ただそれも、術後の痛みが落ち着くにつれて減っていった。

「わたしもう歩けないんだって」
「……リハビリすりゃ歩けるようになんだろ」
「わかるよ自分の体のことだもん。膝から下の感覚がないんだよね。多分ほんとに切らなくて済んだってだけで、傷痕すごいんだろうし」

 理世は至極冷静に、ネイバーという呼称の公表された巨大生物の襲来を語った。
 おかしな黒い球体が口を開けたと思ったらその中からロボットみたいなのが出てきて、お店を破壊して人を食べてった、最初はみんなで逃げていたけど途中でお父さんとお母さんはあのロボットに食べられた、弟の手を引いて走っていたら瓦礫が落ちてきて潰れちゃった、瓦礫をどかそうとしたらわたしのところにも降ってきて脚が挟まれた、痛くて意味わかんなくてまさと助けてって思って、でもまさとのとこにこんなのが来てたらやだなまさと無事でいてねって思ったの。神様お願いまさとが怖い目に遭っていませんように、って。

「だから病院の人がね、影浦さんに連絡ついてみんな無事だそうですよって言ってくれて、よかったなって……ほんとに、よかったなって思ったんだよ」
「わかってる」
「なのに、わたし……ごめんね。無傷のまさとが羨ましいなんて、思って、本当にごめん」
「もういい」

 ベッドの上に投げ出されたままぴくりとも動かない理世の手を握った。
 ちいせぇ手。
 死体みたいに冷たい。

「……わかってっから」

 理世も家族も死ななかった俺には日常が戻ってきた。
 だけど理世の日常は二度と戻ってこないのだ。永遠に、喪われてしまった。
 多分カミサマってのは最高に不平等で不公平で偏っていて、誰のことも救いはしないんだ。だってそうだろう。そうじゃなきゃ、俺なんかよりもずっと善良で、まんまるくて白くてきれいで柔らかかった理世がこんな目に遭っていい理由がない。

「そういえばね、自分じゃ見えないからどうなってるか教えてほしいんだけど」
「あ?」
「背中。このあいだ抜糸したの」

 おもむろにそんなことを言った理世は上体を起こして、入院着を脱ぎ始めた。ぎょっとして目を逸らす。理世は笑いながら「だめだよ、まさと、こっち来て」と、ベッドに手を突いて体をひねった。
 理世の背中の怪我はけっこう大きくて、傷跡も残るみたいだと家族が話していた。

 しろい、ほそい背中。
 左肩から右の肩甲骨の下あたりまで、まだ瘡蓋も新しい派手な傷痕が残っている。縫い合わせた皮膚の感じが思っていた以上に生々しくて、目を逸らしたくなった。抜糸の跡か、斜めに走る傷の周りに、小さい穴みたいなのが等間隔に並ぶ。
 背骨や肋骨が浮いているのは、入院生活で筋力が落ちたせいだろうか。いや理世の裸なんて見たことがないから、これが元々なのかもわからないが。

「……痛てぇのかよ」
「痛み止め飲んでたら、そんなに。むしろこれから瘡蓋が痒くなるよって言われてるんだよね。やだなぁ」

 そろそろと指を伸ばして、いびつに盛り上がる傷痕をなぞる。理世は「くすぐったい」と首を竦めて、すこし笑ったようだった。

「けっこうひどい? 体育の着替えとか修学旅行のお風呂とかのイベントを回避しちゃいそうなくらい?」
「……は?」
「だって少女マンガでよくあるじゃん、女装して学校に通う男の子が体育の着替えとかプールの授業とかで使う言い訳。『背中に大きな傷があるから……』ってやつ」

 少女マンガは読んでねぇしお前も女装した男じゃねーだろ……と内心でつっこんだが、理世が言いたいのはそういうことじゃないんだろうなと思って黙った。
「こっから、こう斜めにいって、このへんまで」まあ、けっこうでかいな、と傷を撫でる。理世の入院がわかってから母親がしきりに「女の子なのにあんな大きな傷」と嘆いていたから、こいつも気にするのかもしれない。
 理世は上半身をよじってけらけらと笑う。

「もー、くすぐったいってば」
「あ? いつもの仕返しだザマーミロ」
「しかも思ってたより派手そうだし! やだぁ、ウェディングドレス着れないよこれ。いとこのお姉ちゃんが着てたドレス、背中ざっくり開いてたもん、こんなんじゃ彼氏できてもフラれちゃうねぇ」
「カレシぃ?」

 様々な方面に飛躍していく理世の話に、あほくさ、と小さく溜め息をついた。いきなり目の前で脱ぎだすから何事かと思ったのに、ぎょっとして損した。
 ウェディングドレスだの彼氏だの俺にフォローできる話題でもない。膝の上に広げてあった肌着と入院着を後ろ頭に投げつける。

 すると理世はおもむろに、体を抱きしめるようにして背中を丸めた。

「まあ、結婚式とか。……もう、ないか、こんな体じゃ」

 骨の浮いた肩が、震えていた。

「……理世」
「あははごめん変なこと言った、」

 乾いた声で笑った理世の、傷のない右肩に額を押しつける。
 背中以外の場所に触れないように、見ないように、傷付けないように、浮かせた両腕を前側に回すと、理世は弱弱しく指を絡ませてきた。

 どうしたって言葉が足りない。理世のように器用ではないから。
 今この瞬間だけ、理世にこのクソ体質を分けてやりたいと思った。
 そうすれば──傷があろうが歩けなかろうがお前の何かが損なわれるわけではないのだと、言葉としての形を得る前の俺の感情そのままを伝えてやれるのに。

「……この傷、理由にしてお前のことフるようなクソ野郎がいたら、ブッ殺してやる、」
「ふふ。まさとは過激なんだからなぁ」

 でもありがと、と零した理世の感情は俺の手の甲をやわらかく撫でていた。

 空気にふれて冷たくなりつつある理世の肩が、呼吸に上下している。
 曖昧にからんだ指の付け根で鼓動が交わるのを感じた。


 理世はどうしようもなく生きていた。




 半年近く経って、何度かの手術と心ばかりのリハビリを終えた車椅子の理世が影浦家にやってきた。

 理世が入院しているうちに三門市議会は、東三門一帯の住民の全戸避難を決定した。放棄させられた東部地域は、あの悪夢の休日に降臨した『ボーダー』とかいう組織の管理下に置かれることになり、その本部基地の建築がはじまっている。
 俺たちの住む辺りはぎりぎり被害を受けていなかったが、ネイバーの活動範囲なんかを鑑みて将来的に警戒区域になる可能性が高いと通達されていた。商売やってるうちは他人事じゃない。早めに新しい店舗に移転することを考えたほうがいいんじゃないのかとか、両親は夜な夜な話し合っているようだった。

 退院した理世の面倒は、できるだけ俺が見るということになっていた。
 家族は店があるし、ここんとこ病院に入り浸っていた俺が一番扱いに慣れているというのもあるし、理世が「まさとに何でもお願いしちゃおっと」とポヤポヤ笑ったのも決め手になった。
 病院から影浦家に移動して一旦休憩したあと、理世の荷物をまとめるために井實家へ向かう。

 半年ぶりに帰ってきた実家を見上げて、理世はしばらく黙っていた。
 花壇の花はほとんど枯れている。駐車場に停まっているのはおばさんの車だ。おっさんの車は東三門のショッピングモールに停められたままどうなったかわからない。もう二度と戻らない家族四人の日常を、そうと知らずに待ち続けた家はどこか侘しい。
 理世は静かに笑った。

「まさとあのね、ちょっと一人になりたいな。リビングまでつれてってくれる?」
「……わぁったよ」

 まず理世を家の前の三段ほどの階段に座らせる、車椅子を抱えて玄関のドアを開けて家のなかに上げる。もう戻らない家だから土足でいいと理世は言ったが、さすがに靴は脱いだ。それから理世を抱えて家のなかに戻り、リビングの車椅子に座らせた。
 理世の体は羽のように軽いとは言わねぇけど、まあ抱えて動けない重さじゃない。これから先きっと数えきれないくらいこうして抱き上げることになるんだろうなと、ボンヤリ考えながら玄関の外に腰を下ろした。これから先って、いつまでなんだろうな。

 ……ずっとかな。
 それでも別にいいかと、ごく自然にそう思えた。理世なら、べつに。

 油断していた。
 あの日から半年近く経っている。俺にとっては『もう』半年という感覚だ。
 両親は理世の親戚と連絡を取って、遺体が発見されている弟の葬儀を上げ、理世の意思を確認しながら今後の話を進めていた。
 祖父母は高齢だから脚の不自由な理世の介助は難しい。京都に叔父夫婦がいるが、子どもが小さくて難しい。他の親戚はどうだろうとか、裁判所とか後見人とかいう話になった辺りで理世が「影浦さんちにお世話になりたいです」と消え入りそうな声でつぶやき、そういうことになった。多分うちの両親は最初から、親戚縁者がダメだったらうちでと考えていただろう。
 現在二学期の終わりでもうすぐ冬休みにはいるから、明けて三学期から理世は復学することになっていた。

 この先のことが色々と決まって、理世は「学校に行ったら階段の上り下り全部まさとを呼ぶからね、覚悟してね?」と笑っていて。
 笑っていた。


 ──だから油断してたんだ。


「……一人になりてぇってどんくらいだよ」

 ふと、そう思った。俺はこの雪の降りそうな寒空の下一体いつまで待てばいい。
 まあ今さら遠慮する間柄でもねぇかと思って家に上がり、「オイ理世?」と声をかけたところで廊下の先が目に入った。
 リビングの扉が閉まっている。
 さっき理世を置いて出てきたときに、俺は閉めなかったはずだ。
 自分でもなんでここだと思ったのかはわからない。気付いたら走りだしてドアノブを掴んで勢いよく開けていた。内開きのドアは、すぐそばに座り込んでいた理世の膝と頭を強打した。

「いだっ……」
「……にしてンだテメエはァ!!」


 初めてその日、理世に手を上げた。


 今までも小突いたりドついたり頬っぺたを引っ張ったり引っ張られたり程度の子ども染みたじゃれあいはあったが、輪っかに結んだネクタイをノブに掛けて今しも頸を通そうとしていたその姿を見て理性の全てが吹っ飛んだ。
 ばちんっと強烈な音がして理世の体が転がる。
 頬を打った。

 馬乗りになって両肩を握りしめ床に押しつけて、とにかく口々に罵倒した。何考えてんだこのアホ、死なせるとでも思ったかバカ野郎、手口が姑息なんだよ気付くに決まってんだろ、せっかく退院できたってのにオマエは。勝手に死ぬな。俺の見えないとこで死ぬんじゃねぇ。……とか、まあ色々、本気でブチ切れていたのであまり細かくは憶えていないが、気付けば眼下で理世が泣いていて、はっとした。やっちまった。

 何が刺さる。
 今までずっと柔らかいぬいぐるみで顔面撫で回すようなくすぐったい想いを向けてきた理世が、その中に一抹の『妬み』みたいなものが混ざるようになって、でもそれも減ってきた理世が、この状況で何を向けてくるのか解らなかった。それを怖いと思う自分に腹が立った。俺はいつも自分のことばかりだ。
 果たして理世は、なにも応えなかった。

「…………」
「なんか言えよ、クソ理世……!」
「……、……」

 なにを喚くでもなく、訴えるでもなく、恨むでもなく、ただ静かに俺から目を逸らして涙を流す。
 もう誰も帰ってこない家の、誰も団欒しないリビングをぼんやりと眺めながら。


 首の後ろがちりちりと痛んだ。
 俺はこの正体を知らない。きっといつになっても、ずっと一緒にいたとしても、この痛みが名を得ることはない。
 それが、言葉というかたちを得る前の、理世の感情のすべてだった。


 どれほどの時間、理世の涙を見下ろしていただろう。
 呼吸のリズムがおかしいって気付いて、過呼吸になりそうだった理世をようやく抱き起こし、恐る恐る両腕で細い肩を支えた。抱きしめるという発想はなかった。泣くなとも、言えるわけがない。
 このまま泣き続けたら理世が蒸発して消えるんじゃねぇかって、バカみてぇなことばかり考えていた。

「わるかった」
「……、……」
「痛てぇか」

 理世の頬が赤く熱を持ち始めている。そろそろと伸ばした指先で撫でて、それから掌を当てた。脳裡に蘇ったのは、殺風景な病室で無防備な白い背中を俺に晒す理世の後ろ姿と、その大きな傷痕だった。


 俺の好きだった理世はもう二度と戻ってこない。


 このクソ鬱陶しい体質に塞ぎ込む俺が唯一の光明のように思っていた、なんにも変哲のない日常でぽやぽや笑ってぬいぐるみの手で俺を撫でる理世は、永遠に喪われてしまった。



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