放棄された東三門のど真ん中に建築された黒い建物は、中学校の教室からも見えている。
 三門市に現れた近界民に対抗する組織として名乗りを上げた界境防衛組織『ボーダー』。このあいだテレビでは新規隊員を招いた記者会見が行われていて、そこでは自分たちよりも少し年上に見える隊員が二人インタビューを受けていた。
 家族を守るためにボーダーに入りました──と爽やかに笑う隊員を、理世はじいっと見つめていた。
 今もそうだ。
 教室の窓から見えるボーダー本部基地、まるでそこに初恋の相手でもいるかのように物憂げに、常に視界の端に置いている。


まだ春の鼓動を知らない、さん



 復学した理世は順調に学校生活に馴染んでいった。
 入院中の学習が追いつかず勉強では苦労していたが、根が真面目なのでそう問題にならなかったようだ。日常生活にしたって、人当たりが柔らかくて友だちも多い理世の手助けをしたがるやつは多かったから、傍目に支障はなかったと思う。
 ただ階段を上り下りするときばかりは「まさと」と呼ばれた。俺以外の手を煩わせるのは気が引けるそうで、どんだけ周囲に男手があっても女手があっても、教師がいたって必ず「まさと」だった。

 それまでは「優等生の井實理世」と「問題児の影浦雅人」が一緒にいることを不思議そうに見てくるやつも多かったのだが、この件があってからそういうのはなくなった。
 つくづくあの日の近界民襲来は、様々な面で様々な方向に三門市民の運命を変えた、と思う。
 それでも時間だけは容赦ない。
 気付けば季節はひとつふたつと移り変わり、三門市の桜が開花しはじめていた。

「よし、行くよ、まさと!」
「へーへー」

 自宅の二階へつながる階段から少し離れたところで、理世は車椅子のタイヤにブレーキをかけた。室内用の車椅子は、外に出るときのそれと違ってタイヤが小さい。うちは車椅子生活を想定していない普通の一軒家で、普通の車椅子で過ごすには支障が多かった。理世の親戚たちが話し合って小回りの利くタイプを贈ってくれたのだとか。

 理世が車椅子の手摺を押さえながら上半身に力を入れる。腕の力で体を持ち上げているのを見て、こりゃ転ぶなと思いつつ、一応両腕を広げて理世が来るのを待った。
 へっぴり腰で立ち上がった理世は左足を引き摺るように一歩踏み出し、そんでベチャッと床に崩れ落ちた。

「痛い……」
「だろうな」
「そう思うなら助け起こして……」
「自分で起きろ」

 理世が自殺を試みたのは、実家に帰ったあの日だけだ。
 ……いちおう。

 毎日学校に通ううち笑顔も戻ってきたし、相変わらずムズムズする感覚で刺してくるようになった。表面上は立ち直ってきたように振舞うこいつを見て家族は安堵していたようだが、違う。
 絶対に違う。

 理世は死に場所を決めただけだ。ボーダーの基地を眺める横顔を見れば解る。

「理世」
「なんですかぁ、そこで高みの見物してるまさとくん」
「俺、ボーダー入っから」

 理世の呼吸が止まり、両眼が大きく見開かれる。
 そのままボロッと眼球落っこちそうだな……とあんま笑えないことを考えながら、俺はじっと理世を見つめ返した。どうにか体を起こして廊下に座り込んだ理世の視線を、静かに、しずかに受け止める。マスクをしていない顔面に痛みがあった。大袈裟に騒ぐほどでもない、だが無視もできない、そういう領域の曖昧な痛み。
 見も知らぬ他人やどうでもいい連中から向けられれば不愉快一択だが、これは理世の抱く感情で、この感じだと戸惑いや不安を孕んでいるのだと思うと気にならない。

「……、……なんで……」
「別に。暇だったし」
「暇なんて、理由で、そんな……」

 理世には黙っていたがこのあいだの土曜日、こいつを家に置いて出かけた俺はボーダー本部を訪れていた。俺と同じように入隊を希望する同年代数名と一緒に試験を受け、合格を言い渡され、軽い面接も済ませている。面接のあと検査も受けさせられた。

「サイドエフェクト、っつーんだと。『感情受信体質』」
「かんじょう、じゅしん……。もしかしてまさとがずっと言ってた、刺さるってやつ?」
「おう」

 幼い頃から俺を苛み続けたこの体質に、はっきりと名前がついた。
 昔に理世が言葉にして整理してくれただけでだいぶ自分の中では腑に落ちていたのだが、この体質にはきちんと原因があって、名前もあって、症状は違えど似たような特異体質の人間は他にもいるのだと知って、強い苛立ちとともに──確かな安堵も感じていた。
 納得はできない。なんだって俺だけこんな厄介なクソ体質なんだと恨めしくも思う。だが理解はできた。今度はこっちが利用してやる番だ。

「死なせねぇぞ」

 絶句する理世の両肩を強く掴む。

「──死なせてなんかやらねぇからな。ザマァ見ろ」




 大規模侵攻、と呼ばれる近界民の襲来から一年が経った頃、理世はボーダー入隊を果たした。
 俺は一足先に攻撃手として入隊して順調に訓練をこなしている。サイドエフェクトは人生で初めて役に立った。「攻撃する」という意思を膚で感じるこの感情受信体質は(それでもまあ不快な思いをすることのほうがまだ多いが)ようやく武器となりつつある。
 理世はオペレーターとして入隊した。
 いくらトリガーを使用するといったって車椅子の理世が戦えるわけがないし、そもそも性格的に戦闘にも向いていない。

 だけど、その日、理世は人生で何度目かの転機を迎える。

「やあ、はじめまして」

 ラウンジで学校の宿題を片付けていた俺と理世の前に現れたのは、

「おれは迅悠一。井實理世さんだよね?」
「はぁ……、そうですが」

 俺が辛うじて聞いたことのある「ジン」という名前も、入隊してまだ日が浅い理世は当然知らない。こてりと首を傾げながらも手を止めた理世の前に、迅悠一は見覚えのある物体を置いた。
 訓練用のトリガーだ。

「忍田さんのこと、憶えてる?」

 理世は迅悠一を見上げたまま動きを止める。忍田という名前に聞き覚えがあるらしい。
 眉を顰めた俺に目を向け、「わたしのこと救出してくれたひと」と端的に説明した。救出というのは訊くまでもなく、あの大規模侵攻の日のことだろう。

「忍田さんが、きみのことを気にしてた。一年前、弟くんの傍にいようとするきみを無理やり救出してしまったって」
「…………」
「弧月がセットしてある。忍田さんから、『もしもまだきみに刃が必要なら』と」

 しばらく混乱したようにトリガーと迅悠一とを見較べていた理世が、やがて縋るように俺を見た。
 この男がどういうつもりか知らないが、机に置かれたトリガー自体は俺が普段使用しているのと同じものだ。怪しいけど、怪しいものじゃない。
 踏ん切りのつかない理世の前に膝を折り、迅悠一は下から顔を覗き込んだ。

「おれの視た未来じゃ、きみは弧月を操る戦士だった」
「わたしが、戦士、ですか」
「そう。『未来視』がおれのサイドエフェクトなんだ」
「……未来、」
「だいじょうぶ。──きみは戦える」

「オイ」自分より立場が上の隊員だと理解はしていたが思わず肩を掴んでいた。
 俺も、家族も、理世を戦わせるつもりは微塵もない。そもそも俺以外はボーダー入隊も反対だったのだ。理世は戦士になって町を守ることよりも、まずは自分の心と体を治すことに専念すべきだと。
 オペレーターとして入隊するという妥協点でようやく全員が納得したというのに、この男は、理世に武器を与えようとしている。

「余計なことしてんじゃ──」
「まさと、待って……」

 理世は迅悠一と真っ直ぐに目を合わせた。
 得体の知れない微笑を浮かべたままの迅悠一に対して、理世は強張った表情でそれでも恬淡と、自分の意思で動かせない膝をするりと撫でる。

「忍田さんも迅さんもご存じでしょうけれど、わたしの脚、うまく動きません。お医者さんによると、手術が成功しているからリハビリすれば歩けるようになるそうですが、見ての通りです。迅さんはそれでも、わたしが戦えると思いますか」
「トリガーを起動してトリオン体に換装すると、厳密には生身とは違う戦闘体になる。本来歩けるはずの体なら、歩き方をちゃんと覚えているのなら、トリオン体で歩けない理由はないよ」
「ほんとうに、生身の体では歩けなくても、トリオン体でなら歩けるんですか」
「歩けるよ」

 諭す言葉に迷いはなかった。


「今度は置いていくんじゃない、きみの大切なものを守るためなのだから」


 理世は迅悠一から目を逸らさないまま手を伸ばし、トリガーを掴んだ。
 無言のうちにトリオン体に換装すると、訓練生用の隊服を纏った姿になる。テーブルに両手をついて、上半身の力で体を持ち上げた。反射的に立ち上がって俺が差し伸べた手につかまる。
 最初のうちはかなり俺のほうに体重がかかっていたが、徐々に理世の腕からは力が抜けていった。俺はそこで、自分と彼女の視線の位置がずいぶんと離れてしまっていたことに気がついた。

 一年、経ったのだ。こうしてみると理世はずいぶんと小さい。
 やがて理世が手を放す。
 恐る恐る俺から離した両手を彷徨わせながら、一年ぶりに自分だけの力で床を踏みしめた両脚を不思議そうに見下ろし、そしてほんの少し泣きそうに目尻を歪めた。

「迅さん」
「うん」

 ゆっくりと立った迅悠一は、安堵したような眼差しで理世を見つめていた。

「ありがとうございます」
「うん。……影浦くんはおれを恨んでくれていい」

 きみの大切な女の子を、修羅にしてしまった、
 迅悠一は俺にだけ聞こえるようそうつぶやいてラウンジをあとにした。


▲ ▶ ▼ ◀



 あれから三年ほど経って、俺たちは部隊を組んだり喧嘩したりしなかったりA級昇格したりB級降格したりなんやかんやあったあと、結局相変わらず一緒にいる。
 初代影浦隊の一員だった理世は、諸々の事情で部隊を離脱、現在B級ソロ万能手として跳んだり跳ねたりしているが、影浦隊の作戦室にはほぼ毎日入り浸っている。俺やゾエなんかはむしろそれが普通だし、ヒカリもユズルも理世に懐いているのでもう当たり前の光景になっていた。

(……修羅、なぁ)

 ヒカリのこたつに寝転んですこすこ寝ている理世を見下ろして、そんなことを思ったのは、先程珍しく迅悠一とすれ違ったからだった。

(修羅って顔でもねぇけどな)

 確かにあの大規模侵攻以後、理世は長いこと精神的に切羽詰まっていたし、その様子は顔つきにも表れていた。それはボーダー入隊当初も同じ。らしくもなく弧月を振り回して、早くB級に上がって防衛任務につきたいのだと足掻いていた。
 ただ、ボーダーで過ごして色んなやつと出逢い、大規模侵攻の話をする機会が増えるうち、いつしか肩の力は抜けていったらしい。
 今ではむしろ、ガタイのわりに気性の穏やかなゾエと並んで二大菩薩と称され、年下連中にはよくまとわりつかれている。

(まあゾエよか怒るし拗ねるしうるせーけど。いちおう姉貴だもんな、こいつ……)

 理世の顔のそばに腰を下ろして(ヒカリの許可を得ていないのでこたつには入らない)、無防備に晒された頬を指の背で撫でる。
 浅い寝息に肩が上下しているのを、なんとなく、じっと見つめた。
 吸って、吐いて……。つつがない呼吸をひとつずつ数える。寝顔がここまで穏やかになったのも、実はここ一年の話だ。それまでは魘されることも多く寝つきが悪かった。作戦室で昼寝するたび魘されるので蹴り起こしたことも数えきれない。

 いつもいつも、弟を置いていく夢を見ていた。
 こいつのなかでは「二人で逃げなさい」「手を放しちゃだめ」と言い残して近界民に喰われた母親の言葉が呪いになっていたのだ。だから瓦礫に潰された弟の手をずっと離さず、ひとりで逃げることもしなかった。忍田本部長に救出されるときも、いやだ弟と一緒にいる、と泣き叫んでいたというから。
 逃げるときは一緒じゃないといけなかったのに。弟の手を放してひとりで救出されてしまった。わたしは悪いお姉ちゃんだ。弟を置いてきてしまった。って、ずっと。

 むむ、と理世が眉を寄せた。
 薄く眸を開いて、とろとろと俺を見上げる。

「まさと……」
「…………」
「どしたの、へんなかおして」

 ふわ、と頬を撫でたのはいつもの理世のこころ。
 俺は胡坐をかいた膝に頬杖をついて、空いた方の手で理世の髪を引っ張った。

「行くなよ、」
「……ん?」
「ずっと居ればいいだろ」
「……またその話〜〜」

 先日、警戒区域外で近界民の門が開いた際、かなりどさくさに紛れて打ち明けられた理世の進路。
 聞けば俺以外の家族やボーダーの連中はとっくに知っていたらしい。どいつもこいつも「理世ちゃんの決めたことなんだから」「お前たちも子どもじゃないんだし」「応援してやれよ」とか言いやがる。
 わかってる、もう、高校受験前に理世が本部に部屋をもらうと言い出して大喧嘩したときとは違うことくらい。

 ……それでも、理世はずっと傍にいるもんだと思い込んでいた。
 ずっと俺が抱えて移動するんだろう、それでもいいか、と思っていたのに。

「言ったでしょぉ、もう本部長にも話通してるし事務部に部屋手配してもらったんだってばぁ」

 寝起きでとろっとろの目をぎゅっと閉じると、理世はこたつから両手を出して耳まで塞いだ。しかも寝返りを打って俺に背を向ける。
 ムッとして覆いかぶさるように手を突くと、「だめ〜〜聞かない!」と駄々をこねはじめた。こいつ。人がこんだけ言ってんのにどこまで頑固だよ。喧嘩中のこの『話聞きません』モードまじでウゼェ。

「一人で立てるようになるの。まさとのとこまで歩いて行けるようになるんだもーん」
「歩いてんじゃねーか。イヤ今は寝てっけど」
「それはトリオン体でこたつだからでしょうが! そうじゃなくて、もう、わかってないなぁ」
「ハアア!? わかるワケねーだろブン殴るぞ。オイこっち見て喋れ、モゴモゴすんな聞こえねぇ、だ、ろ……」

 そこで気付いた。ぎゅっと縮こまる理世の、髪の隙間から覗く耳が赤い。
 ……なんだこいつ。

「車椅子なくてもへいきになったらもっかい言って」
「ハア? なにを」
「ずっと、って」
「歩くのそんな重要かよ」
「重要っていうか、けじめっていうか」
「……誰かになんか言われたのか」
「ちがうよ。わたしがそうするべきだと、思うから」

 理世から与えられる感覚はいつも通りフワフワしていて、それはもう呆れるくらい初対面のときと同じぬいぐるみで撫でられる感触なので、どうにもむず痒くて俺はマスクの位置をちょっと直した。あんま意味ねぇけど。
 照れてんのか何なのか理世の言いたいことはよくわからなかったが、とにかく俺が嫌とか離れたくて影浦家を出るんじゃないらしい、ってのは理解できたから、もういい。

 ただなんとなく以前は言葉にできなかったことを言っておこうと思って、

「……あ〜〜〜」

 言おうと思って、やっぱり言葉にはならなくて、こたつに寝転がる理世の体をうつ伏せに押さえつけた。
 ぐえぇ、なに、なんですか、と呻く理世の隊服の上から左肩に触れる。多分ボーダーや学校じゃ俺以外誰も知らない理世の傷痕をなぞるように。
 傷があろうが歩けなかろうがお前の何かが損なわれるわけでは、ない。
 ……もちろん理世が決めたことなら頑張りゃいいけど、こいつが生きて帰ってきた証拠であるこの傷もまあ、俺は悪くないと思っているし。

「……まさと?」
「知らねぇよ。勝手にしろ」
「…………」
「おまえが好きな格好すりゃいーんだよ」

 うつ伏せのまま体を捩って俺を見上げると、理世はこてりと首を傾げた。
 俺の指の動きが傷痕に沿っていることに気付いてぱちぱち瞬き、はてと記憶を探るように斜め上に視線をやり、……やがてゆっくりと目を丸くする。
 それから勢いよく起き上がり、俺の顔を覗き込んできた。

「え、えっ、なにそれずるい」
「……こっち見てんじゃねぇブス!」

 こたつからもぞもぞ這い出てきた理世が勢いよく首に抱き着いてきたので、受け止めきれず後ろ向きに倒れて頭を打った。
 ふわふわムズムズするいつものやつが顔中を撫で回す。すき、すき、ってやつだ。くすぐったい仕返しに、胸元に顔を埋めてぐりぐり擦り寄ってくる理世の頭をぐしゃぐしゃにかき回した。

「そのブスにずっと一緒にいてほしいくせに」
「うるせぇよ! てめえ自分で言ってて恥ずかしくねぇのか!」

 カミサマってのは最高に不平等で不公平で偏っていて、誰のことも救いはしない。俺たちはとっくにそのことを知っている。だから俺たちは俺たちの手で救わなければならない。喪われた日常を、平穏を、あの運命の日に生まれた様々の傷痕を。
 理世はあははと呑気に笑った。
 俺のサイドエフェクトは相変わらず不快なことのほうが多く腹が立つ毎日だけど、こうして理世が笑えるようになったのなら、こんな人生でも多少はマシだ。理世にとってもそうであればいい。



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