空のむこうから戦闘音が聞こえてくるたび、諏訪が戦っているのだろうか、と見上げてしまう。
 これはもう条件反射もいいところで、『ボーダー』という組織には隊員がたくさんいるのだからそう毎度毎度彼が戦っているわけではないし、実際彼の授業の出席頻度を見るに毎日毎日任務についているということもないらしい。なんなら諏訪といるときに爆撃音みたいなのが聞こえてきて「派手にやってんな」とゲームか映画みたいな感想を隣で洩らしていることもある。
 それでも空の向こうに諏訪を思ってしまうのは、多分わたしのなかの戦士の象徴が彼だからなのだ。


祈らずとも朝日はやさしい、いち



 母が言うには幼稚園以前の地域交流ですでに会っていたというから、諏訪との付き合いはじつに十八年にも上るらしいけれど、さすがにその辺りはお互いに覚えていない。
 小学生の時分の諏訪はわんぱくガキ大将もいいとこの短パン小僧だった。
 休み時間になるたび外に飛び出して、ドッジボールとか鬼ごっことかサッカーとかしてるタイプ。小さい頃は確かに体中に有り余るエネルギーをどこかで発散させないといけなくて、わたしも(今思うと嘘みたいだけど)、放課後は校庭や家の近くの公園で一緒になって走り回っていた。
 家は、すごく近所というわけじゃないけどまあ歩いて行けるところ同士。行ったことはないけれど。

 中学に上がったら諏訪は多少落ち着いた。教室で男子たちとゲラゲラ笑ってるいっぽうで、図書室で顔を合わせる回数が増えた。中学二年で同じクラスになり、なんとなく仲のいい男女グループになったとき、周りから随分と「両想いなんじゃないの」と根拠もないのに囃し立てられて二人して溜め息をついたものだ。
 でもなんとなく、そうなのかな、と感じる瞬間はあって、しかしお互い踏み込むこともなく三年生になり、クラスが別になった。そのまま高校も別になった。

 わたしが市外の高校に進学した都合で直截顔を合わせることは減ったけれど、メールアドレスは交換していたのでぽつぽつ連絡をとっていた。
 あの本おもしろかったよ、とか、今度この作家の新作でるな、とか、そういえば高校の図書室にホームズ全巻置いてあってね、とか、いいなうちの高校ミステリーは全然そろってねぇんだよ、とか。
 そういう他愛のないやりとりをするうちに、本の貸し借りをするようになって。
 お互いに学校から帰ってきたあと、夜の公園に集合して、なんでもない話をするようになって。


 そして高校二年、あの運命の日、三門市の空は黒く裂けたのだった。


 わたしたちの自宅は被害を免れたが、東三門の学校に勤めていた教職の父は、部活動中だった生徒たちを逃がそうとして亡くなった。胸に穴の開いた遺体が、それでもわたしたちのもとに帰ってきてくれたことだけが幸いだった。まともに遺体が残らなかった人も、そもそも安否が不明なままの行方不明者もまだ多くいる。
 母は自宅を売り払って関西の祖母の家に身を寄せることを決意。「三門から撤退します」と神妙な顔で切り出した母にちょっと力が抜けて、あははわかった、と笑ってしまった。父の通夜葬儀に来て不器用に励ましてくれた諏訪に出発日を伝えたら、当日の朝には自宅まで訪ねてくれた。律義な男だ。

「ん」
「なに、これ」
「本」

 ぶっきらぼうに手渡してきたのは近所の書店のロゴの入った袋だった。開けて中身を見てみると、諏訪いちおしの本格推理小説、しかも分厚いのが二冊ほど入っている。

「移動中、暇だろうと思って」
「あはは、洸らしい」
「元気でやれよ」

 諏訪はその三白眼や口調の雑さに反して穏やかな笑みを浮かべると、おおきな手でわたしの頭を撫でた。
 湿っぽくないさまがあまりにも諏訪で、その別れのあいさつにわたしはほんの少し涙を浮かべた。
 このあいだの通夜で、彼の前では情けなく泣いて困らせた自覚がある。もう充分迷惑をかけた。零れる前に拭った。

「俺、ボーダー入るわ」
「ボーダー……、って、あのボーダー?」

 界境防衛機関『ボーダー』───
 三門市議会が全戸避難を決定した三門市東部そのど真ん中で、世論に真っ向から逆らいながら建築されていく黒い民間武装機関だ。新規隊員を募る旨の広告はたまに見かけるけれど、自分には縁遠い話だと思っていた。
 自分たちが三門を離れると決まっていたからというよりは、警察や自衛隊を見るのと同じような距離感で、わたしたち以外の誰かが想像もつかないような決意で以て入隊するのだろうな、という印象で。
 だからまさか、よりによって諏訪がそんなことを言いだすとは思っていなかったのだ。

「洸、たたかうの」
「おー。だからたまにゃ顔見せろよ」

 おまえやおばさんが安全に遊びに来られるようにすっからよ、……からりと笑った諏訪は、あまりにも諏訪だった。


▲ ▶ ▼ ◀



 で、四年ほど経った今、わたしは泥酔した諏訪を見下ろして溜め息をついている。

「……諏訪、うちまで歩ける?」
「あ? 理世……?」
「ええ。理世です」

「すまない諏訪が潰れた、回収しにきてくれないか」と電話をかけてきたのは、以前諏訪を通じて知り合って連絡先を交換した木崎くん。彼らはわたしが部屋を借りているアパートから近い居酒屋で飲み会を開くことが多く、諏訪は自宅まで帰るのが面倒なときたまに泊まっていくのだ。
 そこまで酒に弱いわけではない諏訪も、体に無理をさせて飲めばさすがに酔っ払うわけで、こうして呼び出しを受けるのも初めてではなかった。
 眠そうにしている諏訪の両手の指先をちょこっと握ると、「あ〜、」と呻きながら握り返してきた。

「悪りぃ……レイジが連絡したのか」

 酩酊状態にあってもわりと理性的なところ、諏訪だなぁ、と毎度変に感心する。この男、送り狼とか酔っ払って一夜の過ちとか絶対にしなさそうだ。

「うん。わたし明日二限だからゆっくりしてきなよ。諏訪は?」
「俺も、二限だわ」
「うん。帰ろ。荷物貸して」

 木崎くんから諏訪の黒いボディバッグを受け取る。財布とスマホくらいしか入ってなさそうだ。男の子は荷物が軽くて羨ましい。
「いつも悪いな」「気をつけて」と見送ってくれた木崎くんと寺島くんに手を振って、諏訪を連れて店を出た。
 ちなみに風間くんはとっくに潰れて、座布団を抱きしめながら寝ていた。

 お店を出ると、冬を間近に控えた風がひやりと頬を撫でる。
 夜風を浴びていくらか頭がすっきりしたらしい諏訪は、頭の後ろをぽりぽり掻きながら「悪い」ともう一度謝った。

「気分は悪くない?」
「そこまでじゃねぇよ、……ここんとこ連勤で、ウトウトしたとこに勝手にレイジが呼んだだけだ」
「そんなに忙しいの」
「中高生連中がテスト期間なんだよ」

 ふぅん、大変だね、とこれ以上ないくらい内容の薄い相槌を打つ。
 ボーダー内部のことは機密事項が多いので諏訪は多く語らないし、わたしも訊かない。

 徒歩数分でわたしの住むアパートに辿りついた。
 平気そうな顔はしているけどやっぱり疲れていたのだろう、手洗いと歯みがきだけした諏訪はジャケットを脱いでテーブルに突っ伏した。丸めて枕にでもするつもりだろうそれを拾い上げ、ハンガーに掛ける。

「ベッド使っていいよ」
「いらねぇ、床でいい、」
「頑固。いいからベッドでちゃんと寝なさい、ほら」
「頭ワックスついてんだよ」
「枕にタオル敷けばいいでしょう」

 ぺしぺし肩を叩くとたいへん億劫そうな仕草で立ち上がり、あーだのうーだの唸りながらベッドに倒れ込んだ。普通に泊まりに来たときは容赦なく床に転がすけれど、三門の安心安全のために日夜戦っている戦士が『仕事で』くたびれているのだから、少しでも休んでもらわなくては。くたびれてるのに飲むなって話なんだけど。
 わたしは自分用にお茶を淹れて、諏訪の枕元の床に腰を下ろす。まだ床につくには早いので、大学の図書館で借りたエラリイ・クイーンを読み進めるつもりだった。部屋の電気を落として、誕生日に諏訪がプレゼントしてくれたレトロなテーブルランプを手許に寄せる。

「明日、何時に起こす?」
「あー……一旦帰ってシャワー浴びっから……七時くらい。勝手に起きて出ていくから気にすんな」
「シャワーなら貸すよ」
「どっちにしろ教科書がねぇから」

 諏訪は大学に上がってから金髪になったし、煙草も酒も麻雀も好むくせに(くせにというと偏見っぽいけど)、存外真面目だ。任務以外で講義をさぼることは(わたしの知る限り)滅多にない。

「今日ねぇ、大学で太刀川くんに話しかけられたよ」
「太刀川ァ? なんで」
「『諏訪さんの昔の話聞きたい』って言われたから、ちょっとお話したの」
「あの野郎」
「諏訪は昔から諏訪だったよ、って話した。引っ越しのときに推理小説差し入れてくれたこととか」

 ちょっと懐かしくなっちゃった。目を細めると、諏訪は照れくさそうに目元を赤く染めて(酔いのせいかもしれないけど)、やめろやめろ、と布団をかぶる。

 代わりにね、機密に触れない範囲の諏訪の話もちょっと聞いたんだよ。
 三白眼で煙草を咥えているし金髪で口調も雑だから、最初はやっぱり緊張する子もいるんだけど、諏訪は面倒見がよくて指揮もうまいからみんなに慕われているって。近界民と戦うときもいつだって冷静で、年下の隊員を庇って最前線に出るような動きをすることも多くて、みんな頼りにしているし、年の近い隊員のあいだじゃムードメーカーなんだってね。

 楽しそうに語る太刀川くんの口から出てくる諏訪は、わたしの知っている諏訪とは全然ちがうね。
 太刀川くんにとっても、わたしの語る諏訪は全然知らない諏訪だったのかもしれないな……。

「おやすみ、洸」
「……ぉやすみ」




 朝起きて簡単に身支度を整えたわたしは、諏訪が寝ているうちにキッチンに立った。
 下見のときに一目惚れしたオープンキッチンだけど、同じ室内に人が寝ている場合は少し厄介だ。廊下にキッチンがあるタイプにすればよかったかな、でも冬が寒いからなぁ。
 朝ごはんなんて普段はパンを焼いてインスタントのスープを溶くくらいだけど、珍しくご飯を炊いて、先日母から送られてきた乾燥シジミの具でシジミ汁を作ってみた。あとは卵焼きか目玉焼きか……諏訪が起きたら訊けばいいか。

「うまそうなにおいしてんな」

 と、諏訪がキッチンを覗き込んだ。
 寝惚けまなこ。シャワーを浴びなかったから寝癖がついている。それと、ちょっとひげが伸びていた。オフモードの諏訪はどこか男くさくて、少年だった頃の印象も強いわたしにはなんだか変な感じがする。

「おはよう」
「……はよ」
「朝ごはん作ってみた。卵焼きと目玉焼きどっちがいい?」
「おまえ朝いつもパンとかじゃねーか」
「うん、今日はなんとなく。いらないならわたしが食べるけど」
「食う。目玉焼き」

 はいよ。フライパンに卵を二つ割り入れる。空いているスペースでウインナーも焼いているあいだに、顔を洗って歯を磨いた諏訪がややシャキッとした顔で戻ってきた。
 諏訪は片手で顎をさすりながら、「あ〜〜〜うん」としみじみうなずいた。

「なんかいいな」
「いいって何が……、……新妻っぽく見える?」
「見える見える。珍しくエプロンしてんのがいい」

 おっさんくさ……。黙ったつもりだったけど顔に出ていたみたいで、「誰がおっさんだ」とでこぴんされた。
 できあがったものから諏訪に運ばせ、一人暮らし用のちいさなローテーブルにせせこましく食器を並べる。「いただきます」と手を合わせた諏訪はシジミ汁に箸をつけた。うま、と小さな呟きが聞こえる。湯気の向こうに、目元を緩めてほっとしたような顔の彼が見えた。

 テレビはつけなかった。諏訪もわたしも喋らない。
 換気のため開けた窓から朝のさわやかな風が吹きこんで、レースのカーテンをゆらゆらと揺らす。外を歩いている人の話し声や、犬の足音、車のエンジン音が平和に響いていた。

「ごっそさん」
「ようお上がりになりました。コーヒーは飲むかな」
「飲む。……俺洗うわ」
「いいよぉ、座ってな」

 きまり悪そうな諏訪の頭をぽんと撫でて(ワックスついてっから触んなと嫌がられた)キッチンに戻る。時間は大丈夫なのかしらと思ったけれど、諏訪が飲むと言うのだから平気なのだろう。
 わたしは料理に凝る性質ではないが、コーヒーはなるべく美味しいものを飲みたいなと思っている。
 一人暮らしを始めるに際して祖母から贈られた、六瓢の南部鉄瓶で二人ぶんのお湯を沸かす。『六瓢』は『無病』に通ずる無病息災のお守りだ。諏訪が今日も明日も明後日もその先もずっと無事でいられますようにと、彼に温かい飲み物を出すときはいつも鉄瓶でお湯を沸かしている。
 本人はそんなことは露知らず、単にわたしの暮らしを丁寧だと褒めてくれるけれど。

 二人ぶんのコーヒーをゆっくりとカップに落とすあいだ、諏訪はぼんやりと窓のほうを眺めていた。
 カーテンがあるから外の景色は見えないはずだ。どちらかというと外の音を聞いているみたいだった。やがてその辺に置いてあったわたしの読みかけの小説を手に取り、ぱらぱらとページをめくる。
 しずかに、しずかに。
 朝のやわらかな光のなかで。

 諏訪のこういう横顔って、他に知っている人はいるのかな。
 大学で見かけるときやボーダーの知り合いに話しかけられたときは、けっこうガチャガチャしている印象が強いのだけれど。コーヒーを差し出すと、諏訪はさんきゅと小さく口の中で呟いた。

「昨日、太刀川くんと洸の話をしたって言ったの憶えてる?」
「記憶トぶほど飲んでねぇよ。……あ〜〜相変わらずここのコーヒー美味い……」
「どうもどうも。……彼から聞いた洸の話がね、なんだかわたしの知ってる洸と全然ちがって面白かった。ボーダーじゃお兄さんやってるんだね?」
「別にそんなんじゃねーよ。中高生が多いから自然とだろ」

 来客用というよりもうほとんど諏訪専用と化しているコーヒーカップを傾けながら、彼はほのかに苦笑を浮かべた。

 中高生が多いから自然と──きっと、諏訪は前に出るのだろう。
 諏訪はボーダーで滅多に死人が出ることはないと言っていて、それは恐らく事実だ。彼をはじめ、わたしが見知っているボーダーの隊員のほとんどは、夜勤で眠いとか連勤がきついとか言うものの直截的な負傷をしてきたことがない。詳しくは知らないがそういう戦闘方法なのだろう、それは理解している。

 それでも万が一を恐れてしまうのは、わたしが喪失を知る者だからだろうか。

「……あんまり頑張らないでよ。心配になるから」
「別に頑張ってねぇよ」


 諏訪も誰かのために動く男だ。
 教職にあった父が、当然の使命として生徒を守りながら避難して、子どもを庇って死んだように。


 人は死ぬ、時折驚くほど呆気なく。


 常に頭の片隅に諏訪の死を置いているわたしを知ったら彼はなんと言うだろう。縁起でもねぇこと考えんなとか、バカとかアホとか死なねーよとか、特有のからっとした声と表情で言ってのけるのか。だとしてもこの不安が消えることはないだろうけれど。

「それに、たまにここに来てダラダラして息抜きしてんだから、いーんだよ俺は」
「こんなので息抜きになるわけ」
「なるわ。ナメんな。鉄瓶コーヒーなんかここでしか飲めねぇんだぞ、最高の贅沢だろ」

 鉄瓶コーヒーとかいう妙な呼び方は措いておくとして。
 どこからどう見てもボーダーという組織に『ハマって』しまっている諏訪が、その心の片隅にわたしの場所を空けていてくれるということは、それこそ最高に幸せなことなのかもしれないなぁ。

「ちっさい贅沢」
「ちっさくねぇだろ……、って、おい、泣いてんのか」
「泣いてないよ」
「泣いてんだろ! なんだよ泣く要素なかったろ、ゴミでも入ったのか」
「ほんと、そういうとこ」
「はあ?」
「諏訪ってほんと諏訪」
「ワケわかんねぇ」

 差し伸べられた諏訪の手が躊躇うように震えて、それから恐る恐るわたしの頭を撫でた。
 涙を拭うとか抱きしめるとかそういう発想に到らないこの男の不器用な真摯さが、とても好ましいと思う。
 いつまでも、いつまでも彼が彼らしく在れたらいいなと思う。


 死なないでねなんて言ったらこの人はまた「だから死なねーつってんだろ」と呆れ顔になるに違いないから、わたしは彼が守るこの町の片隅で、しずかな諏訪の心を守る人になりたい。


title by Bacca

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