ガキの頃はそんなでもないと思っていたのだが、幼なじみ通り越していい加減腐ってそうな縁でつながっている井實理世は、再会したとき随分とものしずかな女になっていた。
引っ込み思案であるとか内気であるとか、そういうわけではなく。
例えば字がきれいだとか、指先の動きや食事の手つきが上品であるとか、よく笑いはするけれど大口開けてゲラゲラ笑う感じではないとか、料理は適度に手抜きをするけどコーヒーには妥協しないとか。そうやって、自分のそばにあるものを大切に愛して、日々を丁寧に過ごそうとする理世の毎日はとても穏やかで、俺はその静謐さを愛おしいとさえ思う。
男女のあれこれじゃなくて、ただ単に、こいつの毎日がこのまま続いていけばいいなって。
ボーダーとしての活動も大学生活も別に必要以上に無理しているつもりはないのだが、そういう理世のそばにいるとなんだか肩の力が抜ける。
諏訪、と柔らかい声で名前を呼ばれると、自分でも知らない位置にある何かが安堵する。それに気付いたとき、一丁前に荷物は背負ってたんだなと初めて思って自分でもおかしかった。
だからできるだけ理世にはボーダーと距離を置いといてほしかった。
理世の世界にはできるだけ戦いのにおいをさせたくなかったのだ。いくらトリオン体でよっぽどのことじゃない限り死なないとはいえ、俺たちが近界民と戦争状態の只中にあるということは、忘れられがちだが事実である。
……だというのに、再会を果たして一年半が経った大学二年の秋、
「諏訪さん!?」
ゲ。と声が洩れた自分を自覚した。
理世とふたり、三門駅前の映画館で映画を観た帰り、ちょっと気を抜いてコーヒー屋のテラス席で感想を言い合っていたまさにその真横を太刀川が通りかかったのだ。俺が女と二人だと気付いた瞬間、にやにやと目を弓なりにして笑う。
「いや〜諏訪さんにこんな美人な彼女がいたなんて」
「太刀川ァ……!」
思わず歯軋りしてしまった。
理世はぽかんと太刀川を眺めていたが、その独特の雰囲気を敏感に察してか「ボーダーのひと?」と訊ねてきた。
「そうですボーダーのひとです! 諏訪さんと同い年っすかー?」
「やめろ絡むな」
「そうです。諏訪がいつもお世話になってます」
「理世も! ややこしいこと言うな! 付き合ってねぇよ!!」
祈らずとも朝日はやさしい、に
その場じゃ「言い触らすな」と厳命して追い払ったのだが太刀川が黙っているはずもなく、その晩の防衛任務の前には風間や寺島から「聞いてないぞ」と絡まれた。こういう下らねぇ情報ばっかり回るのが早えぇんだよ。
「もしかして飲みのあとたまに泊まって帰ってるのって彼女のとこだったの?」
「彼女じゃねぇ!……けどまあそうだ」
「付き合ってもいない女の家に何度も泊まるのはどうかと思うが」
「あいつ一人暮らしはじめてすぐ近所で変なおっさんに絡まれてんだよ。男が出入りしてりゃまだ違げぇだろ……」
理世がこっちに越してきたのが三月下旬。わりとすぐに連絡を取り合って飯を食ったのだが、なんと入居して三日後の買い物帰りにおっさんに声をかけられたという。「いま何時か教えてもらえますか」に始まり「そうですかありがとうございます、買い物帰りですかお礼にお荷物持ちますよ、これも何かのご縁ですし連絡先でも教えてもらえませんか」──ってなんのご縁だよ!! ドタマ撃ち抜くぞ!!
ということで理世の家に出入りするようにして、帰りが遅くなる際も警戒区域付近にある自分の家まで帰るのが面倒なときは泊めてもらうことが増えた。幸いにしてあれから変な野郎には絡まれていないそうだが、つい居着いてしまっている。理世の家がなんか居心地いいのが悪い。……いや悪くない。
「今度飲み会呼んでよ。諏訪の子どもの頃の恥ずかしいエピソード聞きたいし」
「それはいい。ぜひ呼べ」
「誰が呼ぶかっ!!」
そういう感じで理世の存在は(本人の知らぬ間に)ボーダー中を駆け巡り(お前ら全員暇人か)、俺が問い詰められるだけならまだしも、いつの間にか加古やオペ陣が大学で理世に話しかけるようになっていたのだった。
……本人は「友だちが増えた〜」と呑気なので、まあお前がいいならいいんだけどよと項垂れたのも記憶に新しい。
▲ ▶ ▼ ◀
その日は俺にしちゃ珍しくゼミの飲み会なんてものに顔を出していた。
ボーダーに所属していると兎角機密というものがついて回るので、下手に外で友人関係を構築するよか本部に籠もったほうが楽なこともある。俺自身ボーダーの比重がでかい自覚はあって、ゼミ飲みも三回に一回くらいしか参加しないのだが、今回は先生の誕生日パーティーだというのでさすがに断りきれなかった。
ゼミ長が張り切って予約したのは大学近くの洒落たイタリアンで、料理はいまいちだけど酒はまあまあ美味かった。一軒めで切り上げてとっとと帰ろうと思っていたのだが、教授に「ラーメン奢るから」と言われてほいほいついてって、なんやかんやで三次会まで御伴するはめに。明日土曜だし防衛任務入ってねぇしいいかと安易に考えたのが失敗だった。
気付いたら日付が変わっていた。
解散した居酒屋の前で座り込む。泥酔とまではいかないが、自宅に帰るのが億劫な程度には世界がフワフワしていた。
(あー、寝てっかな。明日バイトだろうしな……)
電話一回かけて、出なかったり断られたりしたら、大人しく家まで歩いて帰るか最悪タクシーつかまえよう。そう思いながらスマホを操作して、井實理世そのひとに電話をかけた。
出るまで若干時間がかかったから多分寝てたと思う。
『……もしもし?』
「もしもし理世サン。お休みのとこサーセン。泊めてもらえませんか」
『どしたの……飛び込みなんてめずらしいね……』
「ゼミ飲みで。なんか帰るタイミング逃してた」
『明日バイトだから……わたし、六時に起きるけど、それでいいなら』
「サンキュー女神!」
『女神て……酔ってるねぇ』
大学から徒歩五分の好立地にある学生向けアパートの、通い慣れたエントランスで部屋番号とインターホンを押す。ややあって開錠される音がした。エレベーターに乗って二階で降りると、理世の部屋のポーチの電気がついている。
俺の足音を聞きつけてかドアが開いた。
もこもこした女子っぽい寝間着の理世が「おかえり、」と目を擦る。
「出てくんなよ」
「そんなに酔ってるのかと思って、ちょっと心配になって」
部屋に入れてもらった俺はシャワーを借りて、冷蔵庫の中の水をもらって、すでにベッドに入って寝息をたてている理世に感謝しきりで床に寝転んだ。
「おはよう洸。わたしはバイトに行きますが、どうする、まだ寝る?」
穏やかに揺り起こされたときには理世はすでに身支度を整えていた。慌てて飛び起きるとすでに六時半だった。二日酔いというほどでもないが、頭が重いし体は怠い。
「それともお店くる?」
「あー、行く。モーニング食うわ」
「うん。じゃあ行こうか」
いくらなんでも家主不在の間も部屋に居座るというのは身内か恋人にしか許されないような気がして、泊めてもらうときは必ず理世のいる時間に訪れ、いる間に帰るようにしている。理世は居てもいいと考えているのかもしれないが、それこそ風間の言う通り『付き合ってもいない女の家』なのだから。互いに言葉にしたことはないが、けじめのようなものだった。
大学の最寄り駅から電車で二駅離れたところにある理世のバイト先は、いわゆる純喫茶みたいな雰囲気のこぢんまりとした店だ。
四年前の大規模侵攻では被害を免れたが、その後の警戒区域の拡大に伴い警戒ラインが付近まで迫っている。移転する気はないらしい。
店は完全に店長の趣味といった風情で、メニューの種類もそんなに多くないし、客は常連ばかり。外向けのSNSなんかの宣伝も一切していないから、店は常にホールとキッチンのバイト一人ずつで回っている。
店の表のシャッターは、開店前だから半開きになっていた。
理世の後ろに続いて入店すると、客の誰もいない店のキッチンで作業していたもう一人のバイト、柴田が手を振ってきた。こいつは同じ大学の同級生だ。すっかりここで顔馴染みになってしまった。
「諏訪くんおヒサ〜」
「おー」
理世は「そこ座っといて」と壁際の狭い席を指さす。毎日決まった時間に決まった席に座る常連客たちの指定席を除外した『誰も座らない』ところだ。
店内にはカウンター席が五人ぶんと、四人掛けテーブルが二つ、二人掛けが四つ。片側の壁面いっぱいに店長の趣味で小説が並んでいて、客はコーヒーを飲みながら読書を楽しむ。たまに常連客が「読み終わったから」って自宅から本を寄付しにくることもあるらしい。
俺が席につく前から柴田はコーヒーカップを温めはじめていた。
「諏訪くんモーニングでいいの?」
「聞く前に準備してんじゃねーか」
「だっていつもそうじゃん」
店の奥にある休憩室兼倉庫に荷物を置いた理世は、ホールでごそごそ作業したあと七時三十分きっかりにシャッターを開けた。
店が忙しいのは七時三十分から八時頃のあいだ。
でもこの時間に来るのは大体常連なので、理世は自動ドアの向こうに客の姿を見つけた時点で「ホット1です」だの「モーニング2」だの柴田に言っているし柴田も言われる前から準備している。しかもモーニング食いながらよく見ていると、客によってコーヒーにミルクをつけたりつけなかったり逆に二個つけたりしている。驚異の記憶力だ、とは思うがまあ発揮される場所が違うだけで、ボーダーの人間のトリガーに対する知識や戦略も一般人から見れば驚異の記憶力なんだろうな。
あんま席占領してんのもアレだしそろそろ出るかと時計を見たところで、一息ついた理世が「そういえばね」と話しかけてきた。
「このあいだ常連さんが面白い小説持ってきてくれたんだー」
常連客が静かに新聞や本を読む店内には有線の音楽が流れている。いつも同じチャンネルの、同じジャズだ。
理世は壁の本棚から一冊の単行本を取り出した。表紙とタイトルに見覚えがある。どこで見かけたんだったか。
「主人公がね、ボーダーなんだよ」
「あー、そうだった。なんか広報でやってたな」
今年のはじめ、取材が入ったとかなんとかで嵐山隊が駆り出されていた気がする。当時はまた雑誌の記事だろうと思い込んでいたが、先日大学生協の本屋に平積みされていて噴き出したのだった。
大規模侵攻で被害を受けた主人公がボーダーに入隊してなんとかかんとか。自分の所属する組織が登場するというのがなんとも面映ゆいので読む気になれなかったし、周りも同様なのか読んだという話は聞かないからすっかり忘れていた。
「サイエンス・フィクションの定義をロバート・A・ハインラインに沿うと、『可能な未来の出来事に関する現実的な推測』。人間が想像可能な範囲の科学的な未来を描いたものがSF小説だとすると、AIが人類の知能を超えてその先の世界や社会の発展が人間には予測困難になったとき、SF小説ってどうなると思う?」
「なんか前に講義でやったな……技術的特異点?」
「そう。というか、技術的特異点の突破を待たずして、そもそもSFの範疇であった『地球外生命体の襲来』という災害を実際に経験してしまったこの世界のSFは、今後近界民の出現を経てどう変化していくんだろうね」
理世から手渡された単行本を開いてぱらぱらと眺める。ボーダー、トリガー、近界民、ランク戦、拾える単語だけでもだいぶ実際に近い。ボーダーを舞台にした作品が今後、例えば自衛隊とか警察を扱う作品と同じジャンルになっていくのかもしれない。
「大規模侵攻という未曽有の大災害がこういう『消費』のされ方をするようになったって、すごいよね」
「……嫌か?」
「嫌っていうか、面白いなぁって思う。今後『地球外生命体の襲来』を扱った小説って、SFよりも現代小説に近くなっていくんだよ? もしかしたらわたしたち、文学のジャンルが変化する分水嶺を目の当たりにしているかもしれない」
他の客の邪魔にならないよう声を潜めた理世が楽しそうに笑う。
客入りが落ち着いてぼけっと突っ立っている柴田の顔に「アーまたなんか難しい話してるなー」と書いてあるのが妙におかしかった。
手許に本があればページを捲ってみたくなるのが本読みの性というか、手渡されたそのボーダー小説を最初のシーンから流し読みしていく。主人公が大規模侵攻に遭い友人を亡くすという序章のあと、一章からはもうボーダーに入っていた。B級でチームを組んでランク戦に挑んでいる。けっこうしっかり取材してあるのか、あまり違和感なく読めた。
でもやっぱこっ恥ずかしい。飛ばし飛ばしでさくっと進めていく。
「井實さんコーヒーどうぞ〜」
「あ、ありがとう」
店内が落ち着いたのでバイトの二人もまったりしているらしい。ちらと視線を上げると、理世は受け取ったカップにミルクを入れていた。
コーヒーを見下ろして伏せられたまつ毛に、白い湯気がかかる。
「面白い?」
「あ?……あー、まあ、思ったよりよく取材されてんな」
物語当初、近界民に対する復讐心が強かった主人公は、同じボーダーに所属する隊員たちそれぞれの背景や想いに触れて考えを変えていく。
そして大学で出逢った女に惹かれて、主人公の戦う理由は彼女の平穏な生活を守るためへと変化していき──といった辺りで思わず乱暴に本を閉じてしまった。
いや、別に、どうというわけではないのだが。
ただ相手のささやかな日常の営み、真摯で穏やかな毎日、他人に対してできる限り親切であろうと努めるごく普通な人間性をどうしようもなく愛しく思う主人公の有様が、すこし。
(いや少しどころか、かなり……)
「諏訪?」
「あ〜〜〜いや、なんでもねー」
やめよう、これ以上はちょっと……据わりが悪い。
本を返して、伝票を手に席を立つ。レジに置いてある時計を見ると九時前だった。一旦家に帰って着替えて本部に顔出すかと考えていると、理世が「諏訪」と顔を上げる。
「今日は夜勤?」
「いや、別に。今日はシフト入ってねえけど」
「そっか。ねえ、今晩おでんの予定なんだけど、一緒にどう?」
行く、と反射的に答えてしまった。料理は適度に手抜きする理世なのだが、別に下手というわけではなく、気分が乗ったときは夕食を振舞ってくれることがある。この様子を見るによっぽどおでんの気分なのだろう。
俺が店を出るのに合わせて、レジから箒とちり取りを手に自動ドアをくぐった理世は、空を仰いでいい天気だねぇと目を細める。
「どうせすぐボーダーに行くんでしょう。夕方から準備始めるから、そのくらいに来てね」
「どうせって何だどうせって」
肩を竦めて笑った理世は足元に落ちていた木の葉を掃いて集め始めた。
喫茶店の店員が、店の前の落ち葉を掃いている、道端で見かけてもきっと気にも留めないほど日常的な景色。だがこの日々を三門市民が、特に大規模侵攻で被害を受けた当人たちが取り戻すのに、一体どれほどの努力があったのか。
理世はごく普通の一般人だ。
ただ可能な限り善人であろうと努め、自分のそばにあるものを大切にして、真摯で穏やかな日々を維持するために労力を惜しまず、掌に包める程度の幸福を慈しむことのできる人間だ。そういう彼女の静謐さを愛おしいと思う。こいつの毎日がこのまま恙なく続いていけばいいなと。
「いってらっしゃい。洸」
多分彼女の『毎日』のなかには自惚れでなく俺の存在も入っているだろう。俺の戦いは回り回って、穏やかな理世の毎日を守る。箒片手にのんびりとおでんの具を考える理世の、ささやかで幸せな毎日を。
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