大学の入学式を控えた三月下旬に再会した諏訪はそのとき、すでにボーダーのお兄さんたちに可愛がられて麻雀を覚えていたらしい。
 麻雀というとわたしのなかでは、狭い雀荘でおじさんたちが煙草の煙に巻かれながらジャラジャラしているもの、というイメージがあったので、聞いたときには若干ショックを受けたのも事実だった。けれど大人の遊びを覚えた諏訪は、それでも諏訪のままだった。

 やがて二十歳になるとおおっぴらにお酒と煙草を嗜むようになり、飲み会の帰りに家に帰るのが面倒だといってうちで一泊していくようになる。この頃、諏訪の存在を伝えた大学の友人には「雀カスでヤニカスで酒飲みなの?」と引かれた。確かに酒と煙草と麻雀って不健全なように聞こえる。
 けれど諏訪はそういえばわたしの家で喫煙したことはないのだった。わたしも吸っていいと言ったことはないけれど。




「あ、……諏訪」

 大学の中央図書館を出たところで、敷地内の隅っこの喫煙所に諏訪の姿を見つけた。
 学部の友人らしき男女数名と談笑している諏訪のすぐ横に、明るい茶髪をした女の子がいる。弾けるような笑顔が可愛らしく、それでいて指先に挟んだ細い煙草がどこかアンバランスでセクシーな。
 そういえば諏訪の好きな異性のタイプは『明るくて元気な子』だった(ソースは中学三年時に諏訪と同じクラスだった女友達に見せてもらった卒業文集)。
 諏訪と同じ高校に進学した彼女がいちいち報告してくれたところによると、わたしの転校後にできた彼女もそんな感じの、活発な子だったという。

「…………」

 立ち止まったわたしに気付いた諏訪と眼が合う。
 眼が合ったからにはなんだか近寄るのが礼儀のような気がして、わたしはてこてこと喫煙所のほうに歩み寄った。物語における役割上の『煙草』という要素が好きだからあまり嫌悪感はない。それに父は愛煙家だった。

「来んなよ、煙草臭くなるぞ」
「お父さんが吸ってたからそんなに気にならないよ」
「……そーか」

 諏訪の横にいた女の子が「諏訪の友だち?」と首を傾げる。「腐れ縁、」答えた諏訪は中空を睨み、ひぃふぅみぃと指折り何かを数え始めた。

「十……七年くらいのつきあい」
「長っが! そんなん幼稚園とかじゃん」

「あと三年で二十周年だな」諏訪はしみじみとそんなことを言うので、わたしは曖昧な笑みを浮かべて周りの人たちに会釈をしておいた。
 諏訪はわたしの部屋で煙草を吸わない。
 わたしも吸っていいよと言ったことはない。だからこんな寂寞のような思いは見当違いなやきもちだ。家族の次に長い知り合いであるこの人の、わたしがよく知らない顔を、わたし以外の人がよく知っているということに対する。……子どもか。

「なんか用か?」
「ううん、諏訪がいるなと思って来てみただけ。お邪魔しました」
「…………」

 諏訪はジト目になってわたしを見下ろし、咥えた煙草をすぅっと吸って、それから口の端から煙を吐き出した。構いやしないと言っているのに煙がかからないよう配慮してくれる、その気遣い屋さんっぷりがなんだか居た堪れない。
 指に挟んだ煙草をおもむろに差し出してくる諏訪を、きょとんと見上げた。

「吸ってみっか?」
「そんな急に…………やめとく」
「だよな。次、空きか」
「うん」
「どっか行こーぜ」

 灰皿に煙草を押しつけた諏訪は、ポケットから携帯灰皿を取り出して吸殻をそっちに入れた。わたしの返事を聞くより先に、ちょっと笑いながらヒソヒソ話をしていた学部の友人たちに「んじゃそーゆーことなんで」とぞんざいに声をかける。
 特になんの躊躇もなく肩を抱かれた腕の意外な力強さに、そうだよなぁ諏訪ももう酒も煙草も嗜む大人なんだもんなぁと、謎の感慨を抱いた。


祈らずとも朝日はやさしい、さん



 どっか行こーぜ、と連れ出されたものの明確な目的地があるわけではないらしい。正門から大学通りに出た諏訪は大学生協提携の書店で平積みの新刊コーナーを冷やかしたあと、その三軒隣にある古書店に入った。
 天井まで隙間なく立ち並ぶ書架に、所狭しと詰め込まれた本。レジ近くには、棚に入りきらないものが堆く積み重ねられている。
 カウンターの向こうで本を読んでいる店主が丸眼鏡の奥から諏訪を見て、わたしを見て、見慣れた客だと判断すると視線を下げた。

 真冬の昼下がり、外気に触れていた頬がゆるりと暖められていく。
 本にとっての理想的な環境は室温十六℃から二十二℃、湿度四十%から六十%といわれている。書架に打ち付けられた温度湿度計は室温十八℃と湿度四十五%を指していた。書店独特の乾いた涼やかさ。それでも外よりは暖かいので有難い。

 お、と諏訪が洩らした。
 場所に配慮して潜められた声に視線をやると、諏訪は書架に収まっていた単行本を一冊、取り出したところだった。『プレイバック』、多くの作家に影響を与えたハードボイルド小説の巨匠、レイモンド・チャンドラーの遺作だ。

「『タフでなければ生きていけない』」

 続きがあるだろうに、諏訪は口を噤んで、そのままページを捲りだす。わたしはぱちぱちと瞬いて、足りないパズルの欠片を埋めるような気持ちで続きを拾った。

「『優しくなければ生きていく資格がない』」
「読んだのか?」
「向こうで。お父さんの本棚にあったの」

 わりあい読書家であった父の蔵書は、わがままを言ってできるだけそっくり祖母の家に送ってもらった。母とともに身を寄せた一年半のあいだ、わたしの傷と無聊を慰める相棒だった。
 本棚はその人の頭の中身だ、と思う。
 父の蔵書を読破することで、多分、わたしは父の内面を覚えていようとしていた。
 そんなようなことをつらつらと語ると、諏訪はわたしよりもよほど傷付いたような奇妙な表情になり、そうか、と相槌を打つ。
 諏訪はいつも、わたしが父の話をするとき、まるで自分が刺されたかのような顔をする。

 結局フィリップ・マーロウシリーズの第七作である『プレイバック』を購入した諏訪とともに古書店を出た。諏訪は高校時代すでにシリーズを読破しているらしい。わたしも久々に読もうかなという気になった。
 寒空の下をぶらぶら歩きながら、吐き出した白い息を眺める。

「そういや、今日の夜あいてっか」
「今晩はゼミの忘年会だから、わたしも帰宅が何時になるか判らないなぁ」
「珍しいな」
「あなたの飲み会が多すぎるだけです」

 諏訪がうちに来るペースというと大体、週に一度くらいだ。
 ボーダーの同い年組で飲み会をした帰りに泊まりにくる、あるいは休日のお昼ごろにやってきて静かに本を読んで晩ごはんを一緒に食べて帰っていく。大体事前に予定を確認されて「何時頃行くわ」とアポイントメントがあるのだが、極まれに連絡なしで「泊めてくれ」と電話がかかってくることもある。諏訪はこれで律義な紳士なのでアポなしは滅多にないけれど。
 諏訪というハイペースな来客のおかげで、わたしの部屋の清潔さは保たれているといって過言ではなかった。

 それからわたしたちは通りにあるクレープ屋に立ち寄り、チョコバナナと苺ホイップのクレープを購入して半分ずつわけあったあと、続きの講義のため大学へ舞い戻った。
 暦は十二月も後半。
 時期的にどこも忘年会シーズンで、ゼミ長が予約したお店のなかはお客さんでいっぱいだった。席に案内してもらったあと、少し離れたテーブルに見覚えのある顔を見つけて、あらまぁと苦笑する。

 最初に見つけたのは木崎くんの後ろ姿だ。となると必然的にメンバーはいつもの4人組ということになる。
 木崎くんの隣に見慣れた金髪の後ろ頭、その向かい側にこっちを向いて座るのは風間くんと寺島くん。風間くんがわたしに気付いて、諏訪が振り向く。

「あ? なんだ、おまえもここかよ」
「偶然だねぇ」
「じゃあ帰り声かけろ。送ってく」

 同い年組で楽しく飲んでいるのだから、気にしなくていいのに。多分断ったら断ったで諏訪は心配してしまうだろうから、うんありがとうと大人しくうなずいておいた。
 一人暮らしをはじめてすぐの頃、男の人に謎の縁を感じられて連絡先を訊かれたのだと、再会したその日にそんな話をしたせいでずっと気に掛けてくれている。誠に申し訳ない。だがもうこれは諏訪の性分みたいなものなので、素直に助けてもらおうと思う。
 わたしと諏訪の話が落ち着いたところでゼミ生がうりうり肩を小突いてきた。

「なになに、彼氏? 彼氏いたの?」
「いえいえ。十七年のつきあいの腐れ縁でして」
「十七年? なっが!」

 なんだか昼間、諏訪がこんなやりとりを女の子としていたな。
 デジャヴュを感じて不思議な気持ちになっているうちに飲み物が配られ、ゼミ長の音頭で乾杯した。

 脈が速いな、と首筋に手を当てる。
 諏訪ほど強くはないけど風間くんよりは飲めるつもりだったのに、いつもより早めに酔った。ちなみにほぼ同じタイミングで乾杯していた諏訪たちのグループでは、風間くんがすでにテーブルに突っ伏して寝ている。大丈夫だろうか。
 最近バイトに入ることが多かったから疲れていたのかな。とくとくと脈打つ辺りを指先で冷やしていると、ゼミ生の男の子が新しいお冷やを持ってきてくれた。

「井實さん、平気? これお水」
「ありがとう」

 自分のお水はもう飲んでしまっていたので有難くいただく。
 彼のほうはハイボールを呷りながら、離れたところで盛り上がっている諏訪たち(寝ている風間くんを除く)を指さした。

「あの人たちって全員ボーダーなんだよな?」
「知ってるの?」
「弟がこの間ボーダーに入隊してさ、一緒にホームページ見たんだ。あの人たち強いんだろ?」
「そう……なのかな。彼ら、あんまりボーダーの話はしないから」
「あ、そうなんだ」

 ぼんやりとボーダー内でも強さで序列がつくこと、木崎くんは玉狛支部で別枠だとか寺島くんはエンジニアだとかそういう当たり障りのない話は本人たちから聞いている。だけど彼らが組織内でどのくらい強いのか、居場所を聞くと「大学」か「飲み屋」か「ボーダー」の三択しかない諏訪がいつも本部でどんな訓練をしているのか、詳細は聞いたことがなかった。

 わたしは、わたしの前で晒される諏訪の顔しか知らない。

「さっき話してたのが聞こえたんだけど、あのひと、井實さんの彼氏じゃないんだよね?」
「諏訪のこと? ちが……」

 いつも通り否定しようとしたところ、「理世」と諏訪の声に遮られた。いつの間にかモッズコートを着込んで、ポケットに両手を入れた諏訪が、帰る気満々でテーブルの近くに立っている。

「帰るぞ。飲みすぎだ、顔赤けぇ」
「あ、……でも」

 せめて中座の挨拶だけでも、とゼミ長を見るとウィンクとともに親指がグッと立てられた。いやなんのウィンク? どっちにしろそろそろコースの終了時間だったみたいで、「解散しよっか」という話になりはじめる。
 それならまあいいかと席を立ったところ少しふらついた。
 先程まで諏訪の話をしていたゼミ生に支えてもらいながら荷物を取って、もたもたコートを着込んだところで、諏訪がわたしの腕からマフラーを取り上げる。「ふらついてんじゃねーかバカ」と悪態をついた諏訪は彼に向かって「いくら?」と訊ねて、聞いた会費を自分の財布から払ってしまった。ああ、あとで返さなくちゃ。
 若干乱暴にわたしの首にマフラーをぐるぐる巻いて、帰宅を促すように、諏訪は肩に手を回してきた。

「わ、ちょっと諏訪」
「んじゃ連れて帰ります。お邪魔しましたー」
「井實さんまたねー!」「おつかれー」

 ゼミ生たちに見送られて店を出ると、冷たい空気が頬を刺した。
 はぁっと吐く息が白く凍る。諏訪はモッズコートの襟元に鼻先まで埋めて「さっみ」とつぶやいた。

「木崎くんたち、いいの?」
「一旦解散して二次会行くんだと。あとで合流する」
「タフだなぁ」
「タフでないと生きてけねぇからな」
「あはは」

 なんとなく肩を抱かれたまま歩きだすと、よっぽど寒かったみたいでぴとりとくっついてくる。珍しいこともあるものだなと思うと同時に、さすがに顔に熱が上ってきたので、こっそり両手で頬を冷やした。
 諏訪は酒も煙草も麻雀も嗜む大学生の不健全の見本市みたいな人だが、この目つきと口の悪さで以てしても損なえないほど面倒見がよく、仕切り屋で、そして律義だ。
 部屋に二人きりでいても色めいた何かを感じさせたことは一切ない。そういう諏訪だからわたしもハイペースな訪問を許すことができていたのだが、さすがにここまでくっつかれると、なんというか、恥ずかしい、かも。

「諏訪、肩、ちょっと痛い」
「さみーんだよ我慢しろ」
「ええ」
「嫌なら離れるけど」

 なんだかその言い方が拗ねた子どもみたいで、わたしはちょっと笑った。いやじゃないよ。少しだけ、肩を抱く手の大きさに、そわそわするだけだよ。

 学部の女友達のなかにはわたしと諏訪との関係性について「そんなに泊まるのに手を出されたことがないの?」と、冗談めかして言う人もいる。当然の認識だと思う。年頃の男女が一人暮らしの部屋に泊まるって、世間のイメージだとやっぱり「そういうこと」だ。
 だけどそうやって笑われるたび、お互いそういうのじゃないからとやんわり否定する表向きと裏腹に、ばかにしないでと腹が立つ。
 諏訪は確かに男性で、わたしも女性だけど、それ以上に一人の人間同士であるからして、互いにそのつもりも必要もないのに男女の関係になるわけがないではないか。宿泊を許すくらい気を許していることと、体を許すことはけっして=ではない。≒くらいではあるかもしれなくても。
 わたしだって諏訪以外の男性が相手ならこんなこと許さない。
 ……いや風間くんとか木崎くんとか寺島くんが今晩の宿に困っているって言いだしたら泊めるかも。諏訪の友だちを見捨てることはできない……良心が疼く……。そうなったらやっぱり諏訪も召喚して……って、何を考えているのだ。

 散漫とする思考を振り払うように軽く頭を振った。
 すると諏訪の頭の重みや手の大きさに気を取られて疎かになっていた足元が、地面の僅かな段差に引っ掛かる。

「わ!」
「っぶねー! 何やってんだよ」

 諏訪が咄嗟に抱き込んでくれたおかげで、ふらついただけで済んだ。危うく二人して地面にスッ転ぶところだった。めんぼくない、と謝ると諏訪は溜め息をつきながら頭をがしがし掻く。
 わたしを立たせて、自分はその足元にしゃがみ込み、ボディバッグをお腹側に回して背中を見せた。

「オラ乗れ、酔っ払い」
「えー、そこまで酔ってない……」
「うっせーとっとと乗れ。巻き添えで転ばされたらたまんねぇよ」

 諏訪だって飲んでるくせにとぼやきつつ、お言葉に甘えて背中に乗っかった。諏訪はもこもこのモッズコート、わたしも分厚い素材のチェスターコートを着込んでいるから、あまり深いことは考えずに済む。
 どっこいしょとわざとらしい掛け声。諏訪の背中は意外なほど安定感があった。

 誰かにおんぶしてもらったのはいつぶりだろうか。
 頬を浚った寒風に身を竦めて、すぐそこにあった諏訪の頭に擦り寄る。
 僅かに煙草のにおいがした。飲み会中、二度ほど席を外していた様子を思い出す。そうだよなぁ諏訪ももう酒も煙草も嗜む大人で、しかも三門市を守るボーダーの戦士なんだもんなぁ。わたし一人くらい軽々抱えてしまえるのも当然か。

「洸って、煙草吸わないよね」
「は?」
「わたしの前で」

 少しのあいだ、諏訪は押し黙った。
 彼の足音だけが確かに響く夜半の路地。
 やがて一度わたしを抱え直すと、諏訪はぽつりと答える。

「親父さんが、吸ってたろ」

 想定の斜め上をいく反応にわたしは思わず諏訪の後頭部を凝視していた。人んちで吸わねーよとか、副流煙がとか、煙草くせぇだろとか、そういう無難な配慮が返ってくるものと思っていたのに。

「……思い出させるんじゃねぇかと思って」

 続くその言葉になんだか心臓の裏側を撫でられたような気になって、わたしは無言で諏訪の首に抱きつく力を強くした。
 文句は飛んでこなかった。わたしはこの人に甘えてもいいのだと思わされた。

 わたし以上にわたしの傷を優しく撫でて慰めてくれる、こんな人はそういない。悔しいことに涙が滲む。

「いいのに。別に」
「おまえが気にしなくてもこっちが気にすんだよ」
「そっか」

 諏訪は根っから諏訪だから、もしかしたらこんなのは当たり前の優しさなのかもしれない。大学の友人や、ボーダーの先輩後輩たちみんなに等しく与えられる気遣いなのかもしれない。特別なことなんかじゃない、きっと、この人にとっては。
 だけど、ああ。

「洸」
「あ?」
「コーヒー淹れるから飲んでけ」
「なんで命令形だよ」

 風間くんたちには悪いけど、もうちょっとこの人と一緒にいさせてください。
 寒いから。

「まあ理世がどーしてもっつーならしょうがねぇな」

 ふっと満更でもなさそうに諏訪が笑うので、わたしは「どーしても!」と高い声を上げながら彼の背中に体重をかけた。バカ暴れんなと焦りつつ決してわたしを支える手は緩まない。
 多少縋りついたくらいではぐらつかない、この安定感がいとしい。
 あなたの在り方はとても尊い。



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