四日目の夜、方々に大迷惑をおかけしてしまった夏合宿もあっという間に最後の夜。
 一週間びっしりと練習試合をこなしたおかげで、他校の部員のみなさんの名前やポジションも大体頭に入った。特に同じ都内の梟谷学園のみなさんにはとてもよくしていただいて、マネージャーの白福さんと雀田さん、それから同学年の赤葦くんとは連絡先まで交換してもらった。木兎さんも、最初はガァッと話しかけられる勢いに押されていたけど、本人の裏表のない気性は見ていてとても気持ちがいい。

 楽しかった、というよりはまだ、疲れた、のほうが大きい。
 四六時中誰かと一緒というのは実はとってもしんどくて、もうやだ帰りたい、と思ったことも一度や二度で済まなかった。
 だけど、もう二度と来たくない、とは思っていない自分がいることに安心している。

「よぉっし! やるぞ恋バナ!」

 寝支度を整えて布団に入ろうとしていたら、白福さんが拳を天井に突き上げて大きい声を出した。
「いいねえ!」「やろやろ」と、まるで修学旅行の夜みたいに、各校のマネージャーさんが布団の中心に集まる。この一週間のあいだもお話し好きのみなさんはけっこうお喋りを楽しんでいたし、各自で恋バナもしていたと思うけど、こうして全員で輪になってということはなかった。

「梓ちゃんもおいで〜。っていうかメインね。逃がさんよ!」
「え……えぇ……」
「うふふ。まず彼氏いる?」

 さり気なく布団に入ってしまおうとしていたわたしを白福さんがずりずりと引き摺り出した。つ、つよい。
 わたしがメインって、何事。そうか七月の上旬にも一回合宿があったから、もうみなさん一通りのことは話し終えているのか。新顔で情報のないわたしに喋らせる魂胆だな。
 ──と、魂胆がわかったところで回避する方法がない。

「かれし、は、いません」
「いないのかぁ〜〜! じゃあ好きな人は!?」
「赤葦に聞いたんだけど、黒尾くんと孤爪くんが幼なじみなんだよね? どっち?」
「どどどどどっち!? とは!?」

 確かに合宿三日目、梟谷との試合のあと、赤葦くんとそういう話をした記憶がある。「前回の合宿はいなかったよね」「このあいだ入りました」「孤爪と仲良さそうだったけど」「けんまと、黒尾先輩、幼なじみなので」みたいな……。初対面の人といきなり会話するっていうハードルが高すぎて、あんまりよく憶えてない。

「あの、どっち、とかは……」
「ないのかー! 絶対孤爪くんのほうだと思った!」
「わかる。孤爪くんめっちゃ梓ちゃんのほう見てるよね。いやこれは黒尾くんもか? でも彼の場合保護者ムーブが強いよねぇ」

 ──小さい頃は、研磨のことが好きだった。
 いつも一緒だったから刷り込みに近かった気もするけど、今でも研磨の隣がいちばん落ち着く。これは、好き、とはまた違うのだろうか。よくわからない。
 中学での躓きを経て、他人に対する評価基準が、わたしに攻撃してくるか否かの二択になってしまった。

「じゃあさあ、他の学校でこの人いいなーって思う人とかいなかった? うちの赤葦どう!?」

 人間界レベル2のわたしには、毎日お仕事をして部員の人の名前と顔を覚えるだけで精一杯、誰が格好いいとかそんなことを考える余裕は一切ない。辛うじて「今のブロックすごい」とか「スパイク強い無敵」とか……。
 普通の女子高生はタフだ……わたしはまだまだだ。
 地味にへこみつつ正直に答える。

「あ、赤葦くんは、話しやすくて、親切で、いい人と思います」
「うんうん。ちょっとヘンだけどね」
「赤葦ヘンなの?」
「ヘンだよ。あんま顔に出ないだけで」

 ヘンなのか……。音駒のバレー部も大概変わった人ばかりだから、赤葦くんなんてすごくまともで話しやすいなぁと感動したんだけど。
 静かで、いきなり大きい声を出したりしないし、ちょっと空気が研磨に似ているっていうか。
 ……研磨に。
 多分今頃すでに布団に倒れ込んでいるだろう、研磨のことを思う。背伸びしないで。充分がんばってる。あの人の与えてくれるやさしい言葉の数々と、黙って握ってくれる手のあたたかさ。
 無意識に、いつでも胸元に提げているお守りを服の上から握りしめた。子どもの頃に研磨がくれたものが入っていて、何かあれば触れるのがもう癖になってしまっている。……我ながら重い。

「まあ〜〜でも? やっぱ幼なじみって強いよねぇ。梓ちゃんも何だかんだで孤爪くんのとこすぐ行くし」
「う、え……そんな……わかりやすいですか」
「わかりやすい」
「わかりやすい」
「迷子みたいな顔してた梓ちゃんが、孤爪くん見つけて駆け寄っていくの可愛い」
「猫だよね。猫が二匹。癒し」

 そこまで見られていたなんて思わなかった。羞恥で思わず顔を隠してしまう。ま、迷子だなんて情けない。


EINE KLEINE



 バレーボール。
 九メートル×十八メートルのコートを、高さ二.四〇メートルのネットで仕切り、ボールを自コートに落とさないように、『繋ぐ』球技。
 日本だとまだ女子バレーのほうが世界ランクも人気も強くて(最近は段々男子バレーも盛り上がり始めているけど)、男子の高さ・力強さよりも、女子の華やかさやしなやかな粘り強さといったチームワークが注目されがちだ。
 女子の試合はラリーが続きやすい。何度もボールを上げ続けて得る一点は、観客の心を大いに掴む。
 しかしラリーが続くということは、《《反応できる》》速度である、ということでもあるのだ。
 全国大会ともなればプロと同じ二.四三メートルもの高さになるネットを越えて戦うのだから、男子バレーにとって高さは浪漫であり正義であり、空中戦を制するためにはどうしても必要な要素となる。高さが増せば、角度が増して、速度も増す。時速一〇〇キロ越えなんて当たり前。それこそ見えても反応できないくらい。

 だごんっ、と凶悪な弾丸のような音を立ててサイドラインを割った練習球が飛んできた。
 高く跳ね上がったボールをひょいと受け取る。……アウトだったので。

「っだアァァしつけえな!」

 咆えたのは森然の主将さんだ。合宿最終日の最終試合、『繋ぐ』バレーを基礎戦略と掲げる音駒に対する最高の褒め言葉。
 ブロックでコースを絞り、レシーブで拾い、研磨のゲームメイクで試合を進める。まだまだ粗はあるし、合宿の疲れもあるし、何より研磨がもうスタミナ切れなので点差はついているけれど、通用しつつある。
 春高バレーが三月開催から一月開催になり、三年生には引退時期の選択肢が与えられることとなった。どちらがよい、とは一概にいえない。いえないけれどやはり、肉体的にも技術的にも優れた三年生の残るチームと、三年生が引退して新しくなったチームとでは、見た目にも差がある。

「もうちょっと、高さが、ほしい……かなあ」

 バレーにとって高さは正義だ。
 でも、もちろん高さだけがバレーじゃない。
 むしろ音駒のバレーでは空中戦よりも地上戦といった色が濃いから、高さは最重要項目ではない。しかし現時点でてつくんの一八五センチがチーム最高というのは、まあ一般的に『低い』チームだ。
 研磨もすごく大きいわけじゃないし、リベロの夜久さんも小柄なほう。音駒はそれでもじゅうぶん戦えるチームだと思うけど、もうちょっと高さがあれば、ブロックの質も攻撃の幅もまた上がる。
 ……来年の一年生に期待かなあ。
 そんなことを考えているうちに試合はストレート負けを喫し、みんなはもはや貫禄さえ感じさせる姿で、合宿最後のペナルティにかかった。

 体育館の片付けや掃除が終わると、先生たちが用意してくれたバーベキューが始まる。
 お腹はぺこぺこだったけど、わらわらと大きい人たちが集まる網に突撃する元気もなく、わたしは隅っこのほうで研磨とおにぎりを食べていた。このおにぎりはマネージャーのみんなで準備したものだ。

「つかれた……」
「つかれたね……」

 薄っすらと橙色に染まりゆく空を眺めつつ、喧騒を離れて二人ぐったりと肩を落とす。
 音駒のみんなは他校の人たちとすっかり打ち解けていて、中心のほうは学校関係なくみんなで楽しんでいるようだった。マネージャーさんも、女の子たちで集まっているのが見える。あっち行ったほうがいいのかな。でももう疲れたし、いっか。

「……お肉とってくるね。けんまも食べるよね」
「え……おれもいく」
「いいよ。座ってて」

 一週間の合宿中、同学年のセッターと交代で試合に出て、たまに力は抜くけれどもずっとゲームメイクを担当してきた研磨は、今まで見たことないくらいへろへろだ。ペナルティの坂道ダッシュが重なりすぎて、途中で倒れ込んで動けなくなったこともある。さすがにもうゆっくりさせてあげたい。
 恐る恐る中心集団に近付いて、テーブルに置いてある紙皿と割り箸を取り、ぱちぱちと燃えている網の上を覗き込む。
 バーベキューなんて人生初だから、どれを取ったらいいのかわからない。家でやる焼肉と同じ感じでいいのかな。どれでも取っていいのかな、誰かが自分の食べるぶんを焼いてたんだったらどうしよう。いざ目の前にするとぐるぐる余計なことを考え始めてしまった。
 すると、てつくんとお喋りしていた木兎さんがこっちに気付いた。

「お。梓ちゃんじゃん何食べる!? 取ろっか!?」
「ヒイッ」
「木兎怯えられてんじゃん。うける」
「黒尾うるさい!」

 いや木兎さん自身はとてもいい人なのだ。ちょっと、勢いが……勢いが、強いだけで。
 オロオロしているわたしの横に立って「どれにするー?」とにこにこ笑顔で訊いてくれたので、どれが美味しかったですか、と質問してみた。

「んー、このへんとか? 取ったげるね」
「あ、わあ、ありがとうございます……あの、あの、もう、もうそのへんで」
「木兎さんそんなに乗せてもこの子食べられないですよ。──孤爪のは? 分ける?」
「あぁあ、わぁ、あのう、じゃあこっちにお野菜を、ふたりでわけますので」

 ひょいひょいとわたしの紙皿にお肉をてんこ盛りにしていく木兎さんを制して、赤葦くんが野菜を乗せてくれた。ついでにてつくんが「餌付けかよ」とゲラゲラ笑いながら焼き肉のタレをかけてくれる。

「すっげー量! ちゃんと食えよこれ。研磨とふたりで」
「食べきらんなかったらてつくんとこ持ってくるから大丈夫」
「お? 主将に残飯処理さすとはいい度胸だな」
「にゃーやめてー」

 楽しそうなてつくんが背後から両手でほっぺたをむいむい引っ張ってきた。木兎さんと赤葦くんのおかげで山盛りになったお皿を両手に持っているから抵抗できない。遺憾の意を表すため、背中全体で凭れかかっててつくんに思いっきり体重をかけてやった。
 びくともしない、腹立つ。

「おーおー軽い軽い。お前ももっと食って体力つけな? 合宿中どれだけボクが心配したことか」
「諸悪の根源がなに言ってるのよう……」
「ショアクノコンゲン? んん? なんて?」

 むいむい引っ張った挙句今度はほっぺたを挟んでタコさん顔にされた。木兎さんと赤葦くんの目の前で。許すまじ。
 一八五センチのてつくんと、特別大きくも小さくもないわたしでは、頭ひとつ分以上の身長差がある。両手にほっぺたを挟まれて唇を尖らせたままてつくんの顔を見上げると、ニヤニヤと心底楽しそうな様子だった。人の顔で遊んでおる。

「もー、やだ、てつくん嫌い」
「エッ」
「こっちこないで」
「エ、待って、それは待って梓ちゃん」
「おー黒尾が本気でショック受けてる」
「可愛いからっていじりすぎなんじゃないですか」

 ビシリと固まったてつくんの腕の中からすり抜ける。我に返ったてつくんが追いかけてきたので、近くにいた福永くんの背中に隠れた。

「……大丈夫?」
「てつくんがいじめてくる」
「福永そこをどきなさい! 梓コラもっぺん言ってみろ! てつくんの目を見てはっきりと!」

「自分でてつくん言うなウケるから」と夜久先輩のツッコミがどこかから飛んできた。巨人が多すぎて夜久先輩が見つけられない。
 両手に山盛りの紙皿を持ってうろちょろするわたしと、なぜか半泣きで追いかけてくる主将に挟まれた福永くんは、困った挙句わたしを守るようにバッと両手を広げた。じりじりと睨み合うわたしたちに気付いたのか、呆れ顔の研磨が重い腰を上げて近付いてくる。

「クロなにやってんの……梓疲れてるんだからあんま走らせないでよ」
「研磨クンなんで俺が悪い前提で話すの!?」
「おれ基本梓の味方だから……」
「堂々と言ったなァ! 清々しいわ」
「梓ありがと。あっちで食べよ」
「アッこれマジで俺の訴えは聞いてもらえない感じ?」


5: Dolce



「ン? 梓こっち座るの」

 ぱち、と瞬きをしたてつくんの隣の席に腰を下ろす。バーベキューの片付けも終わって、荷物をバスに積み込み、これから音駒高校へ向けて出発するというところだ。

「……だめ? 海先輩すわる?」
「ンッ。イエイエどうぞ、お嬢さん」

 妙な咳払いをしたてつくんを、通路を挟んで隣に座った研磨がジト目で睨んでいる。
 “クロは別に梓が本気で嫌いって言ったわけじゃないのわかってるだろうしショック受けてるのもポーズだけど、梓は家に帰ったあと絶対『嫌いって言っちゃった』って後悔すると思う、おれは”──と、バスに乗る前に言われたのだ。自分でもそんな気がするし、研磨がそう言うならそうだろうなと思ったので、てつくんのお隣をキープしてみた。
 バスが動き出してしばらく、最初のうちは話し声が響いていた車内には、穏やかな沈黙が漂いはじめた。
 みんなくたくたなのだ。気付けば研磨も窓に寄りかかって眠っていた。ゲームする元気もないみたい。

「なあ、梓?」
「うん」
「……ンー……。たのしかった?」

 てつくんは窓の外を眺めている。
 車内は明るいから、窓の外を眺めるてつくんの顔が硝子に映っていた。
 窓越しに目が合う。

「たのしかったよ」
「……しんどかったろ?」
「しんどかったけど、楽しかったよ。みんなだって、そうでしょう」

 この一週間、初めての合宿に右往左往するわたしに笑って教えてくれたマネージャーのみなさん、見慣れない顔だと興味津々で構ってくれた木兎さんや、びっくりさせてごめんねと言いながら色々気にかけてくれた赤葦くん。重たいものを運んでいたら学校関係なく誰かがすぐに声をかけて手伝ってくれたし、迷子になりかけて助けてもらったのも一度や二度ではない。
 怖いなと思う先輩も中にはいたけど、わたしに対して攻撃が向くわけじゃないからなんとか大丈夫だった。バレーの音は好き。人の話し声は苦手だけど、顔と名前が一致してきたから、最後のほうは平気になっていた。

「……あのねてつくん、さっき嫌いって言ったの、うそじゃないけど」
「嘘じゃないんかい」
「だって木兎さんと赤葦くんの前で変な顔にするからはずかしかった」
「ゴメン」
「うそじゃないけど、嫌いじゃないからね。てつくん大好きだから」
「へーへー。安心しましたよ」
「でもあれ人前でやったらまた嫌いになる」
「肝に命じマス」

 でもまたやるだろうなあ、てつくん人に意地悪するときイキイキするから……。と思ったらてつくんもしばらくして噴き出して、「でもまたやると思うわ」と笑った。

 てつくん、わたし平気だよ。
 だからあんまり自分を責めたりしないでね。
 てつくんは昔から自分の悔しいのや辛いのや悲しいのを堪えてしまう人だから、きっとわたしや研磨には言えない思いもたくさん抱えているだろう。主将になった今、それが彼のキャプテンシーでもあろうと理解している。支えるには、この掌は脆すぎるということも。
 だからいつか、てつくんが、「自分が巻き込んだ」とか考えることなく心の底から「梓がマネージャーでよかったな」「あの日誘ってよかったな」って笑えるような人に、わたしはなりたい。