東京都内の高校に男子バレーボール部は二百チーム以上ある。実力についてはピンキリで、近年は井闥山・梟谷が双角を成していた。
 音駒がそこに名を連ねていたのは数年前の話だ。
 強豪、というよりは中堅で、古豪。「音駒ってどこ?」「昔強かったとこじゃん」という会話をもう、今日一日だけで何度聞いたことか。
 嫌でも耳に入るその会話に所在なく視線を彷徨わせるわたしの背中を叩き、身長一八五センチの当部主将は腰をかがめてにやりと笑った。

「あいつら黙らせてやろうぜ」


EINE KLEINE



 音駒のブロックを避けるようにして打ち下ろされたクロスは、あらかじめコースを読んでいた夜久先輩の守備範囲。パンッときれいに上がったAパスを研磨は見上げて、最少の歩数、最小のモーションでライトへバックトス。打ち込まれたしなやかなスパイクは相手校のブロックに阻まれるも、てつくんのフライングレシーブで再び研磨へ。研磨がきょろっとレフトに視線を動かすと、それを見た相手のブロックが二枚動く。じゃあこっち、とでも言いそうな最小のセッティングで再びのライト。振られなかった一枚の指先を打ち砕く強烈なスパイクが相手のコートに突き刺さる。

 全日本バレーボール高等学校選手権大会一次リーグ二回戦、応援の数も観客の数もまだ少ない。だからこそ、レシーブが上がるたびに「おおっ」と誰かが感心するのがよく聞こえる。

 研磨のサーブは入れるだけ。──に見える、絶妙なコース。
 まだあんまり打ち分けは器用にいかないけど、「あそこ狙ったら取り辛いだろうな」というような位置を狙うので、若干甘くても相手はまごつく。案の定レセプションは乱れ、トスは短い。向こうのセッターがアンダーで上げた二段トスを三年生エースが強引に打った。てつくんのブロックの指先を掠め軌道が変わったボールを、海先輩が体勢を崩しながら高く上げる。すごい! あんなの普通のチームなら落ちているボールだ。
 研磨が三歩でボールの下に滑り込む。てつくんと海先輩がそれぞれアタックの態勢に入るが海先輩は助走が足りない。相手のブロックはてつくんに二枚海先輩に一枚と割れ、研磨のセットアップ、てつくんの助走につられた相手ブロッカーが跳んだ瞬間、てつくんは膝を沈めて一拍、待つ。
 しまった、と言いたげな二人を嘲笑うように跳んだてつくんがスパンと打ち込むと、遮るもののないコートへとボールが叩きつけられた。

「一人時間差……!」

 ざわつく相手ベンチ、観客席。胸のあたりがなんだか熱くなって両手をぎゅっと握りしめた。
 研磨とてつくんが積み重ねてきたいくつもの練習が通用して、相手を翻弄している。コツンと拳をぶつけあった二人の視線が不意にこちらを向いて、てつくんは弾けるような笑顔でガッツポーズをくれた。思わず立ち上がってしまって隣のコーチを驚かせる。

「お、おう、どうした真柴」
「ご、ごごごめんなさいなんでもないです」

 “今からたくさん練習してなァ、他の奴らにできないこと俺たちが一番できるようになるんだ!”
 “今使えない攻撃技だって、今からたくさん練習してれば高校生くらいには、きっと”
 “俺たちの立派な必殺技のひとつになってるぜ!”




 残暑のなか行われた一次予選。二回戦から出場した音駒高校は五回戦までを順調に勝ち上がったものの、三日目の準々決勝では梟谷にフルセットで敗退、夏と同じベスト16という成績で大会を終えた。次の大きな大会はひとまず一月の新人戦となる。
 一週間おきに開催された一次予選のあいだに二学期がはじまり、体育祭を経てあっという間に中間テスト期間を迎えた。
 研磨は先日、ずっと発売を楽しみにしていたゲームがついに手に入ったというのでそれにかかりきりだ。テスト期間だから部活も禁止になっていて、家に帰ってからのびのびとゲームをしているに違いない。テスト勉強は、まあ、研磨はふつうに頭がいいので問題ないはず。
 問題があるのはわたしのほうだった。

「お。梓じゃん、研磨は?」
「てつくん」

 テスト期間中は自習室も人でいっぱいになるから、わたしは図書室前の廊下にいた。長机とパイプ椅子が壁に沿って一列に置かれただけの簡素な自習スペースだけど、人が少ないので居心地がいい。
 突き当たりの一番奥で隅っこを堪能していたわたしの隣にやってきたてつくんは、リュックをパイプ椅子の背に掛けた。

「けんまはゲーム。こないだモンハンの新しいの出たから」
「あー、そういやウキウキしてたっけな。勉強してんのかねアイツは」
「まあ……、大丈夫なんじゃないかなぁ。点数落ちたらゲーム禁止されるし、頑張るよきっと」

 自分の勉強道具を並べたてつくんは、わたしの手元を覗き込む。数学Aだ。

「数A苦手? 教えてやろっか」
「ほんと?」
「Aで躓いてたら来年キチィぞ。数UBとかまじで意味わかんねえからな」
「わーどうしよう絶対むり。VCもあるの?」
「VCは理系に進むやつだけでいんじゃね?」

 こうして隣に座ってみるとわかるけど、てつくんの百八十五センチってけっこう威圧感がある。
 彼の場合パワープレーというよりはテクニック寄りの選手だから、身についている筋肉は『跳ぶこと』に特化している。だから縦に長いという印象なんだけど、当たり前の話男性だから基本的に何もかもわたしより大きい。子どもの頃はそんなに気にしたことなかったけど、いつの間にこんなに縦に伸びたんだろう。
 まあ、中身は昔と変わらないか。いやちょっと性格が悪く……もとい、挑発上手でしたたかになった。
 自分の英語の課題を広げているてつくんの横顔をぼんやり眺めていると、視線に気付いたのか「なに」と瞬きをする。

「どれがわかんねぇの」
「や、てつくん、身長伸びたねっておもった」
「今ァ?」
「ごめん」

 確かに今更すぎるかも。学年はひとつ違うけど、疎遠になることもなくずっと一緒にいたのにね。

「でもてつくんがチーム最高身長っていうのはちょっとなぁ。このあいだの予選で思ったけど、うちってやっぱりブロックが低いよね。もうちょっと大きい子がほしい」
「そりゃ……来年の勧誘頑張るしかねーだろ。女子マネがいますってアピールしまくって」
「やだ」
「大丈夫大丈夫、アホな男子なら『女子マネ』の響きで何匹か釣れるから」
「やだ」
「梓はニコッてしてベンチ座って可愛く『ファイトー!』って言ってればいいから」
「むり」
「やだやだむりむりやかましい口だなー」

 段々人にいじわるするときの楽しそうな顔になってきたてつくんが、ときに相手スパイカーの渾身のアタックを完膚なきまでに叩き落す大きな掌で、わたしの頬っぺたをぶにぶに押し潰す。人前でやったらまた嫌いになるって言ったのに!
 と、右目の端にちくりと痛みが奔ったので「痛い」とその手を引っぺがした。

「なに? 爪刺さったか?」
「ちがう……、目が。睫毛、入った感じ」
「あー擦んな擦んな、見してみ」

 見してみといったって。パチパチと瞬きを繰り返すうちに涙が零れた。てつくんは大きな体を屈めてわたしの顔を覗き込み、指先で瞼を引っ張ってくる。人にされるの、怖い。

「右目の目尻だなー。睫毛が内側に巻き込まれてる。ってかお前睫毛なっがッ。ちょ、シャー芯乗せてみていい?」
「いやいやいや……ちょ、やめて本当にシャー芯出さないでよ」

 なんなの高校二年生にもなって人の睫毛にシャー芯乗せようとするとか。小学生なの?

「大きくなったのは図体だけデスネ……」
「最近の梓、俺に辛辣じゃない? 泣いちゃうよ」

 その後、睫毛は手鏡を頼りに無事救出された。シャー芯は断固として乗せなかった。


6: Calando



 翌朝、朝練を終えて福永くんと一緒に教室に入った瞬間、クラスメイトの視線が音を立てて突き刺さった。

 あまりにも唐突な注目あるいは凝視。びくりと足を止めたわたしの背中に福永くんがぶつかる。彼は不思議そうに首を傾げたあとでクラスの異様な雰囲気に気付いたようだったけど、そろそろチャイムが鳴る時間だったので、「はいろ」と背中を押された。
 足が動かない。
 泳いだ視線を爪先に固定して、とにかく席につこうと歩きだす。

 視線。
 ……視線と、それから、話し声。
「えー、ほんと?」「そんなふうにみえないのに」「くろおせんぱいってあの」「にねんせいの」「いやでも」聞こえないように多分ひそめられた、でも聞こえてしまう声が、耳から入り込んで頭の中に飛び回る。そんなふう? てつくん? なに? 悪口言われてる? どういうこと? どうしてこんな急に。
 あ、これ、あのときの感じ、と記憶が蘇った。
 中学二年の。あのときの。周りがみんなわたしの悪口を言っているような被害妄想に憑りつかれた時期の、心臓の凍るような緊張。

 ふわふわした気持ちで授業を受け続ける合間にも、クラスの女の子からは遠巻きに見られていた。他のクラスや学年からも、なぜかわたしを見に来た人がいる。どうやらてつくんが関係しているらしいけど、わたしは何かやらかしたのだろうか。
 聞きたくないのに、聞かなければいいのに、勝手に耳に入ってくる人の話し声が頭の中でわんわん反響する。
 こういうとき、わたし何かしたかな、って堂々と言えたら。
 あるいは、怖がっていないでちゃんと友人関係を構築していれば、何があったのか訊ける相手がいたかもしれないのに。休み時間はイヤホンを刺して音楽を聴きながら突っ伏して過ごした。こんなにも人の声を耳障りに感じるのはいつ以来だろう。

 四時間目の授業が終わると、英語担当の担任の先生が「あ、真柴、ちょっと職員室に来てくれるか」と声をかけてきた。
 職員室。
 ……職員室?
 廊下に出てからも視線とひそひそ話は続いていた。人の目が、気になる。何を言われているのかがはっきり聞こえなくて気持ち悪い。吐きそうになりながら職員室へ向かうと、ちょうどてつくんと出くわした。

「梓。悪いコレ多分俺のせい」
「て……てつくんの、せいって、なにが」
「うわ真っ青じゃねーか! 大丈夫か」
「だ、だいじょばないです吐きそう、朝から、朝からすごい、みんなに見られるの、わたし何かした? どこか変?」
「落ち着け落ち着け深呼吸。何もしてない変じゃない! ホラお守り、深呼吸!」

 てつくんは自分のほうこそ真っ蒼になりながらわたしの背中をさすって、手を胸元へ誘導した。いつも首から提げている巾着袋。制服の上から握りしめてひーひー深呼吸をしてから、てつくんの後ろに続いて職員室へと入る。
 わたしたちが入室すると、先生たちまで「ああ」「来たな」と全員で顔を見合わせた。
 喋ったことない、顔も知らない先生まで。硬直しかけた体はてつくんに引き摺られて、わたしとてつくんの担任と、直井コーチが待つ机へ。
 口火を切ったのは、わたしたち二人をよく知る直井コーチだ。

「回りくどく言っても意味ないからはっきり訊くぞ。お前たち付き合っているのか?」

 一拍。

「……、……はい?」
「付き合ってません」

 訊かれた意味がわからず呆けるわたしと、質問を予想していたらしいてつくんのキッパリとした答え。

「な……なん、で、そんなことに」
「昨日の放課後、校内で黒尾と真柴が、まあなんだキスしてたという噂が、今朝からすごくてな」
「……き?」

 現状についていけないわたし、を不憫そうな目で見下ろすてつくん、と段々可哀想なものを見るような目になってきた担任たち。
 昨日の……放課後、校内で。
 ぐるぐると記憶を探ってみてもてつくんとキスした覚えはない。なんのことだかわからず口をぱくぱくさせているとてつくんに背中をバシッと叩かれた。背筋が伸びる。

「梓、ちゃんと否定!」
「つき、……てつ、く黒尾先輩とは、おうちがお隣で小さい頃から一緒で頼れるお兄ちゃんですが、男女交際はしていませんし、昨日キスもしてません」
「いやキスまで言わんでいーけどさ……」

 先生たちは顔を見合わせて「でしょ?」「やっぱり」「誰の早とちりだ?」と深い溜め息をついた。

「いや別にな、校内や部内が恋愛禁止というわけでもないし、黒尾と真柴が付き合っていようがいまいがどっちでもいいが」
「だから付き合ってないって」
「一応なぁ、校内でそういうことするのはちょっとなぁということで、事実確認のために呼んだんだよ。でも事実はないんだな」
「ナイです。昨日の放課後、確かに図書館前の自習スペースで一緒にいましたけど」

 先生相手にハキハキ否定しているてつくんの横で縮こまりつつ、アレだ絶対アレを誤解されたんだ、とわたしは頭を抱えた。
 そんなわたしに気付いたコーチが「真柴、なんか言いたいことあるのか」と話を振ってくる。放っておいてほしかった。

「梓?」
「……て、黒尾先輩、昨日の……睫毛の」
「睫毛? シャー芯?」
「じゃなくて……。目が痛いって、言ったら、覗いてくれたでしょ。あれ、誤解されたんじゃない……?」
「…………」

 わたしは廊下突き当たりの一番奥の席にいて、てつくんはその手前の席にいた。ちょっと遠目からてつくんの知り合いとかが見たら、そう見えなくもない体勢だったと思う。
 全部俺のせい、と言いつつそこまでは思い至っていなかったらしく、てつくんはポカーンと口を開けた。
 大体話の流れが読めたぞ、と直井コーチが苦笑いになる。
 とりあえずお咎めは当然なし、誤解したまま噂だけが独り歩きしているだろうから何か言われたら訂正すること、気にしすぎないこと、あとまあ誤解を受けるような行動は慎むこと──といった注意だけ受けて、わたしたちは解放された。
 職員室を出たところでてつくんは海より深い溜め息をついてしゃがみ込む。

「……ゴメェン……!」
「いや、もう、誤解だし。気にしないで」
「でも、ヒソヒソされんの嫌だったろ……」
「ん……まあ」

 職員室に入る前と今度は逆、わたしがてつくんの背中をさすりながら歩きだす。お弁当は福永くんに預けていて、てつくんも海先輩に渡してあるそうだから、そのままいつも通り体育館へ向かうことにした。
 てつくん自身がわりと目立つほうの人だから、余計に噂の回りが早かったのだろうな。
 毎朝ついている寝癖はどうにかしたほうがいいと思うけど背が高いし、運動ができるし、成績もいいみたいだし、人当たりもよくて明るくてしっかりしていて、わたしには意地悪もあるけど基本的に優しくて、バレー部の主将で。多分、女の子からもけっこうモテるに違いない。
 フと彼女いないのかな、と気になった。てつくんからそういう話を聞いたことがない。
 わたしには言わないだけで、いるのかもしれないけど。

「さすがに研磨の耳にも入っただろうなぁ」
「うーん……。真に受けるとは思わないけど」
「確かに。でも一応言っとこ。研磨にまで誤解されたら梓が困るもんな」
「……え?」

 ぱち、とてつくんを見上げると「アレ?」と首を傾げている。

「梓って研磨すきだよな? 昔から」
「あ……うん、まあ」
「まあって何だよまあって」
「いや、……今はよくわかんなくて。けんまの隣が一番落ち着くのは確かだけど、これって好き?」
「いや、俺に訊かないでチョーダイよ」

 ぷはっと噴き出したてつくんは、ぽんぽんとわたしの背中を撫でた。「研磨にもらったお守り、後生大事に精神安定剤にしてる時点でダイスキでしょ」言い終えたところで体育館の鉄扉にたむろするバレー部のみんなが見えてきた。
 夜久先輩がなぜか「黒尾てめコルァ」と怒鳴っていて、海先輩と山本くんがどうどうと止めていて、研磨は素知らぬ顔でゲームをしていた。
 ……好き?