どうやら夜久先輩はクラスの人から「昨日の放課後、黒尾とマネ―ジャーが図書室前でキスしてたって!」という世にも恐ろしい噂を耳にしてキレ散らかしていたらしい。
あの人見知り小動物の真柴が校内でンなことしたがるわけねー!→黒尾が強引に迫ったに違いない! と半分冗談で怒鳴り、てつくんは「夜っ久ん俺のことそんな風に思ってたの!?」と半分本気で泣き崩れた。さすがにてつくんがかわいそうだ。
なんというか、みんながネタとして昇華しようとしているのはなんとなくわかるから、わたしは研磨の隣に座ってお弁当を食べ始めた。よかった、誰も信じていなくて。
「……けんまも何か言われた?」
「ああうん、まあ……。誰かが見間違えたんじゃないのって答えたけど」
「そっか。ありがと」
てつくんに「好きだよな」って言われたことに思いのほか動揺していたのか、わたしはそのまま聞かれてもいないのに昨日のことを喋りまくった。
てつくんに数Aを教えてもらって、睫毛が目に入って、てつくんが見てくれて、シャー芯を乗せようとしてね。すると研磨はこてりと首を傾けて、卵焼きを口に入れたわたしの目元を凝視する。特に何か意識したような仕草でもなかったのに、研磨の猫目に射すくめられたようにわたしはビシリと固まった。
「まあ……昔から長いよね」
「え、えと、うん、よく言われる」
「化粧してないのにね」
「化粧……マスカラのこと? お母さんはね、わたしが生まれたとき病院で、最近は睫毛の長い赤ちゃん増えてるんだよって看護師さんに言われたって。目を守るためのものだから、空気が汚いのかなって笑ってた」
「へえ」
研磨は薄く微笑んでまたゲームに戻った。
……びっくりした。
EINE KLEINE
中学二年生のときに学校に行かなくなったのは、別に深刻なトラブルがあったとかいじめられたとかそんな大それた理由じゃなかった。
もともと、わたしの在籍するクラスはうるさかったのだ。一部には学年の問題児を集めたクラスだと言われていたくらい。実際、男子女子ともにリーダー格が揃っていて、その取り巻きもいたからあながち間違いじゃないと思う。悪い人たちではないけれどとにかく声が大きくて、わたしにとってはそれが一番の苦痛だった。
毎日毎日、うるさい、うるさい、と心の中で唾を吐く日々。
机に突っ伏したり耳を塞いだりして過ごす時間も多く、そんな態度が誰かの気に障ったのかもしれない。
五月に行われた宿泊研修の数日前に、クラスの人からこんなことを耳打ちされた。
“真柴さんと同じ班の人さあ、真柴さんの悪口言ってたよ”
それは、善意も悪意もないただの報告だった……だろう、と今なら思える。
同じ年に生まれて同じ学区にいたというだけで狭い教室で毎日をともに過ごす、生い立ちも性格も環境も異なる子どもが四十人弱。合う人がいれば合わない人もいる。文句を言いたくなることもあるだろう。たまたま小耳に挟んだその文句を、本人に言ってしまう人だっているのだ。そんな出来事で、すっかり学校に行く気力をなくしたわたしみたいなのがいるように。
「お母さん今日学校休む」
いつも朝起きる時間にリビングへ向かうと、朝ごはんを準備してくれていたお母さんが振り返った。
「わかったー。体調悪い? それとも行きたくない気分?」
「行きたくない気分……」
「はいよー。まあ起きてきたんだしご飯は食べな」
中学の不登校を経験して、お母さんとは一つ約束をした。学校に行きたくないときは、行きたくないと正直に言うこと。頭が痛いとかお腹が痛いとか中学の頃みたいな嘘をついていたら、本当に調子が悪いときに判断つけられないから、って。
研磨には少し迷って、調子が悪いから学校休む、とメールしておいた。
噂が誤解だと、どの程度広まっただろう。
昨日は結局午後もひそひそされて気分が悪かった。みんな『黒尾が付き合っているらしい一年女子』を見に来ただけだということはわかるけど、どうしても誰かがわたしのことを悪く言っている気がする。睨まれている気がする。疎まれている、気がする。
うるさい、放っておいて、と気持ちがささくれ立つと同時に、なんでわたしがこんな目に、と気分が落ち込んでいく。表情をつくるのも、ご飯を食べるのも、息をするのも面倒になって、多分普通の人なら気にならないんだろうなと不出来な自分に浅く絶望する。
……あんなふうに見られるのなら、学校、行きたくないな。
朝食を終えて自室のベッドに倒れ込む。研磨からの返事は端的で、『わかった』と一言だけ。
学校……、行きたくないな。
もう行きたくない。このまま引きこもってしまいたい。一度逃げたわたしは、逃げる楽さを知っている。
同時に逃げるリスクも、よく知っている。
当たり前の話だけど、逃げなかった人より一歩も二歩も後れをとることになる。学習面でも、人生経験でも、社会的な能力でも。いま苦労しているのが何よりの証拠だ。それに逃げ方を間違えば、もう二度と立ち上がれないかもしれない。
──二年前のわたしは辛うじて宿泊研修に参加した翌日から登校を拒み、拒んで、六月から三月の修了式までは一度も登校しなかった。
学校は行くものだ、体調が悪くないなら行かなくちゃいけない、という強迫観念はあるからなんとか朝起きて準備はした。お母さんも、車で連れてってあげると言ってくれる。でもいざ制服を着て家を出ようとすると足が竦んでもう動けない。そういう一年だった。研磨とてつくんは、多分気になっただろうに何も言わずに一緒にいてくれて、ゲームをしたりバレーをしたりいつも通り過ごした。
大げさでなく、二人が近所に住んでいなかったらわたしは多分そのまま引きこもっていたと思う。
わたしは幸せ者だ。人に恵まれすぎている。
……だから行かなくちゃ。
明日からは、ちゃんと。
中学と違って高校は出席しないと留年してしまう。授業料とか定期代とか、お金もかかっているんだから。テストもちゃんと受けなくちゃ。バレー部のことだって、無責任に放り出していい仕事じゃない。全国制覇を掲げる二年生三人、その真ん中で前を向くてつくんの心に応えたいと思ったのだから。
あの頃のように逃げることは許されない。
……わたしが許さない。
一日かけてようやく気持ちを切り替えたところで、学校帰りの研磨が部屋にやってきた。
「調子どう」
「……えと、うん。平気」
「行きたくない気分の日? クロ『絶対俺のせいだわ〜』って落ち込んでたよ」
「う……そりゃわかるよね」
「ふつうにわかるよ」
研磨はスマホを取り出しながらベッドに腰掛けて、片手に持っていたレジ袋を差し出してきた。
高校の近くにあるコンビニの袋だ。中を見てみると、甘いパンとか、チョコレートとか、ロールケーキとか、とりあえず元気ない女子には甘いものあげとけば機嫌とれるかな……みたいなラインナップ。黒い油性ペンでわざわざメッセージまで書いてある。『はやく元気になれよ!夜久』『お大事に。無理しないでね。海』
わたしは幸せ者だ。
人に恵まれすぎている。
「けんま、あのね」
「うん」
「がんばりたいから、明日の朝、迎えにきて……」
「……わかった。クロと来るね」
『明日は絶対来いよ。負けるな』
てつくんの字だった。
絶対俺のせいだわ〜、って落ち込みながら上辺では強い言葉を択んじゃうの、てつくんっぽいな。こういうこと書いておきながら研磨に押し付けて顔を見せないのも、実は小心なところのあるてつくんっぽい。
あとは福永くんから、メッセージというか猫の絵。
それから『早く元気になってください 山本』なぜ敬語?
「山本がね」
「……山本くん?」
「うん。怒ってた。気になるんなら黒尾先輩に訊きに行け、遠巻きにヒソヒソ話されたら真柴さんだって嫌に決まってんだろ、って、なんか言いに来たらしいクラスの人に」
入部して三か月も経つのに全然話したことがない山本くん。
女子と話すのにたいそう緊張するらしく、いつも研磨越しにわたしを観察してくるばかりなので、わたしも研磨越しに観察してばかりいた。嫌われているわけではないみたい、と解ってはいたけど、そんな風に言ってくれる人なんだ。
やさしいな。
みんなやさしくていい人たちだ。
「……、トラ、って呼ばないの? このあいだ予選終わったあと言われてたじゃん」
「梓が山本に自分から話しかけたら呼んでもいいよ」
「ひ、人になすりつけた……!」
「あとコーチが、テスト明けの部活は全員集合しろって。なんかお客さんが来るらしいよ」
じゃあ帰るね。研磨が腰を上げて部屋を出て行ったので、慌てて玄関先まで見送った。
翌朝、昇降口で出会った山本くんに「おはよう」と「ありがとう」を伝えると、顔を真っ赤にして石像のようになったあと、「オ……オハ……」と微かな返事があった。研磨と揃って噴き出してしまい、山本くんを怒らせる羽目となる。
7: Risoluto
一週間後、テスト明け最初の部活では久々のバレーにみんなテンションが上がっていた。
ホームルーム後即教室を出て、途中で研磨たちと合流してクラブ棟前で別れ──誰もいない体育館に、一番乗り。
ひと気のない、静まり返った体育館は静謐で、どこか怖い。
だけどこの静寂がとても落ち着く。
「真柴! 早えぇ! チクショー出遅れた!」
バタバタと駆け込んできた山本くんに、えへへと笑みを返す。
はじめて昇降口でおはようを言ってから、なんとなく話せるようになった。テスト勉強をバレー部のみんなでやったおかげもあるかもしれない。
「すぐ着替えてくるから、先に準備してて。ネット張るの手伝うね」
「おう! ポール運んどくわ」
山本くんはいつもやる気いっぱいで元気だなあ。バレー部に入る前から研磨を通じて話だけは聞いていた。身長はそこまで大きくないけど音駒には貴重なパワータイプで、春高予選では凄まじいスパイクを打ちまくって相手を茫然とさせていたっけ。研磨が「あの人敵じゃなくてよかった……腕もげる……」って渋面をつくっていたのを思い出した。
着替えているあいだに部員が続々集まってくる。一年生も二年生もみんなで協力して準備を進めるので、部活の開始はかなり速やか。
練習が始まって三十分ほど経った頃、体育館の扉が開く音がした。
はっと視線を向けたのは直井コーチと同時だった。「猫又監督!」コーチが駆け寄っていく先にいたのは、こぢんまりとした猫背のおじいさん。
「やってるねぇ」
ニコ、と笑う柔和なその顔には、なんだか見覚えがある。
コーチに言われてパイプ椅子を取りに行く途中で思い出した。ずいぶん昔、まだてつくんがわたしたちに負けず劣らず人見知りだった頃、三人で訪れたバレーボールチームの練習にいた人だ。
“じゃあネットを下げればいい”
“最初こそまずは「できるヨロコビ」じゃないかい”
そう言って、てつくんにスパイクを打たせてくれたおじいさん。
わたしたちのバレーのネットを下げてくれた人。……はじまりの人だ。
研磨の横で漠然と、ああてつくんはきっとバレーをまた始めるだろう、そして今日のことを忘れることはないのだろう、と輝く横顔を見て思ったことを覚えている。
元、音駒高校男子バレーボール部監督。
四年前の春高を最後に勇退され、今年の春頃からは復帰が噂されていた名将。
舞台袖にいくつか置いてあるパイプ椅子を持ってくると、猫又監督は二年生三人を集めて何か話していた。近寄って椅子を広げたところで話は終わってしまい、てつくんたちは練習に戻っていく。
「ああ。女子マネが入ったのか。華やかでいいね」
「さっきの黒尾の勧誘です。よく働いてくれますよ」
コーチが褒めてくれた。お世辞でも嬉しい。
ぺこりと頭を下げると、監督は「一次リーグで」とにんまり笑う。春高予選、観に来てたんだ。
「ずっと声出しもせずに、ノートに何か書いていたな」
「ぁ、……はい、あの」
や、やっぱりちゃんと声出ししないとだめかな。ナイッサーとかナイスキーとか、部員のみんながいつも声をかけているのは知っている。大きな声を出すのが恥ずかしいのと、スコアを書くのでまだ精一杯なのもあって、試合中に応援している余裕がない。
怒られるかなだめかな、とつい視線を落としてしまった。しかし監督からは、思いのほか優しい声音が返ってきた。
「自作のスコアシートだって? あとで見せてくれるかい」
「あ、……わかりました」
「自分たちで色々よく考える、しっかりしたいいチームじゃないの」
「……、……は、い」
褒められたのはチームだ。音駒はいいチームだと素直に思っているから、こくりとうなずいた。
猫又監督がふと笑みを消して、レシーブ練を始めた部員たちに目をやった。
「マネージャーは……真柴は、全国、行きたい?」
全国、行きたい?
ここで迷いなく行きたいと答えるには、わたしには必死さが足りない。きっとさっきの二年生三人は、迷いなく行きたいと答えただろう。研磨は、あんまり興味ないかもしれないなあ。バレーの勝敗に拘る性格じゃないから。
散々迷ったあと、わたしは視線を爪先に固定した。
「わたし、自身が、行きたいというよりは」
「うん」
「黒尾、先輩や、孤爪くんとのバレーが好きで、ひとつでも長く一緒にやりたいと、思います」
「うん」
「だから……最後まで」
目の前がパッと開けたような感覚だった。
そっか、そうなのか。
「最後まで、勝ちたい。オレンジコートに、みんなと一緒に行きたい。みんなと一緒に最後まで戦いたいです」
「よし。なら頑張ろう」
猫又監督がニコッと笑った。
ゆっくりと窒息していくような日々を、研磨とてつくんに掬い上げてもらった。まともなマネージャーになるとか、普通の人みたいになりたいとか、必死に毎日を耐えてきたつもりだったけど。
わたしもうとっくに、その先を走り始めていたんだな。
がんばろう。
……強くなろう。
猫又監督が復帰されて、てつくんたちの掲げる全国制覇という大きな目標に現実が追いついてこようとしている。チームは多分、今までの和気藹々とした雰囲気を少しずつ変えながら進むだろう。東京体育館、オレンジコート、そこへ並び立つ赤いユニフォーム、
夢を夢で終わらせないための日々がはじまる。