「なあなあ孤爪」とクラスメイトに話しかけられて視線を上げると、男子三人と、それを遠巻きに見つめる女子多数の視線にさらされていた。

「な……なに?」
「二組の真柴さんって男バレのマネの子だよな」
「そうだけど……」
「あの子と黒尾先輩が付き合ってるってマジ?」

 誰と誰が付き合っているって?

 素で「ハア……?」と言ってしまった。研磨と黒尾の関係はまだしも、二人と梓が幼なじみだということを知らないクラスメイトたちは、聞いてもいないのに事情を話しはじめる。昨日の放課後、図書室前、キス。確かに昨日、研磨はゲームをするため梓より先に帰宅したし、学校で勉強してきたらしい梓と黒尾が一緒に帰ってきたことも知っている(窓から声が聞こえたから)。

 で、誰と誰がキスしたって?

「イヤ……見間違いなんじゃないかと……」
「でも今朝からすっげー噂になってるよ。黒尾先輩って目立つからさ」

 幼少期は研磨と梓よりさらに人見知りだった黒尾だが、バレーとの再会を経てパリピ風陽キャもどきに進化している。クラスの交友関係までは知らないが、まあ、わりと中心にいるタイプなのだろう。わざわざ研磨のところまで真偽を確かめに来る人がいるのも致し方ない、のか?
 しかし、いくら幼なじみでも仲が良くても距離感がバグっていたとしても、梓と黒尾が『そうじゃない』のは研磨が世界で一番よくわかっている。

「あの二人そういうのじゃないから……。絶対見間違い」
「そーなん?」

 訊ねてきた張本人は大して興味がなかったのかそれで引き下がった。問題は女子多数だ。まさか、全然考えたことがなかったけれど黒尾に女子人気みたいなものがあった場合、好奇の視線に晒されるのは『お相手』のほうなんじゃないのか?
 様子を見に行こうにも移動教室ですれ違い続け、結局渦中の二人は職員室に呼び出されてから体育館にやってきた。
 なぜか落ち込む黒尾を慰める梓という構図になっていたが、その梓の顔色が蒼いを通りすぎて真っ白だったので、研磨は内心で頭を抱えたのだった。あーもー……。


EINE KLEINE



 噂が消えるまで梓は相当シンドイ思いをしたに違いないが、翌日に一日休んだだけで、どうにか学校には顔を出した。テストを受けて部活は再開、黒尾の待ち望んだ猫又監督復帰を迎え、新人戦へ向けた練習が本格化している。テスト期間だったのが幸いしたか、その頃には例の噂はすっかり忘れ去られていた。
 代わりに、

「──けんま匿ってっ」

 控えめに「おじゃまします」と声をかけて教室に駆け込んできた梓が、授業が終わると同時にPSPを机の上に出した研磨の足元にしゃがみ込んだ。またか、と思いつつゲームを始めると、廊下から「真柴さーん」と女子の声がする。

「……まだ誘われてるの」
「う、うー、諦めてもらえない……!」
「熱心だね」

 研磨の足元で小さく小さく蹲った梓を、廊下から隠すように位置を調整してあげる。「誰か真柴さん見なかった!?」と女子が一人教室に顔を出して、梓が駆け込んできたのを目撃していたクラスメイトたちはそっと研磨のほうを振り返った。研磨はさも心当たりありませんというふうに無言で首を横に振る。
 やや疑わしげな表情をされたものの、女子は納得して廊下に出て行った。

 数日前の体育でバレーを扱った際、研磨と黒尾の練習相手をすることで鍛えられたレシーブ力を発揮してしまった梓は、女子バレー部から熱烈な勧誘を受けているのだ。
 一度ならず二度三度、梓にしては頑張って「男バレのマネなので」と断ったそうだが、深刻なリベロ不足を抱える女バレもなかなか諦めない。
 研磨としては、あんまりしつこくされるとまた梓が気に病んでシンドくなるから、もう放っておいてあげてほしいのだけれど。

「行ったよ」
「……もおおぉやだ……」
「おつかれ」

 ちょうどいい高さにあった頭をヨシヨシと撫でる。かわいそう。
 はぁ、と半泣きで溜め息をついた梓は顔を上げて、研磨の膝のあたりに手を載せた。「ゲームなにしてるの」と訊いてきたので、机の上でやっていたPSPを膝に降ろす。休み時間が終わる直前まで居座るつもりだろう。
 こてんと研磨の膝に寄りかかったままゲーム画面を眺める梓の後ろ頭を見下ろしながら、研磨は内心でハァと憂鬱な溜め息をついた。
 近い。
 距離が。
 ……今更だけど。
 クラスメイトたちの好奇の視線がビシバシ研磨の後頭部に刺さっている。

 黒尾のバレーにつきあっていた時間も、試合のDVDを見てきた時間も、梓は研磨と同じくらいある。だからもともとバレーの知識は最低限以上にある女の子だ。バレーのルールやポジションは最初から把握していたし、練習試合があれば点示も線審も主審も難なくこなす。そりゃ女バレだって欲しい人材だろうと思う。
 しかも梓は子どもの頃から、川原に立てた自作ネットの向こう側で、研磨と黒尾のつたない攻撃をレシーブし続けていたのだ。
 スパンと打ち抜かれた黒尾のスパイクを、割と簡単に上げてしまう。

「……山本くんっ」
「おう!」

 昼休みはいつも研磨の横でのんびり読書している梓だが、いきなり始まった三対三に引き摺り込まれて、福永・山本とともに二年生三人と対決している。「たまにはスパイク練に付き合ってもらおうじゃねぇかアァァ」と引っ張り込んだのは無論黒尾だ。
 さすがに多少力は抜いているものの、海のセットアップから打たれた黒尾のクロスを、梓はアンダーで受けてふわりと山本へ渡した。福永のスパイクは夜久に拾われる。

「……真柴前から思ってたけどレシーブまじ巧いな!? リベロかよ!」
「俺が仕込んだ!」
「ドヤ顔うぜえ!」
「てつくんのスパイク拾いやすくなった……」

 黒尾のセット、海のスパイク。手加減されたそれをまた梓が拾う。それじゃスパイク練というより梓のレシーブ練じゃない?

「前は、全然できてない一人時間差とか、全然できてない速攻とか、拾わされてばっかりだった」
「難しいボールばっか拾わされて巧くなったのか。苦労したね」
「ん……。だから、サーブとか、スパイクはできない、です」

 こんニャロ、と唇を舐めた黒尾が助走距離を取った。床を蹴りつけ真上に跳躍、ほぼ最高到達点から打ち下ろす。
 スパイクの先にはコースを読んでいた梓。
 弾丸のような速度で梓目掛けて飛んだボールを、梓はアンダーで受けた。バンッ、とさすがに痛そうな音がして梓の体が引っ繰り返る。──ちなみに下はちゃんと体操ズボンを穿いている。黒尾は誘うときしっかり「穿いてるよな」と確認していた。

「ギャアアア真柴っ!! 黒尾てめえバカ手加減しろ!!」
「転がった!? 大丈夫か!?」

 真っ蒼になった夜久たちが慌てて駆け寄った。
 ころんと体勢を立て直した梓は、スカートの裾を押さえながらえへえへ笑っている。その両腕の内側は真っ赤になっていた。あああれ、ナイシュッケツするやつだな。
 梓は人間関係がだめで女バレをすぐに辞めただけで運動神経は悪くないし、体も柔らかいほうだ。あとさっきのスパイクは高さがあっただけで威力も然程なかったし。夜久たちほど心配していない研磨は、同じく苦笑いの黒尾の隣に並び立つ。

「とはいえ、いい加減絵面がよくないよね」
「……だな」

 夜久たちに無事を確認される梓を眺めながらぼやくと、どこか寂しそうな顔つきになった黒尾がうなずいた。
 小さな頃は男女の壁なく一緒にバレーをできたけど、もう三人とも子どもじゃない。男で、力もタッパもある黒尾は、もう梓を相手に対等な態度は取れないのだ。たとえ梓が許したとしても周りが穏やかじゃない。


Epilogue: Legato



 テレビに向かってゲームをしている研磨の背中に寄りかかって、梓は本を読んでいる。
 体育館使用の兼ね合いで、午前練のみで切り上げた日曜の午後だった。二人で一緒に課題を片付けたあと、研磨はゲーム、梓は読書、黒尾が交ざらない日のいつもの過ごし方。
 ふと気付くと、背中がずいぶん重くなっていた。

「……梓?」

 返事がなかった。一旦コントローラーを置いて、首だけ振り返る。膝の上に開いたままの本と、力なく投げ出された小さな手が見えた。
 体をよじって梓の頭を手で支え、起こさないようにベッドに横たえた。開かれていたページを押さえて移動させた本の、最後のページには栞が入っている。赤いリボンのついた栞は、研磨が昨年、修学旅行のお土産に買ってきたものだ。
 梓は修学旅行に行かなかった。
 学校に来るのは週に二、三日。中学校の片隅にひっそりとある別室登校用の小さな教室で、限られた人としか喋らなかった。支援員の先生と、担任と、研磨。それ以外には誰が話しかけても反応を返さなかった。そういう防衛反応なのだと、先生に聞かされた。
 だから当然、学校行事にも参加していない。研磨は梓のいない修学旅行をなんとなく過ごして、行程に入っていた水族館で見つけた栞を買って帰った。

 梓は本を読むのが好きだから、研磨も黒尾も、プレゼントで栞をよく選ぶ。読む本に合わせて栞を選ぶのが楽しい、本を読むたびにけんまやてつくんを思い出すの、と梓がいつか笑ったから。

 多分この子は一生本を読むのが好きで、人から貰った栞も後生大事にするだろう。
 ──だから死ぬまで研磨や黒尾を思い出す。

「……。我ながら重……」

 過ぎった思考に自分で引いて呟くと、余計に重さが際立った。口に出すんじゃなかった。

 開いていたページに栞を挟んで、落とさないようベッドの横の机に移動させる。時計を見ると四時すぎで、いま寝たら確実に夜寝られなくなるなと思いつつ、梓に毛布をかけて自分も横に寝転んだ。
 横向きになって静かに寝息を立てている梓の首筋に、細い紐が覗いている。
 梓がいつもつけているお守りだ。精神安定剤。これがないと落ち着かない、とよく言う。実際胸元に手をやっているところを頻繁に見かけるし、梓がそういう仕草をしていると(あ、いま不安なんだな)と思う。

「…………」

 首筋にかかる紐を引っ張ると、くすぐったかったのか梓が身じろいだ。一瞬ビクリと指を止めたものの、覚醒する様子がないのでそのままお守り袋を引っ張り出す。中身なんなんだろ、と昔から気になっていたのだ。
 さすがに中身を開くほどの度胸はない。手作りっぽい、小さな巾着。指先で感触を探ってみると、なんだか小石みたいなものがいくつか入っていた。
 なんだこれ。わかんないな。

「ていうか、起きないし……」

 これだけ好き勝手されてぐーぐー寝てるっていうのも、どうなの。
 自分で言うのもばからしいけど、これでも一応男だ。男の部屋でしかもベッドで寝るって、どうなの。

「近いんだよな……根本的に」

 多分本来であれば、中学あたりの思春期で適切な距離を取るようになるんだろう。
 だけどちょうどそのとき梓の気持ちがどん底に沈んでしまったから、研磨と黒尾は海の底へ底へと溺れていきそうな梓を繋ぎとめるために、子どもの頃の延長戦を択んだ。だから小さい頃の距離のまま研磨も黒尾も梓も成長してしまって、今もその距離が変わらない。変われない。
 変わったらまた梓が溺れてしまうんじゃないかと、二人とも心のどこかで疑っている。

 ……まあ、これが男女構わず誰の部屋のベッドでも寝るとかなら教育的指導(夜久くんによる)だけど、梓の場合は気を許している相手さえ研磨と黒尾くらいだし。
 間違いを犯すつもりも予定も、今のところ研磨には一切ないし。もーいいやと開き直って自分も毛布をかぶり、ちょっと遅い昼寝をすることにした。

 ちいさく上下する梓の肩を見つめる。ひとつ、ふたつ、呼吸をかぞえる。
 引っ込み思案で人見知りで、低レベルの人間どうし、今日も確かに隣で生きている。
 ……これから先も多分、ずっと。



第一章 おわり


第一章完です、ありがとうございました。いつも通りの感じで勢いに任せて書きました。淡泊〜に見えてわりと重い研磨、そんな二人が可愛くてしょーがない黒尾さんなど、楽しく書きました。このあとは二年の春高あたりまでなぞれたらいいな……と思っています。映画楽しみですね!