「……あれ?」
振り返ると、研磨がいなかった。
音駒高校男子バレーボール部は、仙台駅から手配していたバスに乗り込み、烏野総合運動公園付近の停留所で降ろしてもらったところだった。
さて外縁をぐるりと回ってまずは合宿所へ向かおうかと、集団は移動を始めて、わたしは列の中ほどで福永くんと並んで歩いていた。それで、一歩後ろでゲームをしながらついてきているはずの研磨に「ねえ」と話を振った瞬間、その姿が見えないことに気付いたのだ。
「……とらくん、けんまは?」
「あ? 知らねーけど」
「犬岡くん芝山くん、けんまは?」
「あれ? いませんね」
「……てつくーん! けんま消えた!」
「ハアアアア!?」
到着早々発生したトラブルに、部員の先頭にいたてつくんはクワッと牙を剥いてこっちを見た。
彼の怒りもむべなるかな。まだバスを降りてから百メートルも歩いていない。
確かに合宿所の近辺には閑静な住宅街が立ち並んでおり、ちょっと気を抜けば迷いそうな路地もたくさんあるけど……。それにしたってこの一瞬ではぐれるのは最早才能だ。
みんなで一旦立ち止まり、携帯電話を開いて研磨の連絡先を呼び出した。てつくんと顔を寄せ合い《けんまどこにいるの?》とメールを送ると、返事はすぐに来た。
《よくわかんない。公民館みたいなとこ。まよった》
公民館みたいな建物の写真もついている。てつくんは周囲を見渡して、わかるかこんな写真で、とぼやいた。
「ったく、バス降りて五分で迷子になるやつがいるかよ。フラフラしやがって……」
「捜してくる」
重たい合宿荷物を下ろして福永くんに渡そうとすると、「いやいい」と、てつくんが自分の荷物を海くんに渡した。
「俺が行くわ。見つけたらすぐ梓に連絡する。海、先に合宿所入っててくれ」
「了解」
「梓、合宿所入ったら荷物置いて掃除な。部屋、風呂、トイレ、食堂。男連中しっかりこき使えよ」
「うん」
「いいですか監督ー」
直井コーチと一緒に先頭を歩いていた猫又監督は、面白がるような表情で「ああいいよ」とうなずいた。
「ハァ全くうちの脳は手がかかる」言葉と裏腹に楽しそうな表情で、てつくんは駆け足に去っていく。
──五月。
わたしや研磨は二年生になり、てつくんは三年生、最終学年を迎えた。
猫又監督を迎えて新体制となって臨んだ年明けの新人戦では、なんと決勝大会まで進んだものの、梟谷や井闥山といった強豪の牙城を崩すこと能わず。続く春先の関東大会でもベスト16入りはならず、わたしたちは空白となっていたゴールデンウィークの予定を、遠征というかたちで過ごすことになった。
行先は宮城県。
きっかけは、宮城県立烏野高校の男バレの顧問さんから、熱心なお誘いをいただいたことだという。
烏野高校は、五年前まで音駒高校と親しく交流していた学校だ。
監督同士が昔馴染みで、その対戦は『ネコとカラス、ゴミ捨て場の対決』などと呼ばれて近隣の住民からも応援されていたそう。両校の監督が同年に勇退してからは交流も途絶えていたが、このたび新しく就任した顧問の先生が連絡をしてきたのだ。
練習試合の誘いは願ってもないが、宮城──。
ここ最近の宮城勢はレベルが高いけれども、わざわざ遠い東北まで行かなくたって、近場の関東近郊にいくらでも相手はいる。最近の烏野のレベルがどうかもわからないし。と、最初はお断りしていたみたいなのだけれど、烏野の監督さんは諦めなかった。
しまいには「こちらから伺います!」とまで言いだした熱意に、猫又監督は、つまりほだされちゃったのだ。……あと多分、牛タン食べたかったんだと思う。
そういうわけで、一年生を含めたベンチ入りメンバー十名と、マネージャーとコーチと監督、総勢十三名は宮城県にやってきた。
運動公園の隅っこにある合宿所はこぢんまりとした建物だった。管理人さんにあいさつをして施設の決まりごとなんかを聞いたあと、手分けして荷物を運びこむ。ゴールデンウィーク中は音駒しか施設を利用しないそうなのでわりと気が楽だ。
みんなは和室の大部屋。監督とコーチ、わたしはそれぞれ指導者用の個室だ。荷物を運び終えて、みんなが掃除に取り掛かったところで研磨とてつくんが合流した。
海くんと夜久くんが「ドウゾ」みたいな顔で二人の前を譲ってくれたので、わたしは腰に手を当てて仁王立ちになる。
「けんま。またスマホ見ながら歩いてたの?
「……ゴメン」
「危ないからだめだよっていつも言ってるじゃん。それに今日は知らない土地なのに」
「ゴメン……」
研磨はさすがにちょっと反省した様子だったけど、迷子になったわりにはご機嫌なように見えた。くどくど言ってもしょうがないのでお小言はそこまでにして、研磨の後ろで微妙な顔になっているてつくんを見上げる。
「……どしたの、てつくん」
「いんや。初日から走り回って疲れたわ。掃除どーなってんの?」
「一年生がお風呂、二年生がトイレ、三年生が大部屋。研磨とてつくんは食堂の床掃除と、テーブルを拭いてください」
「ハーイ」
道中暑かったのか、てつくんは真っ赤なジャージを脱いで黒いシャツ姿になっていた。
宮城は東北だから勝手に涼しいと思い込んでいたけど、五月の陽射しは普通に麗らかで、時間帯によっては気温がけっこう上がりそうだ。氷多めに持っていこう……と思いながら、食堂へ向かうてつくんの後ろ姿を眺める。
なんだろな。
ちょっと……へこんでいる? のかな、あれは。
「……迷子先で、なにかあった?」
「え? いや、べつに、ふつう……だと思うけど」
だよね。べつに研磨が迷子になったことに対して怒っているわけでもないだろうし。大体、怒っているのとも少し違う、どちらかというと自分の中に抱え込んだものがいつもより張り詰めている感じ。
「……誰かに会った?」
「え、まあ、うん」
ああ、それでかなあ。てつくんは普段大らかで泰然とした“主将”を心掛けているけど、根本的なところでは昔の人見知りなところもあって、知らない人や場所にはちょっと心のハードルが高いときがある。
まあてつくんだし、心配はいらないか。わたしは研磨に、ひとまず荷物を下ろしてくるよう促した。
一通りの清掃を終えて昼食をとると、わたしたちは再びバスに乗って、一日目の練習試合相手である槻木澤高校へと向かった。
あいさつを済ませて、試合の準備に取り掛かる。相手方の「わ、女子マネだ」「いーなー」という声に居心地の悪さを感じていると、芝山くんがパタパタ駆け寄ってきてくれた。
「梓さん! 僕一緒に飲み物つくります」
「あ……、いいの? アップ大丈夫?」
訊いたところで芝山くんがもうカゴを運び始めてしまっていた。慌てて後ろを追いかけて、先程案内してもらった外水道に向かう。
遠方への遠征なんてあまりやらないし、知らない学校を一人で動き回るのは怖いから、芝山くんが声をかけてくれて助かったな。
結局今年は一年生が十五人も入ってきて、音駒は部員二十九人という例年にない大所帯になった。まあ大体一年やってる間に何人かポロポロ辞めてくもんよ、とてつくんは言っていた。今の二、三年もそうやって若干名減ったそうだ。
とはいえ一年生はみんな素直で、明るくて、かわいい。てつくんたちが「梓」と呼ぶためか、一年生たちはみんな「梓さん」と呼んでくれて、それがまたかわいい。
「朝早かったからなんだか眠いですね」
「そうだね……。わたしも。あくびしないように気をつけなきゃ」
十人ぶんのドリンクを作り終えて一緒に運んでいると、体育館の出入り口にてつくんが立ち尽くしているのが見えた。
どうしたのかなと声を掛けようとすると、入り口近くの壁際に立っていた槻木澤の部員さんたちの会話が耳に入る。
「向こうのセッターなんか小さくね?」
「うん。それになんかヒョロヒョロしてる」
「控えのセッターなんじゃない?」
続いて会話は「音駒なんて聞いたことないよね」という話題に移ったものの、前半のやり取りがてつくんの癪に触ったらしいことは、後ろから見ていてもよくわかった。
一八七センチの長身がぬっと入口に影を落とす。驚いて振り返った槻木澤の部員さんたちに、てつくんは威圧するような笑みを浮かべた。
「──君たちの言う“ヒョロッヒョロのチビ”とは、俺たち音駒の」
……そこまで嫌味な言い方はされてなかったよ?
思わず苦笑いになってしまった。
金髪で華奢で、セッターとしてはやや小柄なわたしたちの“脳”は、たいていの相手にまず「弱そう」認定を受けるのだ。わたしなんかは、油断してくれるならそれでいいじゃないって、思ってしまうほうなのだけれど。
てつくんは研磨を誇りに思っているから、その侮りを許さない。
「“背骨”で、“脳”で、“心臓”です」
猫が喉の奥で低く唸るような、それは確かに威嚇だった。
ピリッと張り詰めた空気が体育館に流れる。その微妙な緊張感を切り払うように、審判を務める直井コーチのホイッスルの音が響き渡った。
EINE KLEINE
初日の練習試合を快勝に終えて合宿所へ戻ると、食事と入浴も済ませて、ひとり部屋に戻る。
わたしが泊まるのは監督とコーチのお隣にある指導者宿泊室だ。お布団を敷いて、荷物の整理を済ませる。入浴中に洗濯しておいた自分の着替えを旅行用の物干しにかけると、すぐ手持ち無沙汰になった。これが梟谷グループの合宿なら遅くまで自主練があったりするのだけれど、今回はなしだ。
「……ひまだなあ」
ぽつりとつぶやいた独り言が、いやに静寂に響き渡る。
運動公園の片隅にある合宿所だから、近隣の生活音や車の音なんかも届かない。自分の身動ぎひとつがすごく、響く。……なんだか怖い。
普段の合宿だと同じ部屋に女子マネのみんながいて、わいわい楽しそうにお話をしているから、静かな宿泊施設がこんなにも怖いとは思わなかった。
別段怖がりなほうではないと思うんだけど、なんだかどうしても落ち着かない。
こんなに静かだと、自分以外のたてた音もよく聞こえるんじゃないか、って思っちゃう。
──たとえば誰かの声とか、足音とか……。
「えぇぇえ……。なんかやだ……」
一度怖い想像をしてしまったらもうだめだった。それでも散々迷った挙句ジャージを羽織って、部屋を出た。
とらくんや犬岡くんの話し声が聞こえてくる大部屋のドアをごんごん叩くと、ややあってから海くんが顔を覗かせる。
「梓?」
「あの……ひとりだけ違う部屋、さみしいので、しばらくいてもいい……?」
さすがに恥ずかしくて、一人部屋が怖いと正直には言えなかった。
海くんは両目をニッコリ弓なりにして、「もちろん」と招き入れてくれた。
ぴょこ、と襖の陰から顔を出すとストレッチ中だったてつくんと夜久くんが振り返る。「お、梓だ」研磨は布団の上にあぐらをかいてゲーム中だったので、その横にちっちゃくなりながら座ると、ふっと笑われた。
「さみしくなったの?」
「うん。……監督とコーチだって二人部屋なのに、わたしだけ一人部屋なんて孤独すぎる……」
あとね、ちょっと怖いの。ぽそぽそ耳元で打ち明けると、研磨は鼻から抜けるような笑い声を上げて、ゲームをポーズ画面にして傍らに避けた。
「だいふくに餌あげる?」
「あ。あげる」
ポッケに入れていたスマホを取り出した研磨に身を寄せる。この春から研磨はスマホに替えて、色々ゲームをダウンロードして楽しんでいた。わたしはまだパカパカケータイなので、研磨が「これ面白そうだよ」って教えてくれるゲームをときどき遊ばせてもらっている。
で、研磨がわたし向けに入れてくれたのが、クラゲを育てるゲームだ。最初は小っちゃい豆粒みたいなクラゲの赤ちゃんに名前をつけて、時々ご飯をあげて、撫でて、成長を見守るというもの。BGMや背景がすごくきれいで、画面の中でふよふよ泳ぐクラゲを眺めているだけで時間が溶けるのだ。名前は“だいふく”。
「だいふく、大きくなったねぇ」
「そうだね」
親指の爪くらいの大きさに育っただいふくを、研磨と一緒にぼーっと眺める。
「なにやってんだあそこ」「クラゲ育ててんだって」「何が楽しいんだよそれ」と、夜久くんとてつくんの会話が意識の端に聞こえてきた。部員のみんなの話し声はいい具合のホワイトノイズみたいだ。あくびをしながら研磨の肩に頭を預けると、孤爪家の柔軟剤のにおいとお風呂上がりの体温で一気に眠気がきた。
ふ、とまた研磨が笑う気配がする。
「なに……?」
「ううん。慣れたよね。これだけうるさいのに眠くなるって」
「まあ……さすがに。今日は朝も早かったし」
出発は始発だったから当然眠い。だけど一人であの部屋に戻るのもいやだなあ。
かといって大部屋でみんなと寝たいとか言えないし、言わないけど。研磨やてつくんとお昼寝ならともかく、部員のなかにマネージャーが入って一晩は外聞が悪すぎる。
うとうとしているわたしに気付いてか、てつくんが傍にしゃがみ込んだ。
「梓、寝るなら部屋帰んな」
「うー……うん」
「うん、じゃなくて。年頃の女子が男だらけの部屋でうとうとすんな。研磨の横だからって油断しすぎ」
「……てつくん抱っこ」
「アァ?」
両腕を伸ばすと、てつくんの顔は敵に威嚇するヤンキーみたいになった。半分くらい変顔なので研磨がブハッと噴き出した。
「抱っこておまえ。いくつよ。あと研磨笑いすぎ」
「だってクロ……顔やば……」
「やばくもなるでしょーよ。何この子? そんな眠いの? 抱っこはさすがに問題あるよ? コーチと監督に怒られんの俺なんですけど?」
小さい頃なら抱っこはともかくおんぶしてくれたのにな。てつくん下の弟妹はいないから、ちょっとお兄さんぶってさ。
「言ってみただけですぅ」と目を擦りながらヨロヨロ立ち上がる。
「おやすみ……。けんま寝坊しちゃだめだよ」
「……うん。おやすみ」
「梓さん帰るんですか。おやすみなさーい!」
「おやすみー。さっさと寝ろよ」
「お疲れー!」
研磨の返事、ちょっと怪しかったな……。ドアを閉めると、辺りは途端にしんと静まり返った。
廊下の電気はついているけどLEDじゃなくて白熱灯だ。一つは切れかかっているみたいで、じりじりと明滅している。
やだなあと思いながら部屋に戻ろうとすると、先程閉めたばかりのドアが開いた。
「……てつくん」
び、びっくりした……。てつくんは呆れ顔で、ハァとわざとらしい溜め息をつく。
「あのねー。怖いならそう言いなさいよ。わかりにくいんですよ、おまえの甘えは」
「……けんまのお喋り」
「おまえは怖がりの甘えんぼ。ほら、行くぞ」
ぽん、と大きな掌が頭に乗っかる。
身長一八七センチの存在感のおかげで、静かな廊下が途端に怖くなくなった。
さすが自販機より大きい男。すごい。
ぺたぺたとスリッパを鳴らしながら部屋の前に戻る途中で、てつくんは「あのさー」とつぶやく。斜め上を見上げるけど、わざとだろう、てつくんは髪を掻くふりをして手で顔を隠していた。
「研磨ってさ、べつにバレー大好きってわけじゃないじゃん。中学の頃なんて、練習きつかったあととか熱出したりもしてて」
「ん?……うん」
「たまにね。あーやっぱ俺が付き合わせてんだよなーなんてね、思ったりもするわけね」
「うん」
「そんで、そのせいで無駄に試合会場でヒョロイとかチビとか言われてさ。研磨はなんも言わないけど、いい気分なわけないじゃん。イヤそりゃまあ試合で黙らせるんですけども」
「うん」
「……まあ、なんていうか、そんだけ」
そこまで言われてようやく、研磨を連れて帰ってきたあとの「どしたの、てつくん」に対する答えを今教えてくれているんだと気付いた。
確かに研磨が競技としてバレーを始めたのはてつくんの誘いがあったからだ。
だけどきっかけがてつくんだったというだけで、研磨はバレーが嫌いじゃない。特別好きってわけじゃないのは本当だろうけれど、嫌いだったらここまで続けていないだろうから。だからてつくんが自分で言うほど気にする必要はないと思う……っていうのもきっと、本人は理解していて。
人の気持ちって、白黒はっきりつかないことのほうが多い。
研磨はバレーを特別好きじゃないけど、嫌いでもない。てつくんが困るからやってるけど、多分それだけが理由ではない。てつくんもちゃんとわかっているけど、たまに、罪悪感とか責任のほうが重くなることがある。そういう気持ちって、グラデーションみたいに、濃くなったり薄くなったりするものだ。
今まではそこまで気にしていなかったふうだったけど。
高校に入って、大会で勝ち進むようになって、研磨が見た目で侮られることが増えたから、引っかかるようになっちゃったんだろうな。
「けんまはさ、すごくバレーが好きでも、嫌いでもないけど」
わたしが泊まる部屋の前に到着した。
足を止めて見上げると、ようやくてつくんが目を合わせてくれる。
「いつか『楽しい』って……バレーやれてよかったな、って、けんまの口から聞けたらいいよね」
てつくんは眉を下げて、口の端をほころばせた。
てつくんて、自分以外の誰かが活躍したときや輝いたときが一番嬉しそうだ。
だからきっと、子どもの頃の自分がバレーの楽しさに気付いたように、研磨にもそういう瞬間が訪れればいいと願っている。ただ『辛くてしんどいけどクロが困るから続けている』バレーじゃなくて、研磨自身が心から楽しいって思えるバレーができたらいいのに、って。
両腕を伸ばすと「なに、抱っこはしねーよ?」と言いつつ顔を寄せてきたので、お風呂上りで寝癖のない真っ黒の頭をわしゃわしゃと撫で回した。
よしよし。てつくんはよく頑張っています。あんまり自分を追い詰めなくてもいいんだよと、思いながら。
1 : Spiritoso-a