「暫らく護衛任務で江戸を空けやす」

 ご近所さんの真選組で一番隊隊長を務める沖田さんは、祖父母の経営する甘味処の常連だ。
 そこで長らく売り子をしているわたしとも当然顔見知りで、顔見知りというか最早仲良しで、長期の任務以外で顔を見ない日などほとんどなかった。
 そんな彼が、珍しく江戸を出るという。

「護衛任務、ですか。お巡りさんも大変ですね」
「ホント勘弁してほしいでさァ。バーサンの団子食わねぇと俺やる気出ねーや。二週間くらい保つ団子開発してくだせェ」
「……冷凍すればなんとかいけるんじゃないですかね……」
「護衛中にチンしろってか。その間に死んだらどうしてくれんだ」
「えええ」

 ぽかぽかと柔らかな陽が差す店先で、緋毛氈を敷いた床几にだらしなく腰掛けながら、沖田さんがお団子を食べている。
 彼らが『真選組』の名を戴き、現在の屯所を構えた頃からの付き合いなので、かれこれ三年ほどになるだろうか。これでも真選組で一、二を争う実力者らしいが、こんなところをいつも見ているとあんまりそういう気がしない。

「護衛って、お偉いさんですか?」
「将軍の妹」
「それ言っちゃっていいんです?」
「誰も聞いてねーだろこんな暇な団子屋で」
「暇で悪かったですね」

 ん、と湯呑みを差し出されたので溜め息交じりに受け取って、おかわりを注ぎに店内へ戻る。
 沖田さんは大体いつも客足が引き始める夕方頃に顔を出すのだ。だから暇だと思われている――というより、うちが忙しい時間帯を避けるようにしているみたいなので、あれはいつもの天の邪鬼。
 自意識過剰でなければ、私とのんびりお喋りできる時間帯を、狙って来てくれているのだと思う。

 お茶を淹れて店先へ戻ると、彼は団子を食べ終えた串を前歯で噛んで、ぷらぷら上下に揺らしていた。

「出発は明日ですか」
「おー」
「そよ姫様、うちのお団子がお好きだそうなんです。包んで行かれます?」
「へぇ。将軍家御用達なのかい」
「お忍びでたまに市井に下りられた際は、よく寄ってくださいますよ」
「マジかよ。何やってんでィあの将軍様」

 ふっと足元を風が吹き抜ける。
 沖田さんの栗色の髪がそよそよと揺れた。
 透明な青天を、ゆっくりと雲が走る。電線から飛び立った鳥の群れが西へ移動していく。街中を往く人々の雑踏。子どもたちがはしゃぎ回る声、奥さんたちの井戸端会議、おじさんたちの笑い声。
 隣同士に座ったままなんでもない時間を過ごしていると、やがて沖田さんが串を吐き、先程淹れてきたお茶を飲み干した。

「ごっそさん。……ほんじゃまあ明日の朝、取りにきまさァ」
「はい。沖田さんの分も入れておいてあげますから、一緒に食べてくださいね」
「へいへい」

 お財布から丁度の金額を取り出してぽんと渡される。
 私の「ありがとうございましたー」を背で聴いて、沖田さんはだらだらと屯所へ戻っていった。

***


 ――徳川茂々暗殺。

 その報が江戸に激震を呼んで間もなく、その責を負わされた警察庁長官松平片栗虎ならびに真選組局長近藤勲の身柄が拘束され、二週間の投獄ののち斬首の決が下された。

 真選組は解体。
 隊士たちはそれぞれ、警察庁の組織末端部へ飛ばされ散り散りになったものの、その大多数が数日で行方を晦ましたという。
 真選組の黒い制服が江戸の街から消えた代わりに、白い制服を着た見廻り組が闊歩するようになった。松平長官に連れられた優しげな面立ちの茂々様が、市井の生活を見守りに来られることはなくなり、新将軍として起った喜々様が、連日テレビで御大層な弁舌を垂れる。

「私、茂々様のほうがよかったなぁ……」
「滅多なことを言うものではありませんよ、梓」

 テレビを見ながらぽつりと零した私を、祖母が穏やかに窘めた。

 茂々様とは面識がある。
 生前、私の祖父母が経営する甘味処に立ち寄り、ばればれの変装でみたらし団子を嬉しそうに召し上がっていた。
 いやまさか将軍がこんなとこにいるわけないと思っていたら、松平長官が「将ちゃん」とか呼びだすもので、びっくりしてお茶を引っくり返したものだ。幸いお客様にはかからなかったけれど、その様子を見た茂々様は「驚かせてすまない」と優しく声をかけてくれた。
 妹君にお土産として持って帰りたいと、控えめに微笑んだ横顔が脳裡に焼きついている。

 天人にいいようにされる傀儡政権だと厳しい意見も少なくないし、政治的には確かにそうかもしれないが、お人柄としてはああまでお優しい将軍も歴代いなかったのではないかしら。



 あのなんでもない日の翌朝、沖田さんは約束通りにお団子を受け取りに来た。
「行ってらっしゃい」「おう」なんて、何の変哲もないやりとりをして彼の後ろ姿を見送り、暫らくして江戸へ帰還した彼は負傷のため入院したという。
「死んではないんで退院したらまたお店に来ると思いますよ」と、パシられてお団子を買いに来た山崎さんの言う通り、沖田さんは傷の残る姿でまたひょっこりと顔を出した。

 しかしその少し後に起きた茂々様暗殺事件ののちは忙しくなったようで、ご葬儀の警備につくことになったという話を聞いてからは姿を見ていない。
 真選組解体後、彼がどうなったのかもわからず。

 一度見かけた土方副長は同心の下につかされているようで、あの黒い制服ではなく、袢纏に股引を身に着けていた。
 真選組そのものであった彼のその姿を見かけるたび、ああ本当に真選組はなくなってしまったのだと、寂しい思いが胸に去来する。

「沖田さん、来られんな」

 雨が降り始めた。
 外の看板や床几を濡れない場所へ避難させてから、店の中に戻ると、厨房から出てきた祖父がぽつりと呟く。
 祖父に返事もせず、窓の外、屯所のある方角を見つめた。

 警察庁見廻り組の捜査の手が入り、組織自体が解散となったあの屯所には、立ち入り禁止の規制線が張られている。

 雨で客足が疎らなのをいいことに、私は窓際の席に座ってぼんやりと外を眺めていた。

 真選組の仕事には危険がつきものだということは、解っている。
 だから沖田さんは長期の仕事の前には必ず顔を見せた。お別れだとは一言も言わなかったけれど、お別れになる可能性があったから。「暫らく空けまさァ」と、なんでもないことのように飄々と告げながら、最後かもしれないお団子を静かに食べていた。

 あんなのでも、真選組一、二を争う実力者であったらしい。
 それでも――死だけは容赦しない。
 そのことを多分、十分知っていたから。

 昨日まで何食わぬ顔でお団子を食べに来ていた沖田さんが、もしかしたら二度と来なくなるかもしれない。私たちはそんな危うい関係だった。そんなこと、解っている。

 でもあんまりじゃないか。
 あんまりにも味気ないじゃないか。
 無事なら無事って一言くらい言いにきてもいいんじゃないか。
 それなりに仲が良かったじゃないか。私たち。

 小さな溜め息は雨音に掻き消される。
 いい加減やめにして掃除でもしようと立ち上がったところで、ぽつんと黒い人影が、遠くから店の方を眺めているのに気がついた。

 理解が追いつくより早く体が動く。
 祖父の戸惑いの声を振り払い、傘を差して雨の中を飛び出した。

「――沖田さん!」

 着物の裾を汚しながら駆け寄ると、真選組の黒い制服を着た沖田さんが、雨に打たれながら私を見下ろす。

「あんまり走りなさんな。泥が跳ねるぜ」
「だ、だって……その制服、なんで……真選組は解体されたって」
「ちょいと野暮用でね」

 薄い笑みを携えたその表情に、ああ、と全て悟った。

「暫らく江戸を空けやす」

 震える手で差し伸べた傘の下で、彼はなんでもないことのように、飄々とそう零す。

「帰って……きますよね?」

 恐る恐る訊ねる。
 沖田さんはいつも通りの様子で肩を竦めると、傘を持つ私の手に、一回り大きなそれを重ねた。
 彼の手に触れるのは初めてだった。
 剣を握り人を斬る、皮膚の硬い、大きな手。

「お前は躾のなってない犬だからなァ。ちゃんとお別れしてやんねーといつまでも待ちやがる……」

 突っ込みどころが色々あってぐっと言葉に詰まった。
 躾ってなんだ、犬ってなんだ。いやそれよりお別れって。ちゃんとお別れしてやんねーと、って。
 ……お別れ、って。

 強い力で抱き寄せられて、足元に傘が寂しく転ぶ。
 濡れた制服から冷たい熱がじわじわと滲み込んできた。

「俺のことは忘れな」
「お、きたさ」
「人斬りの常連客のことなんか忘れて。どっかでテキトーに優しい男つかまえて、結婚して、ガキ生んで、いい母ちゃんになって、バーサンみてーに可愛いババアになって、旦那看取って、孫に囲まれて、幸せに死んでくれ」

「ぁ」意味のない言葉が零れる。
 底知れない恐怖に震える指先で彼の制服を握りしめると、沖田さんはちょっとだけ笑った。

 近藤局長を、取り戻しに行くつもりなのだ。
 将軍暗殺の責をとり斬首に処せられる囚人を監獄から救い出す。真選組はもうないけれど、それでも真選組として、真選組の沖田総悟として。
 失敗すれば命はないし、よしんば成功したとしても恐らく江戸には帰れない。帰る場所がない。現政権を敵に回すということは、逆賊になるということだ。

「い、いやです」
「オイオイ言うこと聞けや。故郷の父ちゃん母ちゃん泣いてんぞ。人斬りの……嫁にするために江戸にやったんじゃねぇやってさ」

 なにが嫁だ。
 好きだなんて一言も言わないくせに。
 言わないまま、往こうとしているくせに。

「わ、私」
「おう」
「剣を、とって、沖田さんと一緒に戦えたらいいのに……」
「はは、バーカそりゃ無理でさァ」
「だってそしたら、姿も見えないところで、知らないうちにあなたとお別れなんて、きっとしなくていいでしょう」
「お前みたいなひょろいのが戦場うろちょろしてたら気が散りまさァ、大人しく団子作っとけ」

 しとしとと降りそぼる雨に涙が紛れていく。
 静かに私を引き剥がした沖田さんは、風のない湖面のように静謐な表情をしていて、それがむしろ恐ろしかった。

 放したらすぐにでも旅立ってしまいそうだったから、あてもなく手を伸ばすと、指と指を絡めてしっかり握られる。

「まァ死ぬ気なんてこれっぽっちもねーけど」

 つないだ手の指先に唇を寄せた沖田さんは、いつもの調子で淡々と言葉を重ねた。

「……そうじゃねーとお前はいつまでも待ちそうだからな」

 待たせてもくれないというのだろうか。
 多くは望まない。またいつも通り、混雑を避けて店を訪れるあなたと温かな時間を過ごして、なんでもない話をして、仕事に戻るあなたを見送って、そんな日々が再び訪れることを願うのすら許してくれないのか。
 嗚咽に負けて声が出ない。せめて首を振って、とにかく彼の厳かな想いを精一杯否定すると、沖田さんは「はは」と目を細めて笑った。

「泣いてんじゃねーよブサイク。笑え」
「む、むり」
「じゃーな」
「沖田さん!」

 縋りつく手を解いて背を向けた彼を引き留めるように叫ぶと、立ち止まった沖田さんは半身を翻し、小首を傾げて私を見た。

「追ってきたら斬り捨てる」
「……沖田さん」
「もう一度名を呼んでも斬る」

 その手は確かに、柄にかかっている。

「そこで何も言わずに最後まで見送ってくれ。梓」

 最後に穏やかな笑みを残して、そして、彼は振り返らなかった。
 私はその背中を見つめていた。
 何も言わずに、彼の後ろ姿が見えなくなる、最後の最後まで。


 言葉も行為もひとつもない、ただ声なき想いだけが重なった日々だった。
 綺麗なだけの恋だった。


このあと、かぶき町防衛戦に補給部隊として参加した夜、再会したりしなかったり。