──昨日、部活を早めに切り上げたあと、視聴覚室を借りて作戦会議が行われた。
 モニターで井闥山の試合DVDを映しながら、小さいホワイトボードを持つ研磨を囲んでみんなで座る。

「言うまでもないけど、要注意は10番佐久早」
「アンダーカテにも選出されているWSで、去年の大会から見ていた限り、打ち方に特徴があるというか、スパイクにすごく回転がかかっているみたい。どのチームも佐久早くんのスパイクを上げきれなくて苦労してた」

 リモコンを操作して、このあいだの関東大会の試合を流す。レフトから放たれたスパイクが、ミカサのボールの黄色い尾を引いて相手リベロの腕を吹き飛ばす。通常のスパイカーとはやや異なる回転をかけながら、ボールは観客席へと浮き上がった。なんかこう、『こう飛ぶだろう』っていう予測を斜めに上回る飛び方で、なんとなくキモチワルイっていう感じ。
「関節が柔らかいんだろうなあ」猫又監督がぽそっとつぶやいた。なるほど、関節。

「まあ佐久早が目立つってだけで……。井闥山は当たり前にみんな強いので、倒すのはすっごく大変」
「デショウネ」
「佐久早をバシッとどシャットできれば理想だけど。理想を追いかけても仕方がない」

 井闥山戦の山は三つ。
 まずはディグができなければ仕方がないので、レシーバーたちがいかに早く佐久早の回転を捉えるか。あまり時間をかけることはできないのでできれば数本で慣れたい。
 次にブロック。格上相手にシャットアウトを期待しても仕方がない。とにかく触ること。気持ちよく打たせないこと。佐久早くんがちょっとでもイラついたら御の字。
 最後に前衛が常にセッターに圧をかけること。徹底したリードブロックはセッターをマークすることでもある。これまた多少セットアップが乱れれば御の字──



「レフトレフトレフト!」
「ストレート締めろ!」

 ドゴゴッ、と轟音。佐久早のスパイクがてつくんの腕に当たって軌道を変えクロス側にいた夜久くんの腕まで吹っ飛ばした音だ。しゅるしゅると見慣れない回転のかかったボールが客席へと飛んでいく。弾かれた体勢のまま、夜久くんが眉間に皺を寄せた。
 早めに入れてもらった一回目のタイムアウトで、ベンチメンバーと一緒にタオルとドリンクを配りながら、研磨と福永くんとを座らせる。さすがに四試合目ともなれば全員疲労の色が濃い。

「佐久早くん調子いいみたいだね。日によってはセーブすること多いけど今日はトスが集まる。サーブも絶好調そう」
「飯綱サンはトスが割れても強引に速攻でくる。佐久早が前衛のときは特に」
「リードブロック徹底な。序盤はストレート締めて夜久の視界開ける」
「夜久くん何本あればいい?」
「三!」
「向こうの応援でかいから声張っていこう。ぶつかったりお見合いしたりしないように」

 たった三十秒のタイムアウトで急き立てられるようにそれぞれが捲し立てる。第一セット序盤、すでに五点の差がついていた。音駒は序盤リードされることが珍しくないチームだけど、強豪相手に突き放されると第二・第三セット連取は厳しい。あまり悠長に構えていられない。
 夜久くんは宣言通り四本目で佐久早のスパイクを上げてみせてくれた。
 てつくんの執拗なリードブロックも功を奏して、終盤には一本だけ止めることができた。それでも第一セットは点差がついたまま、二回目のタイムアウトも使い、最後まで井闥山に追いつけず。

 コートチェンジの最中、じりっと焼け付くような視線を感じた。

「……?」

 佐久早くんだった。
 めちゃくちゃ見られている。
 親友か恋人か親の仇を見るような形相で睨まれている。

「な、な、な、なに? こわいけんまたすけて」
「なに?」
「佐久早くんにめちゃ凝視されてる気がする……」
「……されてるね。何あれ」

 ビクビクしながら研磨にしがみつくと、やがて興味をなくしたようにフイと視線を逸らされた。飯綱主将が「バカ向こう怯えてんじゃねえか」と佐久早くんにパンチしている。こ、怖かった……。


EINE KLEINE



「さっきのコートチェンジでさあ、おたくの佐久早クンがうちのマネを凝視してたんだけど、アレ何? 一目惚れでもした?」
「あ──……悪い、よく言っとく。そっちのセッターが頭キレるのは知ってんだけど、マネもなんかやってんじゃないかってのが佐久早の主張でさ」
「あ〜〜そゆコトね。納得」
「実際どうなの。声出しもナシでずーっとスコアと電卓見てるけど?」
「うちのは恥ずかしがりやさんなんですぅ〜。可愛いデショ」



 ネットを挟んでなにやらてつくんと飯綱さんがにこやかに会話している。仲いいのかな?
 第一セット中の攻撃パターンについては、簡単に計算して研磨に渡した。てつくんの徹底ネチネチリードブロックは徐々に相手の攻撃を苛立たせはじめる。サイドアウトを繰り返して必死に喰らいつくも、なかなかブレイクまではいかない。
 コート中の選手の声がベンチまで聞こえないことも多かった。左手で耳を押さえて、右手でスコアを書く。試合がはじまれば気にならないと海くんは言ったけど、試合の展開ごとに盛り上がる声援は、わたしの耳にははっきり障害となっていた。

 二点差を追いかける第二セット中盤、レフト後方へ落ちてくる佐久早のサーブ。後衛の福永くん、研磨がレシーブ体勢に入る。微妙なところ、と目で追っていると次の瞬間、ドッと音をたてて研磨と福永くんがぶつかった。
 へろへろの研磨が弾かれるように倒れ込む。

「……けんま!」

 猫又監督と直井コーチが血相を変えて立ち上がろうとしたものの、研磨はすぐにてつくんの手を借りて立ち上がった。ボールは福永くんの腕に当たってネットへ突っ込み、とらくんがアンダーで相手コートへ返している。「チャンスボール!」佐久早のAクイックは、体勢を立て直した福永くんの腕をなお弾き飛ばして体育館後方へ飛んでいった。
 ラリーが終わると、タオルを持った部員が研磨の転んだあたりを拭きに行った。このへん、と指さす研磨の顎からぽたりと汗が垂れる。
 鬱陶しそうにユニフォームで拭う姿に、思わずシャーペンを握る手に力が入った。

「さっきのは声が……掻き消されたんですかね」
「疲労もあるかもしれないな」

 ──声……。
 プレーに関係ないところで聞いているわたしでこれなのだ。コート上で、遮るものもなく、敵の応援に晒されるみんなにはさらに厳しい。
 音駒の応援席を振り返ると、もう完全に空気が委縮してしまっていた。
 今の研磨と福永くんの衝突があまりに痛々しくて、みんながこれ以上の応援を遠慮しているような感じがある。だってもう四試合目で、みんな疲れきっていて、相手は全国常連の常勝井闥山で、間違いなく今、わたしたちは劣勢で、十分がんばっていて、つらくてくるしい。
 最前列にいたあかねちゃんと目が合った。泣きそうな顔をしていた。

「……が、」

 体育館には井闥山応援団の声援ばかりが響き渡る。
 シャーペンの芯がぽきりと折れた。もう四試合目でいい加減疲れていて相手は強くて劣勢で、だけど、応援する気持ちでこっちが負けていい理由にはならない。わたしたちこそが負けてはならない。コート以外で、バレー以外でも負けているなんて思いたくない。
 すぅっ、と大きく息を吸った。
 半分くらい怒っていた。
 もう半分は、泣きそうだった。

「──がんばれ!!」

 あ。
 裏返った、はずかしい。

 でもその瞬間バッとコートにいたみんながこっちを見て、びっくりしたように目を丸くしたあとで、力が抜けたように笑いはじめたから。
 おおきい声を出してもいいんだ、とおもえた。

 その後第二セットはデュースに縺れ込んだ。
 これまでの試合でほとんど相手に二桁得点を許さなかった井闥山を相手に、よくよく粘り噛みついて大健闘したと言える。佐久早のスパイクをきれいに上げた夜久くん、しつこいリードブロックで相手のミスを誘ったてつくん、守りの音駒に相応しく守備の堅い展開でゲームを進めた。
 しかし前々から課題と自覚していた得点力の低さが決定打となり、井闥山学院の盤石の強さを前に、わたしたちは敗れるべくして敗れた。

 第一セット井闥山25−19音駒。第二セット音駒27−29井闥山。
 セットカウント2−0。

 整列を終えたみんながベンチに戻ってくる。
 先頭を歩くてつくんは、顔を隠すようにユニフォームの肩で汗を拭っていた。

「……おつかれさまでした」

 手に持っていたタオルとボトルを渡す。
 炎。背中から立ち昇る陽炎が、世界を歪めている。井闥山の強さの前に完敗した悔しさを上回って余りある、自分たちの不甲斐なさへの怒りが具現化したようだった。
 前髪の隙間から覗いたぎらりと物騒に揺らめく双眸に、思わず息を止める。試合中のてつくんを頼もしいと思うことはあっても、怖いと感じたことなんてなかったのに。
 ……わたしが怯えたのに気付いて、ぱちりと、伏せた瞬きがひとつ。

「ああ」とわたしの手から受け取ったタオルを頭にかけて、止めどなく噴き出す汗を乱暴に拭ったあと、顔を上げたらもういつも通りのてつくんだった。

 抑え込ませて、しまった。と、その瞬間胸がざわついた。
 唇を噛んだわたしの肩を、海くんがぽんと叩いて、「大丈夫」とほほ笑む。「黒尾は大丈夫だよ」

「よォ──し、さっさと片付けろ! 来週は順位決定戦だ!」

 準々決勝敗退。
 成績としては東京都ベスト8だ。
 二百以上のチームがある東京都の大会で、これは文句なしの好成績といっていい。


 ──それでも背を向けた三年生の背中が燃えている。
 こんなところで終われるか、と叫んでいる。


2 : Feroce-d



 翌月曜日はさすがに朝練も休みだった。
 わたしたち三人は、普段より遅い時間に揃って家を出て、他愛無い話やゲームをしながら学校に向かった。これから先の話を、ひとまずてつくんはしなかった。ただ昼休みは進路関係の呼び出しがあるから三年生は体育館へ行かないことを静かに告げて、昇降口で別れた。
 心なしかいつもより静かな一日。
 わたしたちが試合に勝っても敗けてもほとんどの人には関係がなくて、ただ一つの大会の予選が終わったというだけで、当たり前に朝日が昇るし授業はあるし月日は待ってくれない。それでも少しだけ教室の喧騒が遠くに聞こえたのは、ひとつの区切りを迎えたこの胸に小さな穴が開いていたから。

 放課後になり、体育館へ向かう。
 一年生や二年生がちらほらと集まりはじめて、準備も大体終わって、あとは三年生と監督たちが来るのを待つだけになると、とらくんが不安そうに口を開いた。

「三年生さ……、来るよな? ここで引退なんてしねえよな」

 みんなが気まずそうに顔を見合わせるなか、研磨はしれっと呟いた。

「ないでしょ。来週もあるのに」
「そうじゃねええええよ! 六月で引退しないよなって話だよ!」

 次の日曜日のインハイ予選三日目には、ベスト4が総当たりで試合をする代表決定戦と、ベスト8に入った残りの四校が試合をして五位以下の順位を決める順位決定戦がある。だからまあ、今日すぐに「引退します! 来週はおまえらで頑張れ!」ということにはさすがにならない、けど。

 春高の開催が三月から一月になったことで、三年生の引退時期は学校やその学年によって開きができた。早ければ六月で引退となるし、遅ければ春高予選や一月の本選まで残ることとなる。
 てつくんたちの目標は入学当初から一貫して『全国制覇』。
 まだ目標を達成するどころか全国出場すら果たしていない。──と、軽率に引き留めることは、誰にもできなかった。高校三年の後半は誰にとっても大事な時期だ。てつくんたちの人生は、てつくんたち以外の誰にも責任を取ることはできない。
 大抵の人にとっては、バレーをやめたあとの人生のほうが遥かに長いのだから。

「ないよ……。少なくともクロは。だってまだ梓を全国につれてってないから」

 一拍。
 部員みんなの視線が一斉にこっちを向いた。わたしは研磨を見た。え?

「…………え、わ、たし?」
「聞いてないの? 去年、梓を誘うってなったとき、全国につれてって一緒に戦うんだって言ってたけど。オレンジコートに立たしてハイタッチしてやる、みたいな」
「聞いてない聞いてない聞いてない……し、多分それは……」

 わたしのみではなくて、きっと研磨のことも含むのでは、ないか。
 てつくんは、研磨をバレーにつきあわせている、って思っているから。全国大会まで行けば、楽しかったとかやってよかったとか、何か研磨にとってプラスの経験になるんじゃないかな、みたいな。そこはてつくんのやわい部分で、わたしがこんなとこで言っていい話じゃないので、ごくんと飲み込んだけれど。

「なんかそれ甲子園みたいですね!」
「……や──、まあ、バレーの甲子園、だし……?」

 どこまでも前向き発言の犬岡くんに救われつつ、ちょっと誤魔化してしまった。とらくんは「え? 黒尾さんって梓のこと……」と頓珍漢なほうに勘違いしようとしていて、最上くんが「それはちがうんでない」と止めていた、ナイスプレー。

「……言わないほうがよかった?」
「え、いや、べつに……。なんか、てつくんが全国行きたいのは知ってた、からあれだけど。その、全国のイメージのなかに、わたしがちゃんといたんだな、っていう……のに、びっくり」
「いないと思ってたの? おれそっちにびっくりなんだけど」

 ふ、と研磨が噴き出すように笑った。

「もう透明人間になんて、なれないね。梓」

 透明になって、消えてしまいたかった、時期がある。
 朝起きて、自分の呼吸を確かめて、残念なわたしが今日も生きていることに絶望して。できるなら透明になって、誰にも知られないままひっそりと生きていくか、あるいは消えてしまいたいと思っていた時期が、確かにある。
 ああでも、そうかわたし、誰かの考える未来に、当たり前にいるんだ。

「……、……」

 とうめいにんげん? と、そこが聞こえていたらしい灰羽くんが首を傾げている。二・三年生はわたしが若干挙動不審なのを知っていて、うっすら事情も察しているみたいなんだけど、一年生は何も知らないから。
 なんだか不思議な感覚だった。
 ひとり孤独の海の底に蹲っていたつもりで、でも隣には研磨とてつくんがいてくれて。いつの間にか大きな船に帆を張って、みんなでよく晴れた空の下の大海に漕ぎ出している。

 海の底に蹲るわたしはいつでもそこにいるだろう、いつかそこに戻る日もくるかもしれない。
 今日がはじまることに絶望しながら起き上がり、明日がくることに絶望しながら眠る日々が、また訪れるのかもしれない。
 けれど少なくとも今のわたしは、孤独でも透明でもないのだった。

 ……最後に絶望したのはいつだっただろう?



「うーわヤッベもう全員揃ってんの? 遅くなって悪い!」

 振り返ると、練習着に着替えた三年生三人が体育館に入ってきたところだった。
 とらくんがぱあっと顔色を明るくする。みんなも息を呑んで、きちんと全員揃っている先輩たちを見つめた。「なに? 何この感じ」ときょろきょろ横を見渡すてつくんに、夜久くんと海くんが首を傾げる。
 え、もしかしてわかってないの、わたしたちが何を不安に思っていたか。

「……てつくん」
「アッハイ」

 よいしょ。ボトルを入れたカゴを持ち上げながら訊ねると、なぜか居ずまいを正したてつくんの返事。なんで敬語?

「春高、行くよね」

 ようやっと、後輩たちの沈黙が一体何であるか悟ったらしい。てつくんはきょとんとして、それから徐々に口角を上げて物騒な笑みになった。

「──ったり前ェだろ!? こんなとこで敗けっぱなしで終われるか! 全国行くぞァ!!」

 オォッシャァ、と怒声にも似た咆哮が体育館を揺らした。
 ふふふと笑いながら外水道に出ると、通りかかった陸上部の女の子に「ウワなに男バレ?」「ガラ悪くない?」と若干引かれていた。ガタイのいいのが多いし、金髪やらモヒカンやらガラも悪いので、強く否定できないのが悲しいところ。


 六月。抜けるような青天の下、音駒バレー部、再始動である。