ボールに額をつけて、祈るように目を閉じる。
 赤と緑と白の三色、モルテン五号球。やがて長い睫毛を震わせながら瞼を上げた彼は、ボールを三度床に叩きつけた。
 その反響が空気の震えとして頬に伝わるほど、いま、世界は彼を見つめている。

 カメラのファインダー越しにその様子を眺めながらシャッターを押した。最初の頃は選手の邪魔をするのが怖くて躊躇していたけれど、あるとき「それも精神集中の一環だから」と悪戯っぽく笑ってくれたから、もう懼れない。彼はこの程度で心乱したりしない。さすがに公式試合では遠慮するけど。

 空を仰いだその人がボールを天高く放り投げた。
 落下地点へ向けて一歩、二歩、三歩踏み出し鳥の羽ばたきのように両手を広げて、四歩目で床を踏み込み、跳んで撃つ。
 流れる水のような滑らかな動きに目を奪われる。

 わたしは切なくなる。
 彼のバレーを見るたびに、あまりの美しさに胸が痛くなる。



「及川さんは魔法使いのようだね」

 月曜日、茜差す放課後の教室で机の上に現像した写真を広げながらそう零すと、前の席の人の椅子に勝手に座っていた彼はぱちりと瞬きをした。
 澄んだヘーゼルの双眸が無邪気にわたしを見据える。

「……そう?」
「うん。試合でコートに立つあなたを見るたびに苦しくなる。こんなにも美しいバレーが、抗いがたい敗北の味を噛み締めていることについて、どうしようもない気持ちに胸が焦がれて、涙が出そうになる……」

 独白のようにぽつぽつと喋るわたしの声を、及川さんはじっと聴いていた。

 写真の中の彼はひたすらに真摯で、美しく、尊い。
 ひとつのボールに全てを託すかのようなサーブ前のあの儀式が好きだった。他の人が同じルーティンをしていても、きっとあんなにも神聖に見えることはないだろう。

「芸術は人の心を動かす。だからあなたのバレーも芸術なのだと思う」
「ふーん……及川さん芸術はちょっとよくわかんないけど、梓ちゃんがそう思ったんなら、そうなんだろうね」

 白皙の頬に夕日がかかり、長い睫毛の翳が濃く浮かんだ。
 まるで童話に出てくる王子様のような容姿をした彼は、その外見通りきらきらしていて、みんなに好かれていて、だけれどその実、下らないことで大口開けて笑ったり、子どもみたいな悪戯をしたり、拗ねたり、大騒ぎしたりする。
 そんな彼があのユニフォームを着て、主将の肩書を背負い、指揮者として試合を支配する。剥き出しの闘志を隠しもしない獣じみた眼光で、相手を圧倒する。

 写真部として彼の姿を追いかけて長くなるが、その差の激しさには未だに慣れることができないでいた。

「ああ、でも芸術は人の心を動かすっていうのは納得かも」

 彼の視線は写真に注がれていた。そのことにひっそり安堵しながら、「どうして」と訊ねると、瞬きと同時にその双眸がくるりとこちらを見る。
 どきりとした。
 彼のあまりに邪気のない眸は心臓に悪いから、少し苦手だ。

「写真の中の俺、まるで俺じゃないみたい。自分の顔のはずなのに綺麗だなって思うもん」

 いや、及川さんもともと顔もいいんだけどね。悪びれずそう付け足すところに彼らしさを感じて微笑むと、もともと顔もいい及川さんも目を細めて、口元を緩めた。

「これも魔法だよね?」
「そうかな。及川さんがそう思うなら、そうなんだろうね」
「あ、ズルいそれ俺の真似〜」

 唇を尖らせて拗ねた表情を作る彼が可愛くて、思わず声を上げて笑ってしまう。
 顔がいいことを自覚していて、それを武器にもしている、そんなあざといところさえ許してしまえるのは多分、どうしようもなく彼に惚れ込んでいるからなのだろう。

「俺、これお気に入りだな」

 彼が指先に摘まんだ一枚は、ジャンプサーブを打つ直前の、まるで翼のように両腕を広げた瞬間を切り取ったものだった。

「焼き増ししてあげるよ」
「やった!……っていうか、自分の写真お気に入りってなんかナルシーみたい」
「あれ、違ったの?」
「ひっどいなー」

「わたしのお気に入りはこれ」机の上から捜しだした一枚はもちろん、モルテン五号球に額をつけて祈る彼の姿。
 及川さんは「綺麗な写真だね」と、自分が被写体であることなど忘れたかのように優しげに見つめた。

「好きだよ」
「……ん?」
「梓ちゃんの写真、好きだよ」
「ああ、ありがとう。びっくりした、急に告白しだしたのかと思った」
「照れもせずにそういうこと言うあたり梓ちゃんらしいよね〜そういうとこ好き」
「どうも」

 照れていないように見えるなら及川さんもまだまだだなぁ。
 でも彼のこういう他意のない発言については、いちいちときめいたりしてはいけない。容易に引っかかって痛い目を見るのはごめんだ。
 バレーをしている彼を、彼だけを見つめてわたしだけの世界に収める、その許可を本人に貰っていて本人も喜んでくれている、それだけで十分、しあわせなのだ。

「ね、帰ろ? どっか寄り道でもしようよ」

 くるくると表情を変える彼が、穏やかに笑いながら立ち上がる。窓の外を一瞥し、夕日が沈みゆくさまをその眸に収めると、「あーあ」と伸びをした。
「バレーしたいな」小さく零したその横顔に、視線を奪われる。
「そうだね」返事をしながら机上に広げた写真を一枚一枚集めて、角を揃えて、封筒に収めた。こちらを振り返った彼のきょとんとした顔に、自然と口元が緩む。


「どんなあなたより、コートに立つあなたが、いちばん綺麗だと思うよ」


 バチンッ、と強烈な音が響いた。
 両手で自慢のイケメンフェイスを叩いた及川さんが、顔を隠したままずるずるとへたり込む。

「……も〜梓ちゃんヤダ……」
「え、ごめん。何か嫌なこと言ったかな」
「このド天然タラシ……罪深い女……」
「ド天然はともかくそのあとは及川さんには言われたくないけど……」



 及川徹は天才ではない。
 目の前に絶対的な壁を臨み、背後からは才能の塊が追い上げてくる。そんな恐ろしい場所に立ちながらなお、バレーの神様に愛されて離れられない彼の美しさを、わたしはこれからも一抹の胸の痛みとともに愛するのだろう。


 ボールに額をつけて、祈るように目を閉じる。
 赤と緑と白の三色、モルテン五号球。やがて長い睫毛を震わせながら瞼を上げた彼は、ボールを三度床に叩きつけると天高く放り投げる。
 落下地点へ向けて一歩、二歩、三歩踏み出し鳥の羽ばたきのように両手を広げて、四歩目で床を踏み込み、跳んで撃つ。
 流れる水のような滑らかな動きに目を奪われる──

 阻むものなく相手コートに叩きつけられる、彼の全てを託されたひとつのボール。
 歓声が上がる。そのとき世界は彼を見つめている。

 わたしは切なくなるし、誇らしくなる。


 どうだ、これが及川徹だ。
 美しいでしょう。