(DC再履修記念に勢いで書けるところだけ書いたもの。驚くほどやまもおちも意味もないお話です)




 アガサ・クリスティー原作のポアロシリーズを実写化した洋画が日本でも公開されたので、かつて赤い背表紙のクリスティー文庫を友人とともに読破した懐古に駆られて、私は休日の昼下がり、劇場へと足を運んだ。
 原作は十年以上昔に一度読んだきりだけど、高校の帰り道に友人と感想を言い交わした記憶を辿れば容易に思い返すことができる。
 あれから十年以上が経った今、一人でチケットを買って、一人で席に座る。上映時間は二時間七分。それなりの分厚さのミステリーだから削らざるをえなかったシーンや設定も多々あったものの、全体としてよくまとまっていたし面白かった。

 その帰り道のことだ。
 新しいお店の開拓がてら知らない道を散歩していたところ、通りかかった喫茶店の名前がなんと『ポアロ』だった。これも何かの縁だな、そういえば同僚がポアロという喫茶店の何かが美味しいのだと言っていたような気がする。どうして入らずにいられようか。半ば運命さえ感じながらドアを開けた。
 昔ながらの喫茶店といった間取りだった。
 出入口のすぐそばにレジ、その奥にはカウンター席に併設されたキッチンスペースがある。皿洗いをしていた店員がドアベルに気付いて顔を上げた。

「いらっしゃいませ」

 その店員の笑顔を見た瞬間、私の思考回路はショートした。

 さらりとしたミルクティブロンド。褐色の肌。まるで蒼穹か海原のような双眸。
 まさに先程観てきた映画の感想をかつて言い交わした友人、大学卒業後は警察官になりその後しばらくして音信不通となった降谷零その人が、喫茶ポアロのエプロン姿でペカペカ笑っていたのだ。


Absent in the spring



 さすがに一瞬動きが止まったし顔も引き攣ったかもしれない。
 それでも降谷零の顔をした店員がにこやかに「空いているお席へどうぞ」と愛嬌を振り撒いたので、不自然にならない程度に会釈をして、店の奥のテーブル席へと向かった。
 そんなに混雑していないから、柔らかな陽射しの射しこむ窓際四人席を贅沢に使うことにする。
 店内には私のほかに、中年女性の二人連れとスーツ姿の男性、それと若い女の子の店員がいるのみだ。それもオーダーはひと段落しているようで、店員二人はキッチンのなかでまったりと雑談している。

 ソファに腰を落ち着けて、ショルダーバッグを脇に置いて。
 ふぅと一息ついて。
 テーブルに両肘をつき、口元で両手を組んだ。


 ……ええ?
 いやいやいやなんでゼロくんがカフェ店員やってるの?


 わりとスマートに客の顔して席についたつもりだったけど内心動揺しまくっていた。

 顔だけ似ている人なら世界中を捜せば何人かはいるかもしれないが、あの甘みを含んだ独特の声まで同じともなると同一人物であると考えるほかない。──いや記憶のなかのゼロくんに較べると八割増しで愛想がいいから、別人の可能性も髪の毛の先っぽくらいはあるけれど……。
 あれはゼロくんだ。
 降谷零。
 高校時代に知り合い、仲良くなって、大学は別だったけどちょくちょく会っていたし、彼が警察学校に入ったあとも連絡を取っていて、警察官になれたことをお祝いして……そして五年前、唐突に音信不通になった人。

 不自然にバチバチ瞬きしながら必死に動揺を押し殺していると、当のゼロくん(かふぇ店員のすがた)がこちらにやってきた。

「いらっしゃいませ。ご注文がお決まりになりましたらお声掛けください」
「ありがとうございます……」

 お冷やとおしぼりとメニューを置いて、去っていく。
 私に向けた笑顔はちょっと嘘くさいくらいにこやかな接客用の表情で、数年ぶりに偶然再会した友人に対するそれではない。
 初めて店にやってきた客に対する態度だ。
 けっして、それ以上でもそれ以下でもなかった。

 ゼロくんは頭のいい人だった。
 学校の勉強はもちろんできたけど、地頭の良さというのだろうかそういうものが抜きん出ていた。論理的で聡明でコミュニケーション能力が高く、人にものを教えたり指示したりするのが上手だったのだ。そういう人が、それなりに親しくしていた私の顔をきれいさっぱり忘れるということはないと思う。
 もしや記憶喪失? 事故して頭を打って脳に障害が……とかなら、この徹底的な他人としての振る舞いにも納得できる。運動神経がよくてボクシングにのめり込んでいた人が頭を打って記憶喪失ってなんだか想像できないけれど、人生何が起きるかなんて解らないんだし。

 他にも考えられるいくつかの可能性、そしてこの音信不通の五年間に立てた仮説を脳内に反芻しながら、渡されたメニューをぺらぺらとめくる。全然頭に入ってこない、どうしよう。同僚はポアロの何が美味しいって言ってたんだっけ。唸れ私の灰色の脳細胞……。ああ、全然だめだ、思い出せない、普通にケーキが美味しそう。

 キッチンで女の子の店員さんと話しているゼロくんは、まるでこのペカペカ笑顔が標準装備ですが何かとでもいうような、人当たりのいい笑顔を崩さない。
 私の知っている降谷零という人は仏頂面とまではいかないけど真顔でいる時間が多くて、時折零れる笑顔が悪戯っぽかったりあどけなかったりして、それがまた魅力的だったものだけれども。
 メニューから顔を上げてじっと彼を見ていた私に気付くと、ゼロくんは手を拭いてからカウンターを出てきた。

「お伺いいたします」
「ケーキセットをお願いします。ケーキはオペラ、飲み物はブレンドで」
「畏まりました。ミルクとお砂糖はご利用ですか?」
「ミルクだけお願いします」
「はい。少々お待ちください」

 徹底して店員としての態度を貫いたゼロくんは、テーブルからメニューを引き取るとき、その紺碧の双眸で視線をひとつ私にくれた。
 どんな意味も孕まない、きっと隣の席に名探偵エルキュール・ポアロが座っていたとしても見逃したような、丁寧な店員が客の目を見ましたよというだけの一瞬の交叉。


 視線ひとつ。
 多分彼にとって最大限の譲歩だったのだろう。
 それだけで私には充分だった。





 最初に話しかけたのは私。
 高校に入学したての春、外国人みたいな容姿と入学式総代挨拶で全校の話題を掻っ攫ったクラスメイトが、私の愛読書である小説を教室の片隅で読んでいたから思わず声をかけてしまったのだ。

「降谷くんそれ読んでるの!」
「ん?……ああ、まあ。きみも?」
「私以外に読んでる人はじめて見た。文章が小難しくてなかなか人に勧められないんだよね」
「作者の専門が対象言語学なんだよな。確かに知らない単語が多い。俺も辞書を引きながら読んでるよ」

 彼と言葉を交わすのはこれが初めてだった。
 不愛想ではないけれどクラスメイトに自分から話しかけるタイプでなかったこの人は、いつも自席で本を読んでいるか、あるいは隣のクラスの友人と話をしていたから。話しかければ答えてくれるし、突き放されることはなかったものの、なんとなく常に一線を引かれているというのをみんな察していた。
 のちのち聞いたところによると、どうやらそれは彼の外見がエキゾチックなことに起因する幼少期の体験、そして中学生時代に訪れた、周りの評価の急な転変が影響していたらしい。

「ねえねえ、読み終わったら感想教えて。私の理解不足なんだろうけどよく解らない場面があってね、それについての解釈をぜひ聞かせてほしい!」

 胸の前で手を組んで懇願した私に、彼はぱちくりと大きな双眸を瞬かせた。呆気にとられたような、あどけない仕草だった。
 やがて生真面目な顔してこっくりうなずく。

「わかった。明日には読み終わると思う」

 といった具合で私と彼は読書仲間になった。
 彼の好みは推理小説で、しかも自分で推理しながら読むというマニアだった。洋の東西を問わず、古典新本格なんでもござれ。私といえば登場人物の関係性ややり取りを楽しみつつ最後の謎解きであっと驚くのが好きなほう。ジャンルも広く浅くといった感じで色々と読んでいたけど、高校時代は彼の影響でミステリーの沼にハマりこみ、専ら殺人と謎解きを主食にすることとなった。
 私と、彼と。
 私の友人である水脈みお、彼の幼馴染であるヒロくん。
 この四人で集まるのが当たり前になり、毎日一緒に過ごすようになり──その交流はその後、九年ほど続いた。


 最後に彼と会ったのは、忘れもしない二十四歳の秋の日。


 ぐんと気温が下がったその日、私はゼロくんと一緒に水族館へ出掛けていた。クラゲの特設展示が期間限定で行われるとかで、私が行きたいと言うとゼロくんが予定を合わせてくれたのだ。水脈とヒロくんは残念ながら欠席だった。
 ゼロくんと出掛けるのなんていつものことすぎて、私はなんにも考えずぽやぽや過ごした。だからあの日感じたはずの多くのことをほとんど憶えていない。あれから何度も、何度も、これが最後ならもっときちんと色んなことを気に掛けておくのだったと、どうにもならない後悔に苛まれた。
 一つだけ憶えているのは、珍しくゼロくんが私の手を握ったこと。

 水族館の展示を堪能して、お土産も買って施設を出たところで秋風が吹き、きゅっと肩を竦めた私にゼロくんは笑った。

「寒い?」
「うん、ちょっと。もうすっかり秋ですなぁ」
「すぐに冬がくるさ」

 ゼロくんはするりと私の手を取り、指先で何度か撫でたあと、「ほんとだ冷たい」と目を丸くした。
 九年もつきあっていればそれなりに距離も近付くもので、私たちは頭を撫でるとか腕を取るとかそういう接触に抵抗はない。けれど手を繋いだり抱きしめたり、一般的に恋人同士のスキンシップに分類されそうなものは控えていたから、このときおやと思ったのは事実だった。
 ゼロくんはすぐに手を離して、着ていたジャケットを脱ぎ私の肩にかけてくれたから、その違和感はどこかへ行ってしまったけれど。

「ゼロくん風邪ひかない、大丈夫?」
「そんなにやわじゃない」

 うーん確かに。というか、不定愁訴の多い私と違ってゼロくんが体の不調を訴えるところを見たことがない。この人、風邪なんてひいたことないんじゃないだろうか。
 それから私たちは串揚げメインの居酒屋に突撃した。
 お互いお出掛け用でそれなりに小奇麗な格好はしていたけれど、だからといってお洒落なホテルのディナーに行っても肩が凝るだけなので。とりあえず生、あと串揚げ盛り合わせ。お前はきゅうり食べるだろ。食べる食べるー。みたいな、色気の欠片もない乾杯だ。

「クラゲ楽しかった! つきあってくれてありがとう」
「俺も楽しかったよ。一人だとなかなか行こうって気にならないから」

 運ばれてきた串揚げ盛り合わせの中から豚串を取って、ひとまず今日のお礼を言うと、ゼロくんはささみの梅しそ揚げを一口でぱくっと食べた。
 可愛い顔してわりと豪快に食べる人なのだ。見ていて美味しそうなのでゼロくんとご飯を食べるのは楽しい。
 私はというと串が喉に刺さりそうで怖いので、串から具を外して食べる派である。固くて豚が取れないけど。
 取れない。
 本当に取れない。

「次どこ行こうねぇ。今度は四人で集まれたらいいけど。ヒロくん元気にしてるの?」
「あんまり顔は会わせないけど、連絡してる限りだと元気そうだよ。どこか行きたいところでもあるのか?」
「うん。来年の春に、フランスの現代アート作家の大規模展覧会が国立新美術館でやるって。ずっと気になってたんだけど、常設展は香川県だからちょっと行けなくてね」
「そうか。……来年の春か」
「忙しい? 無理しないでね。新美くらい一人で行けるよ」

 ゼロくんの整った薄い唇が、やさしい形に笑みをつくった。

「無理はしていない。一緒に行きたくていつも行ってる。……貸して」

 と言いつつゼロくんは私の手から豚串を取り上げた。話の間じゅうずっと串から外そうと四苦八苦しても外れなかったのだが、ゼロくんはいとも簡単にお箸で挟んでお皿に落としてしまう。
 ひょいひょいと箸で掴まれた豚さんが私のお皿に戻ってきた。

「ありがとう。きゅんてした」
「安いキュンだなぁ。串のまま食べればいいのに」
「喉に刺さりそうで怖いんだよね」
「最高に串揚げに向いてないなぁ」

 苦笑するようにバカにするように、くしゃりと笑み崩れるゼロくんは多分、ちょっと酔っている。
 なんだか今日はずっとにこにこしているな。

 それから飲みすぎない程度にお酒やソフトドリンクを飲んで、お腹いっぱい食べて、デザートにアイスを頼んで、私たちはのんびりと過ごした。
 そろそろ帰ろうかという時間になってお店を出ると、ゼロくんは本当にさりげない仕草で私を歩道側に立たせて、ごく自然に私の歩幅に合わせる。

 私は昔から歩くのが遅くて、周りに合わせて速足になることが多かったのだが、ゼロくんと二人で出掛けたあるとき「そんなに急がなくていい」とおかしそうに笑われたので、それからは彼に合わせてもらうのが当たり前になっていた。
 帰り道、ゼロくんは喋らなかった。
 もういい加減つきあいは長いから、沈黙になってもちっとも平気だ。
 得難い友人だと思う。こういう相手と結婚できたら、きっと自然体のままでいられるんだろうなぁ。
 九年も一緒にいて一度も意識しなかったといえば嘘になるけれど、なんとなく男女の仲でないこの距離が一番心地よかった。多分それはゼロくんも同じだろうから、まあしばらくは変化しないんだろう。

 私の住むアパートの前まで来て、では、と向かい合う。

「いつも家まで送ってくれてありがとうね」
「ああ。気をつけて」
「気をつけてっていうかもうアパートの前だけど。ゼロくんこそ明日からも気をつけて」

 バッと両手を上げると、ゼロくんは苦笑いしながら身を屈めた。正絹のようなミルクティブロンドの髪の毛をわさわさ撫で回し、頑張れー、と念を籠める。相変わらずサラサラで羨ましい髪質だこと!
 ゼロくんは頑張り屋さんだ。
 他人に厳しく、自分にはそれ以上に厳しい。妥協を許さず、信念に真っ直ぐだ。そんな彼が警察官を目指していると聞いたとき、似合うなと素直に納得した自分と、いやそれはいけないと不安を抱いた自分がいた。


 ──正義に殉じる彼の姿が、あまりにも容易に想像できてしまった。


「……まあゼロくんはしっかり者だからそんなに心配はしてないけど。ご飯をちゃんと食べて、ちゃんと寝て、湯船に浸かって、無理せず、健康に気をつけること!」
「お前は俺の母親か」
「美人は真顔でいると怖いんだから、ちゃんと愛想よくするんだよ。ムカついても笑顔で威圧とかしちゃだめだからね!」
「わかったよ母さん……」
「しんどくなる前に連絡してね! なんか美味しいもの食べに連れてってあげる!」
「それは楽しみだ」
「今度は私いちおしのイタリアンに行こうではないですか」

 フフンとたいして大きくもない胸を張ると、ゼロくんは力の抜けたような笑みになった。
 うんうん、そうそう、いい感じ。きみはもっと自分を甘やかして、許していい。
 それが難しいというのなら、私がゼロくんのぶんまでゼロくんを許して甘やかしてあげるから。

「じゃあ、またね」
「ああ」

 手を振りながらアパートの階段を上がる。二階の部屋の前から見下ろすと、ゼロくんはひらひらと手を振っていた。もう一度私も手を振って、それで部屋のドアを開ける。
 いつも通りのお別れだった。
 またねって手を振って、ゼロくんもああって手を振ったのだ。
 なのに。



 それ以降、ゼロくんからの連絡が途絶えた。
 ヒロくんも同じだ。



 メールを送っても返事がない。電話をかけても出ない。どうやらアドレスを変えたとか携帯が変わったとかではないようだが、レスポンスが一切なくなった。最初のうちは無視されているんだろうかとか絶交されたんだろうかとか落ち込んだりしたものだが、自分も働いている以上は否が応でも月日が流れる。
 同じく音信不通となったという水脈とともに彼ら二人のことを気に掛けつつ、二年が経ったある日、私は偶然とある小説を読んだ。
 公安小説、と呼ばれるジャンルのもの。
 公安警察。公共の安全と秩序を維持することを目的とする警察で、活動内容が秘匿されておりその実態には謎が多い。主に国家体制を脅かす事案に対応する部門であり、調査に当たり必要とあらば違法行為も厭わない側面がある。任務の内容如何によっては知人友人との関係を絶つことも多く、家族に対しても仕事内容を伏せ、その死後にようやく概要を知らされるといったケースが珍しくない───

 確信があったわけではないものの、十中八九これだという予感があった。
 警察学校でも優秀だったはずのゼロくんとヒロくん。解約されたわけではない携帯。でも返事が来ないメールに応答のない電話。あまりにもいつも通りだった最後の夜。そういえば、どこの交番に配属になったのか、二人は一度も教えてくれなかった。恥ずかしいだろ、とか言って。

 きっとそうだ、と思うことにした。
 例えゼロくんたちが、本当は私や水脈のことが嫌になって音信不通になっただけなのだとしても、秘匿部署に配属になって交友関係を絶つ必要があったのだと信じていたほうがまだましだった。





「八五〇円になります」

 高校時代、一緒になってクリスティー文庫読破を目論んだ友人と同じ顔の店員が、レジカウンターでニコニコと私の支払いを待っている。小銭がなかったので千円札を置き、彼がお釣りを揃えるのを待った。

 知っているか知らないかは解らないが、彼に伝えておかなければならないことがある。

「このお店の名前って、やっぱりエルキュール・ポアロから来ていますか?」
「はい、そう聞いています。マスターがミステリー好きだとか」

 見上げると、彼はニコリと人好きする笑みを浮かべた。
 ああ、そうか、別人みたいだって感じたのはこの笑顔のせいか。……ヒロくんの優しい笑い方に、限りなく似せている。

「私さっきポアロの実写映画を観てきたんです。だからなんとなく縁を感じて入ってみたんですけど、落ち着いていていいお店ですね」
「ありがとうございます、マスターに伝えておきますね。映画どうでした? 僕も観に行こうかどうか迷っているんです」
「面白かったですよ。店員さんもミステリーが好きなんですか?」
「ええまあ。本業は私立探偵をしておりまして」

 ……私立探偵?
 っていうと最近よくテレビで見る毛利小五郎とか、一時期有名になった工藤新一とかのアレ?
 なんだそりゃと思ったものの、これはゼロくんなりに私に情報をくれようとしているんだなと感じて、「へえ探偵さんですか」とうなずいておいた。

「……毛利小五郎さんとか、工藤新一くんみたいに、事件の謎を解いてくれるんですか?」
「依頼があったり、現場に立ち会ったりすれば対応はしますけど、基本は素行調査とか人捜しとかそんな程度ですよ。何かお困りごとでも? あ、これ名刺です」

 受け取った名刺には必要最低限の情報しか記されていなかった。
『私立探偵』『安室透』それから電話番号。事務所を構えているわけではないらしい。もしかしたら警察官から探偵にジョブチェンジした可能性もあると思っていたけれど、名前が偽名だからやっぱり潜入のほうだろう。

「高校生の頃からずっと仲良くしていた友人が、去年」

 ここまで言えばこの『友人』がゼロくんでもヒロくんでもない、水脈のことだと彼なら気付く。
 差し出された名刺を財布に入れる指先が震えたことを見咎めてか、ゼロくんはそっと息を詰めた。


「……ころされまして」


 さすがに白昼の喫茶店でする話ではないなと思って声を潜めた。ゼロくんなら唇の動きで読んでくれるだろう。案の定彼は、少しゼロくんの垣間見える表情で目を見開いた。
 紺碧の双眸が私を見る。
 本当なのか、と問うている。

 ゼロくん、私、こんなくだらない嘘つかないよ。
 あのときばかりは連絡がつかない二人を恨んだ。……一緒にいてほしかった。一緒に泣いて、悼んでほしかった。

「未解決のままなので、もしかしたらと思ったんですけど、まあこういうのは警察にお任せするのが一番ですよね。でも名刺は頂いておきます」
「あ……はい。何かお力になれることがあればご連絡くださいね」
「ありがとう。ケーキもコーヒーも美味しかったです。また来ていいですか?」
「もちろんです。またお越しください」

 作られたその笑顔を見て、失敗したな、と内心で臍を噛む。うまくほほ笑みを返すこともできないまま、私はドアベルを鳴らして店を出た。
 また来ていいですかなんて訊かなければよかった。
 今のゼロくんは店員さんなのだから、来ないでくださいなんて言えないのに。もちろんですなんて言わせてしまって申し訳なかったな。接触しないに越したことはないのだ、でなければ一体なんのために連絡を絶ったのか。

 もう二度と来ないようにしよう。
 元気にしているって解っただけで十分だ。

 それでもやっぱり苦しくて、ほんの少し目頭が熱かった。
 本当は助けてほしい。
 ゼロくん助けてって縋りついて、水脈が死んだときのことを洗い浚い話して、お願い犯人を捕まえてって喚き散らしたいし、水脈の話を聴いてほしいし、隣でうんうんってうなずいていてほしい。水脈が死んだあの日からわたしの時計は止まったままだ。事件が解決しないから、あの日に囚われたまま前にも進めない。
 死んだ水脈を置いて歩いて行くなんて、私にはできない。

「あのっ……」

 カランとベルが鳴って、ゼロくんの声が重なって聞こえた。
 眦の涙を指先で擦ってから振り返ると、安室透の顔をしたその人が、眸にほんの少しゼロくんを滲ませて立っている。

「お悔やみを……申し上げます」

 私の歩幅にしてたった三歩。
 ゼロくんならえいっと一歩で詰められるような距離にいてなお、『初対面』の客と店員ではこれ以上の会話はできない。それでもその眸が、蒼穹か大海のような双眸が痛々しく細められて、ゼロくんの胸の裡に仕舞った言葉を教えてくれた。


 つらいときに一人にしてすまない、と。
 私の知る彼ならそう言っただろう。


 ゼロくんからそれ以上の言葉はなく、私は一度深々と頭を下げてその場を去った。



(このあと劇場版よろしく爆弾事件に巻き込まれて解体してみたり、水脈の事件を解決したり、なんやかんやあってそしかい後、二人でお墓参りをしたりする展開があったりなかったり)