朝、起きて、呼吸を確かめる。
 ──残念なわたしが今日も生きている。


 身だしなみをととのえて、お母さんの準備してくれた朝食をとり、かばんを持ってローファーを履いた。玄関の扉を開ける前に立ち止まり、ひと呼吸。
 家から出ていくと考えただけで、なんだか呼吸が苦しくなる。
 それでも学校に行かないわけにはいかない。制服の上から胸元を触って、そこにきちんとお守りの感触があることを確かめる。調子をととのえるための決められたルーティン、教えてくれたのはお隣さん。今頃、体育館で男子バレー部の朝練をしている頃だろう。そのもう一軒お隣さんの彼も、少し眠たそうにしながら練習しているに違いない。
 二人の顔を思い浮かべたら、すこし気が楽になった。
 今から行くのは彼らと同じ学校だ。
 大丈夫、地獄ではない。


EINE KLEINE



 学校についてからの八時間は、じわじわと窒息していくように感じる。
 授業中はまだ、いい。しずかだし、集中していればちゃんと時間が過ぎていく。休み時間と、特にシンドイのは昼休みで、わたしは教室の喧騒からひたすら顔を背けてイヤホンで音を遮って手許に小説を広げてとにかく存在を押し殺す。
 防ごうとしても防ぎきれない、同じ高校に通う普通の人たちの笑い声、話し声、足音、息遣い、すべてが頭の中で反響する。反響して、代わりに胸のうちを満たすのは劣等感だ。わたしはきっと、ああはなれない、という。
 生きていることがはずかしい。消えてなくなってしまいたい。
 でもそれは許されない。一番、許されないことだ。

 ホームルームが終わったら荷物を片付けて、本校舎の三階にある自習室へ。
 自習室を利用するのは基本的に受験モードに入った三年生ばかりで、みんなしずかに勉強しているから、教室にいるときよりいくぶんかましだ。隅のほうに席をとって、その日の授業の復習をする。たまに復習しないで本を読んでいることもある。自分のこれまでの学習には穴があることもわかっているから、中学の教材を広げることもある。
 十九時近くなると、だんだんと自習室からも人が減っていく。
 わたしも同じように教科書とノートをカバンに入れて、生徒玄関へと向かった。ローファーに履き替え、すのこに座って、ぼんやりと外を眺める。

 七月。
 傾き始めた陽が、空をだいだい色に染めていた。
 東のほうはもうだいぶん藍色の帳が引っ張られてきている。このくらいのグラデーションが、きれいで好きだ。
 しばらくすると、体育館のある方角から男の子が歩いてくるのが見えた。
 猫背。くたびれたような歩き方。研磨だ、と判断して立ち上がり、こちらに向かってくる彼へとわたしも歩きだす。

「おつかれさま。けんま」
「……うん」

 げっそり、て感じ。研磨は基本的にスタミナがないから、部活終わりはいつもくたくたのへろへろのよれよれだ。
 それでもわたしを見つけてほんのちょっとだけ目元が緩む。わたしもその表情を見てようやく呼吸を取り戻した。肺、だけじゃない、頭とか、手足の先とか、全身まで酸素と血液が行き渡る。

「てつくんは?」
「自主練」

 けんまは、お隣のお隣さん。保育園のころからの幼なじみ。
 てつくんはお隣さん、小学校二年生のころからの幼なじみ。
 ふたりはこの音駒高校で、バレーをしている。

 研磨と一緒に校門まで歩いていく途中で、男子バレー部が活動している体育館の前を通りかかった。出入り口からは背の高い男の子が何人かボールを拾ったり打ったりする様子が見える。先月、夏のインターハイ予選をベスト16で敗退し、三年生が引退してからは、こうして自主練をする部員が増えてきたそうだ。
 てつくんが新主将となったことでずいぶんと風通しがよくなり、一年生も二年生ものびのび練習できるようになったみたい。全国制覇という大きな目標を掲げて、一か月後に始まる春高バレーの予選へと邁進していると聞いている。
 サーブの練習をしている部員が、体育館の壁際に立ってボールを持った。両手の五指で挟んだボールをしゅるると回して、一度体育館の床に叩きつける。バウンドして戻ってきたボールを左手に載せ、一呼吸ののち高く上空へと放り投げた。少し前へ流れた。
 追いかけるように助走を取ったその人が床を蹴りつける。
 体を折り曲げながら振り抜いた右手が最高到達点でボールを捉えた。ジャンプサーブ。男子バレーにおいてはときに時速一二〇キロを超えることもあるという、最短の攻撃。ドガァン、とおよそボールの立てるものではない音が聞こえて、サーブをした当の本人が「ギャアア」と悲鳴を上げた。……聞き覚えのある声だ。あれ、てつくんだったのか。
 ちょっとびっくりして立ち止まったわたしに合わせて、研磨も足を止めた。

「どしたのかな」
「ホームランしたんでしょ」
「ああ。壁に当たった音……」

 どうりで尋常じゃない音だったわけだ。てつくんは目下ジャンプサーブの練習中だと聞いている。
 眺めているうちにてつくんがこっちに気付いて、腰の辺りで小さく手を振ってくれた。完全無視の研磨のぶんまで両手を振って返す。他の部員の人に気付かれないうちにさっと手を下ろして、帰ろうかと研磨を見ると、彼は顔をしわくちゃにしててつくんを睨んでいた。

「……けんかでもしたの?」
「べつに、そうじゃないけど」

 訊きながら違うだろうなとは思っていたけど、やっぱりけんかではないらしい(だって、てつくんと研磨がけんかになっているところを見たことがない)。
 でも研磨はわたしのほうを見て、盛大に、それはもう盛大に何か言いたそうな顔になって、それから嫌そうに口を閉ざした。なんだろう?

「……かえろ」
「そこまで言いかけて飲み込まれたら、気になるよ」
「あとで言う……」

 まんまるい猫背の研磨がだらだらと歩きだしたので、とりあえず追いかけた。
 研磨が話を切り出すまでのつなぎ、がてら普段の習慣どおり、お互いに今日のできごとをぽつぽつと話す。といっても起伏の少ない毎日を送るわたしだから、今日も疲れたなとか授業のここが難しかったとかそんな程度だ。研磨のほうは主に部活の話で、レシーブの練習が痛いとか同級生の山本くんが賑やか熱血タイプで苦手とか。
 話題はすぐに尽きて、家が近付いてくるころには無言になる。
 でも研磨といるときは無言の時間が多いから、このほうが自然。

「……あのさ」

 とつぜん研磨が立ち止まったので、三歩ほど行きすぎてから振り返った。薄暗くて表情はよく見えないけど、あきらかにそっぽを向いている。

「今日、クロと話したんだけどさ」
「うん」
「梓、男バレのマネ、や……らない?」

 ──なにを、言われたのかと思った。
 まさか、可能性は低いけど、これからは部活終わりに残って自主練するからもう一緒に帰らないとか、そういう話なのかとほんのちょっと予想していたのに、余裕で斜め上をいく発言だ。理解が追いつかなくて黙りこくったわたしに何を焦ったのか、研磨は早口になってまくしたてる。

「三年生、引退したし……。クロも、おれもいるし、他の一年とか二年はそんな嫌な人、いないし。いつも、部活終わるまでひとりで待ってるくらいなら、マネやったらいいじゃん、って。……クロが」

 あ、と合点がいった。それでさっき嫌そうな顔してたのか。てつくんが提案したのに、勧誘は研磨に全振りしたから。

 ……男バレの、マネ?
 って多分スポーツ漫画とかでよく見る女子マネージャーってこと、だよね。
 どういう仕事があるのかはふんわり知識だけど。準備や片づけを手伝ったり、飲み物を準備したり、お洗濯したり、おにぎりつくったり。
 ……わたしが?
 頭の中でしずかに大混乱を起こしていると、研磨はちらりとわたしを見た。

「嫌ならいい、おれからクロに言う、から」
「あ……。えと、たしかに研磨やてつくんとバレーの練習するの好きだけど、中学も、一瞬だけ女バレだったけど……。全然そういうの、考えたこと、なくて、びっくりした」
「だろうね……」
「いま、学校行くだけで、精一杯だし」
「わかってる。クロにも言ったしクロもそう言った。でもどうせ毎日おれの部活終わる時間までいるじゃん」

 それはまあ……本当にそうですけども。

「そんな、女子マネが必要なくらい大変なの?」
「そうでもない。そんな規模じゃないし」
「じゃあ、わたしが入らなくても別によいのでは……」
「うん。でも」

 うつむきがちの研磨がひとつ瞬きを落として、それから顔を上げる。
 街灯を浴びて、金色にきらりとひかる猫目。
 研磨はたまにこういう顔をする。人見知りで引っ込み思案で、疲れるのもしんどいのも嫌いなくせに、誰が見ていても見ていなくてもとにかく最後までやり抜く研磨は、ときどきわたしの怠惰を赦してくれない。
 それは、獲物を追い詰めるような険しいものではなくて。
 むしろ優しく優しく囲い込まれて、気付いたら逃げられなくなっているみたいな。
 そのくせぎりぎりのところで、逃げたかったら逃げてもいいよって、包み込んでくれているような。

「梓が、いたらな。って……思うことあるから」

 抑揚の薄いそんな軽さで、熱のなさで、ずるいことを言う。
 研磨にそういうふうに言われたらわたしは断れない。てつくんもそれがわかっていて研磨に言わせたんだろう。
 わたしの幼なじみは二人ともずるくて、やさしい。

「梓?」

 朝、起きて。
 今日も今日がはじまることに絶望して。
 ゆっくりと窒息してゆくような一日を過ごして、家族と研磨とてつくんと限られた人々と関わりながら、明日がくることに絶望する。そんな毎日で精一杯だったし、多分死ぬまでこうなんだろうなぁと思う。人間、すぐには変われないから。
 でも、もしも、それだけではない人生を、研磨たちが提示してくれるのならば。

「……や、」
「うん」
「やり、…………、自信、あんまり、ない」
「うん」
「けど、けんまと、てつくんが、嫌じゃないなら……」
「誘ってるのこっちだよ……」

 研磨はちょっとだけほほ笑んだ。うんそれで、って相槌を打ってくれるいつもの研磨。

 ──でも、もしも、
 窒息してゆくだけではない毎日を、研磨と一緒に過ごせるのならば。

「やって、みたい」

 言い切ると同時に涙がこぼれた。研磨はすこし困ったような顔をして、黙ってわたしの手を握った。


Prologue:Tranquillo